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芭蕉の「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」の部分ですが、昔から、授業を受けても本を見ても、何十年も意味が分かりませんでした。つい最近、インターネットで英訳が出ていまして、月はmoon、日はsunと訳してあるのがありました。それで自分なりに解釈すると次のようになりました。
「月日」は月と太陽で、つまり3次元の実体で、「空間」を意味する。
「行かふ年」は「時間」を意味する。
つまり、「時間も空間も旅人のように一定の場所にとどまってはいない。」あるいは「時空は動く」となります。
これは、自己流のかってな解釈でしょうか、あるいは、既にこのような解釈はあるのでしょうか。
私はずーっと理系の仕事をしていまして、文系は全く出来ません。よろしくお願いいたします。

A 回答 (6件)

こんばんは。



私が習ったのは、
月日→時
百代→過去、現在、未来、つまり永遠
過客→旅人
の意で、
「時というのは、過去から未来にわたって永遠に旅する旅人であって、
来ては行き、行ってはまた来る年も、旅人なのだ」と。
何でも、唐の李白(?)だかの「光陰は百代の過客なり……」
という当時(江戸時代)よく知られた句のもじりで、
旅人である我が身もそれになぞらえた、とのことだったような…。

いずれにしろ、何だか観念論的ですよね。
質問者さまの時空説もステキな解釈だと思います。

この回答への補足

ありがとうございます。李白について早速勉強してみます。

補足日時:2009/03/14 23:04
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 回答番号:No.2


 日月というと、太陽とか星辰というイメージでしょうかね。
 日月星辰でいっぺんで変換しますし。つまりお日様とお月さま。という二つのもの。
 でも月日は時間なんでしょうね。単なる私の主観的受け取りでしょうかね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。皆様の多様なご意見をいただくことが出来まして感激です。

お礼日時:2009/03/16 23:02

NO4です。

一箇所間違えました。
「青桃」ではなく「桃青」です。李白の「李(スモモ)」に対して「桃」。「白」に対して「青」です。
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この回答へのお礼

重ねてありがとうございます。

お礼日時:2009/03/15 23:01

>芭蕉の「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」の部分ですが、昔から、授業を受けても本を見ても、何十年も意味が分かりませんでした。

つい最近、インターネットで英訳が出ていまして、月はmoon、日はsunと訳してあるのがありました。それで自分なりに解釈すると次のようになりました。
「月日」は月と太陽で、つまり3次元の実体で、「空間」を意味する。
「行かふ年」は「時間」を意味する。
つまり、「時間も空間も旅人のように一定の場所にとどまってはいない。」あるいは「時空は動く」となります。
これは、自己流のかってな解釈でしょうか、あるいは、既にこのような解釈はあるのでしょうか。
私はずーっと理系の仕事をしていまして、文系は全く出来ません。よろしくお願いいたします。

この文章の元になったものは、中国唐朝の詩人李白の「春夜宴桃李園序(シュンヤトウリエンニエンスルノジョ)」の冒頭部分です。芭蕉は若い頃に青桃と号したように李白に傾倒します。文学作品にも李白の影響が多く見られますし、奥の細道の序文もその例です。
さて、李白の原文は次の通りです。
「夫天地者、万物之逆旅、光陰者、百代之過客。而浮生若夢、・・・・(夫れ天地は、万物の過旅〔ゲキリョ〕にして、光陰は、百代〔ハクタイ〕の過客なり。而〔しか〕して浮生は夢の若〔ゴト〕し)」
語意
天地=ここでは世界、世の中。万物=全ての物。百・千・万などは多くの、全ての意味を持つことが多い。逆旅=旅館、ここでは仮の宿の意味。光陰=年月・時間。百代=永遠。過客=旅人。浮生=はかないこの世、浮世、はかない人生。

さて、この世の中の全ての物は仮の宿であり、時間や年月は永遠に留まる事を知らない旅人である。そうしてはかない人生は夢のようなものである。
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」の訳
月日(年月や時間)は永遠に旅を続ける旅人であり、行き過ぎる年もまた同じく旅人である。
*時間も物もこの世にある全てが留まることのない旅人のような存在である。方丈記の冒頭の「行く川の流れは絶へずして、しかももとの流れにあらず」に通ずる無常観を表しているとも考えられます。
以上、参考まで。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。春夜宴桃李園序も勉強してみる意欲がわきました。

お礼日時:2009/03/15 21:21

南宋の謝氏が撰編し明代の雛氏が続巻を加えた「文章規範」は、日本には室町末期に伝来し、もはや江戸時代ともなると作文の模範書として大いに巷間に行き渡っていたようです。


その中に、李太伯「春夜宴桃李園序」として「夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代乃過客」も載っていますし、あるいは「しかつめらしいご仁」の代名詞としても知られる「古文真宝」にも同様記載されております。

いやしくも当時の文人墨客ならば知らぬ者ないはずの元の文章の方では、「天地は万物の逆旅」として、まずは天地は万物の容れ物(世界を成す空間)であり、一方「光陰は百代の過客」として時間は永久に流れ行くものであり、その二大提示をはっきり行っていますから、その元の文章を知っている読者を相手する芭蕉の俳文の方では「旅人」という立場を引き出すための枕詞風に簡略化されているため、やや分かりにくくなっています。

それに、「行かふ年も又旅人也」の方も、あるいは元となる表現があり、たとえば次の言葉はいかがでしょう。
「時うつり、ことさり、たのしびかなしびゆきかふとも…」(「古今集 仮名序」)

ちなみに「管子」の「宙合」では「天地は万物の嚢(ふくろ)なり。宙合(ちゅうごう)は有(ま)た天地を嚢(たく)す」として、万物はすべて天地という空間袋の中にあるが、その天地もまた宇宙袋の中に入っているのだと。

したがって、このような本来対となるべき天地観想の方面が、その枕詞化で省略された芭蕉の文においてはむしろ、あるべきこの時空意識があたかも影を生しているようで、それだけを読もうとする者にとっては、むしろ混乱を招来しやすくなっているのかも知れません。

ところでこんな記述もあります。
「原文の「光陰」を「月日」に転じて用いたもの。この「月日」については、単なる時間的歳月・年月(としつき)の意だけでなく、月と太陽の意も含まれているとの説がある」(久富哲雄「おくのほそ道 全訳注」講談社学術文庫)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ご回答をくりかえし読んで勉強いたします。

お礼日時:2009/03/15 21:05

 月日でひとつのことばです。


 それを分解してsunとmoonにしてはなりません。
 その英訳の方の間違いです。
 年月、日々という過ぎ行くときを感嘆をもってことば表現しているものです。
 日月星辰など空間や時間、あるいはその運行をいう文章ではありません。見当違いもはなはだしいと存じます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2009/03/15 20:58

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