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 お世話になります。最近日蓮聖人の思想を勉強しておるものです。ちょっと分からない所がありますので、教えてください。

 日蓮聖人系の宗派のサイトを読んでいますと「阿弥陀仏は架空の仏であって、拝んでも何の意味も無い」という、批判があげられています。
 問1、こういった考えは、日蓮聖人のどのような文章が論拠となっているのでしょうか??


 また、『妙法蓮華経』の中にも

西方に二仏、一を阿弥陀と名け、二を度一切世間苦悩と名く。(化城喩品)

若し如来の滅後後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。」(薬王品)

と、迹門本門通して阿弥陀仏が説かれておりますが、『法華経』に説かれている阿弥陀仏と、『浄土三部経』で説かれている阿弥陀仏と違いはあるのでしょうか?真実の経に、架空の仏が説かれているというのも、不思議な気がします。
 このような問いに関しては、例えば中国唐代の天台宗の僧湛然は「『観無量寿経』に説かれている弥陀とは違う」といい、また恵心は「『法華経』に弥陀は、西方の弥陀ではなく、己心弥陀である」と解釈しています。
問2、日蓮聖人は『法華経』に説かれている阿弥陀仏にはどのような解釈を加えておられるのでしょうか?(特にこちらの文章が見つからず困っています。)

問1、問2、どちらかでも分かる方は教えてくさい。

A 回答 (7件)

<<補足への回答>>


私も完璧に観心より御書解釈できるレベルではないのでご容赦下さい。
あくまで私の解釈ですが、まず主の徳とは一切衆生を守護する徳の
ことですが、『南条兵衛七郎殿御書』での主徳は広義で守護の働きを
述べられており『主師親御書』では狭義として末法の衆生にとっては、
天に二日無きがごとく主は釈尊であって阿弥陀ではないという意では
ないでしょうか?また、観心からこの御文をひも解くと決して大聖人
は釈尊こそ私たち衆生の主師親具備の仏であるといいたいのではなく
五重相対における種脱相対、つまり下種の仏である日蓮こそ主師親
兼備の仏であるとの解釈になるかと思います。
教相:如来寿量品の教説(釈尊=仏 大聖人=僧と見る読み方)
観心:如来寿量品の教意(釈尊=正像時の仏 大聖人=末法時の本仏で釈尊の師)
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この回答へのお礼

 お返事遅くなって申し訳ありませんでした。色々調べていたら、お返事をする、時間がなくなってしまいました。
 いろいろ、分かりやすいことばで回答いただきありがとうございました。もうすこし、勉強させていただいて、また質問させていただきます。また、見つけたらお願いします。
 ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/23 14:08

日蓮大聖人が弥陀仏をどう位置づけていたか解りやすい説明の御書として「南条兵衛七郎殿御所」があり、次のように述べられています。


我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。
つまり簡単に解釈しますと、私達(末法の)衆生にとって阿弥陀仏と薬師仏等は主としての徳はあるが、親徳と師徳は兼備していない。ただ一人、主師親の三徳を兼ね備え、
恩が深い仏様はお釈迦様だけである。と述べられ、方便の教えの阿弥陀経に説かれている縁の薄い仏ではなく、お釈迦様が我等末法衆生が信じ敬うべき仏であると説かれています。

ただし御書を拝する際に注意が必要なのは、開会ということや文義意をふまえて読むということ、さらに教相と観心を正しく区別しながら読まなければ、
日蓮大聖人の意と異なった解釈になってしまうので独学で理解するのは大変難しいことだと思います。

この回答への補足

 回答ありがとうございます。返事が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
 確かに『南条兵衛七郎殿御書』には『妙法蓮華経』譬喩品「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我れ一人のみ能く救護を為す復教詔すと雖も而も信受せず」の文をもとに、三徳をもってお釈迦様の仏徳を説かれておられます。文中に
>>我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。
とご指摘があるように、お釈迦様は三徳兼ね備えておるけども、阿弥陀如来や薬師如来は三徳のうちで「主」は備えていても、「師」と「親」は備えておられないと解釈しておられます。しかし、「師」と「親」は分かるのですが「主」という意味がいまひとつ分かりません。「主」とはどのような意味であるか教えていただけませんか??


 また、日蓮聖人はこの三徳を『開目抄』や『撰時抄』または『下山御消息』の中では、自身の法華経の行者としての自覚に転用をされていきますが、自身の自覚としてではなく仏徳を三方向から表現するのに「三徳」を説かれている遺文は『南条兵衛七郎殿御書』と『主師親御書』が挙げられます。この後者の『主師親御書』の冒頭では、
「釈迦仏は我等が為には主なり師なり親なり一人してすくひ護ると説き給へり、阿弥陀仏は我等が為には主なら ず親ならず師ならず」
と説かれていて、お釈迦様は三徳を兼ね備えているけれども、阿弥陀如来は三徳全て備えていないと示されておられます。
 『南条兵衛七郎殿御書』では「主」はお釈迦様も阿弥陀如来も薬師如来も仏が共通して備えていた要素だったはずですが、『主師親御書』ではお釈迦様のみが備えている要素となっておりますが、この日蓮聖人の「三徳」論にどのような変化があったのでしょうか??

 確かに『南条兵衛七郎殿御所』のみで「三徳」を考えれば、
>>簡単に解釈しますと、私達(末法の)衆生にとって阿弥陀仏と薬師仏等は主としての徳はあるが、親徳と師徳は兼備していない。ただ一人、主師親の三徳を兼ね備え、
>>恩が深い仏様はお釈迦様だけである。と述べられ、方便の教えの阿弥陀経に説かれている縁の薄い仏ではなく、お釈迦様が我等末法衆生が信じ敬うべき仏であると説かれています。
となるかもしれませんが、『主師親御書』の文を読みますと、もっと根本的な否定のようにも読めますがいかがでしょうか??この二つの遺文にはどのような違いがあるのでしょうか?

最後にもう一つだけ
>>ただし御書を拝する際に注意が必要なのは、開会ということや文義意をふまえて読むということ、さらに教相と観心を正しく区別しながら読まなければ、
>>日蓮大聖人の意と異なった解釈になってしまうので独学で理解するのは大変難しいことだと思います。
私もまだまだ不勉強でして、文中の「教相」と「観心」という言葉の意味が、ぼんやりとは分かるのですが、ハッキリしませんので教えていただけると助かります。

 分からないところだらけではありますが、どうぞ教えてください。よろしくお願いします。

補足日時:2009/06/20 10:40
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございました。よろしければ補足の方も回答よろしくお願いいたします。

お礼日時:2009/06/20 10:43

NO3の人は的確ですね。


方便です。また衆生を導くためです。
真実の教えではありません。
成仏って人にいうことですから、自分に帰着するまでの方便ですね。

この回答への補足

 回答ありがとうございます。
>>方便です。また衆生を導くためです。
>>真実の教えではありません。
>>成仏って人にいうことですから、自分に帰着するまでの方便ですね。
 うーん。私の読解能力では、難しすぎてよく分からない。というのが正直な所です。ただ、この回答を読ませていただいて、いくつか思い出した日蓮上人遺文があります。日蓮聖人は『守護国家論』のなかで、
「法華経より外の四十余年の諸経には十界互具無し十界互具を説かざれば内心の仏界を知らず内心の仏界を知らざれば外の諸仏も顕われず故に四十余年の権行の者は仏を見ず設い仏を見ると雖も他仏を見るなり、二乗は自仏を見ざるが故に成仏無し爾前の菩薩も亦自身の十界互具を見ざれば二乗界の成仏を見ず故に衆生無辺誓願度の願も満足せず故に菩薩も仏を見ず凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界も顕われず、故に阿弥陀如来の来迎も無く諸仏如来の加護も無し譬えば盲人の自身の影を見ざるが如し。」
と説かれておられますが、このようなことをおっしゃりたいのでしょうか?

補足日時:2009/06/18 08:44
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございました。よろしければ補足の方も回答よろしくお願いいたします。

お礼日時:2009/06/20 10:42

「一谷入道女房御書」の中に「阿弥陀仏は十万億のあなたに有りて、此の娑婆世界には一分も縁なし。

なにと云ふとも故もなきなり。馬に牛を合はせ、犬に猿をかたらひたるが如し。」という文があり、「善無畏三蔵抄」には「阿弥陀如来薬師仏大日等は他土の仏にして此の世界の世尊にてはましまさず」という文がありますので、阿弥陀仏が架空の仏とまでは言っておらず、非常に遠くにいるから、娑婆世界にいる人間が拝んでも何の意味も無い、と言っているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございました。
>>阿弥陀仏が架空の仏とまでは言っておらず、非常に遠くにいるから、娑婆世界にいる人間が拝んでも何の意味も無い、と言っているのではないでしょうか。
 なるほど、確かにサイトを読んでいても「阿弥陀仏は架空の仏である」と、同じくらいの頻度で「阿弥陀仏は西方浄土の仏であって、娑婆の衆生を救うことはできない」という主張を良く見かけます。
 しかしこれに対しても、『妙法蓮華経』提婆達多品には、
「当時の衆会、皆龍女の忽然の間に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて宝蓮華に坐して等正覚を成じ三十二相、八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に妙法を演説するを見る。」
とあって、西方ではないにしても他方浄土に往生して、成仏することが可能であることが示されています。また、その南方無垢世界から、全て世界に住まう全ての衆生に働きかけることが可能であると説かれてもいます。
 そこでまた新たな疑問ですが、日蓮聖人が「提婆達多品」を解説されている史料をご存知無いでしょうか?もしご存知でしたら教えてください。
 また、新しい史料が集まりました。本当にありがとうございました。

お礼日時:2009/06/16 13:24

創価学会の者です。



阿弥陀仏というのは、いわゆる「浄土三部経」(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)のうち、無量寿経に説かれる仏のことです。

この浄土三部経は、釈尊が説いた一切経における位置づけとしては、法華経の開経とされる「無量義経」に「四十余年未だ真実を顕さず」とあるように、釈尊の真意である法華経を説く前段階としての、方便の教えです。日本における念仏の祖は、法然です。その著・「選択(せんちゃく)集」で法然は、釈尊一代の仏教を「聖道門と浄土門」「難行道と易行道」「雑行と正行」に分類し、浄土三部経以外の教えは「難行道であり雑行」として、「未だ一人も得道した者がない」「千人に一人も成仏する者はいない」「捨てよ閉じよ閣(さしお)け抛(なげう)て」と、「我が所説の諸経 而も此の経の中に於いて 法華経最も第一なり」(法華経法師品第10)とある法華経をも誹謗し、専修念仏を主張したのです。

ところで、その無量寿経のなかには、法蔵比丘の四十八願の第十八として「設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若(も)し生ぜずば、正覚を取らじ。唯だ五逆と誹謗正法とを除く」とあります。法然の論によれば、正法である法華経を誹謗することになってしまい、浄土に往生することができないことになります。さらに法華経譬喩品第3には「若し人信ぜずして此(こ)の経を毀謗せば……其の人命終して阿鼻獄に入らん」とあります。それゆえ、日蓮大聖人は四箇の格言で「念仏無間(地獄)」と破折されたのです。「日蓮一人・阿弥陀仏は無間の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗・持斎等は国賊なりと申す」(秋元御書)。大聖人は特に「立正安国論」で、法然破折の論を展開されています。

この回答への補足

 回答ありがとうございます。
 やっと、『秋元御書』等の日蓮聖人の遺文、または経典から論拠を挙げてくださる方が現れてくださって、嬉しく思います。
 しかし私の文章力の無さで、せっかく御回答をいただいたのに論点が少しずれておられますので訂正させていただきます。

 問1において私が尋させていただいたのは、「四箇格言」等の他宗批判の史料ではなく、現在の「阿弥陀仏は架空の仏で、拝んでも何の意味も無い」という批判は、日蓮聖人の史料から見出すことが出来るのかどうか?という質問です。
もしその答えとして、
>>浄土三部経は、釈尊が説いた一切経における位置づけとしては、法華経の開経とされる「無量義経」に「四十余年未だ真実を顕さず」とあるように、釈尊の真意である法華経を説く前段階としての、方便の教えです。
という部分を挙げて、『浄土三部経』は『無量義経』以前の方便経であるから、そこに説かれている阿弥陀仏は架空の仏であるとしておられるのでしょうか?では、『法華経』に説かれている、阿弥陀仏は架空の仏ではないのか?という疑問がわいてきます。

 そこで問2の質問が出てくるわけです。日蓮聖人は『浄土三部経』に説かれている阿弥陀仏と、『法華経』のなかでとかれている阿弥陀仏とを、それぞれどのように解釈しておられるのでしょうか?
 どうぞ、おしえてください。


 ここからは本来の質問とは関係の無い余談ですが、日蓮聖人の「念仏無間論」の論拠はnontro_08さんのおっしゃるとおり、『妙法蓮華経』譬喩品の
「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切 世間の仏種を断ぜん (中略) 其の人命終して 阿鼻獄に入らん」
という部分に、法然浄土教を当てはめることで生じる理論です。しかし、『撰時抄愚記』下には「亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師」と示されているように、亡国は真言のみに使われるものではなく、念仏・禅・真言に通じることになります。また、「念仏無間」の無間(地獄)について日蓮聖人は伝教大師最澄の『依憑集』に説かれる「謗る者は罪を無間に開く」の文を『報恩抄』『大夫志殿御返事』で引用されておりますが、無間地獄に落ちるのも念仏者限定と言う事にはならず、『法華経』を「信ぜずして此の経を毀謗」する者ということになります。
 しかし、法然上人は『選択本願念仏集』のなかで、
「傍らに往生浄土を明かす教といふは、『華厳』・『法華』・『随求』・『尊勝』等のもろもろの往生浄土を明かす諸経これなり。また『起信論』・『宝性論』・『十住毘婆沙論』・『摂大乗論』等のもろもろの往生浄土を明かす諸論これなり。」
と説いて、『浄土三部経』はもちろんですが『法華経』を信じ学ぶことを勧めています。これは「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば」に当てはまるのでしょうか?こういったことについての日蓮聖人の遺文はあれば、教えてください。

 分からない所だらけで申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。

補足日時:2009/06/15 10:37
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございました。よろしければ補足の方も回答よろしくお願いいたします。

お礼日時:2009/06/15 10:43

仏教というのは釈尊・仏陀の教えですからお経が違っても元は一人の教えですから「阿弥陀仏」も同じですよ。



問2、日蓮聖人は『法華経』に説かれている阿弥陀仏にはどのような解釈を加えておられるのでしょうか?

日蓮曰く「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」ですから、日蓮さんお経の内容などさっぱりわからなかったのでしょう。
言い換えれば、お経の内容などどの宗派の坊主もわからないんだから立派なお経というのであれば「お経」に帰依するだけにしとこう。
それが南無「法華経」でしょう。
天台宗系は開祖がさっぱり「法華経」の内容がわからなかったのだから後代の学生日蓮が解釈しょうもなかったでしょうね。
念仏にしろ、お経から「阿弥陀仏」を拾い出してそれをよりどころにして南無「阿弥陀仏」ですから。さほどの違いは無いと思いますよ。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 しかし、私が今回求めている回答は四箇格言のような他宗に対する批判的史料ではなく、念仏宗批判の延長にある阿弥陀仏や西方浄土そのもの対する批判的史料、または「妙法蓮華経」に説かれる阿弥陀仏および西方浄土に関する史料です。お答えは論点がずれているように感じます。
 また、確かに法然上人を中心とした日本浄土教に対して日蓮聖人は、初期の頃から批判的な態度をとっておられました。しかし、
>>日蓮曰く「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」ですから、
とおっしゃる四箇格言について、日蓮聖人自身の真筆の中で全ての宗派をこのような対句表現によって非難していたかどうかは、いまだに疑問視する声も根強く残っています。四箇格言が、日蓮聖人のどのような遺文を論拠としているか、当時の諸宗派がどのような状況にあったのかという歴史的背景を考察せずに、四箇格言を説いたから
>>日蓮さんお経の内容などさっぱりわからなかったのでしょう。
と結論付けてしまうのはいかがなものでしょうか??悪しからず。 

お礼日時:2009/06/14 13:13

高校の歴史を勉強した人なら誰でも知っているはずですが、


釈迦は今から約2500年前の実在の人物で、仏教の開祖ですが、彼の死後数百年経って興ったのが大乗仏教です。
そこでは釈迦の教えをベースにインド哲学が加味された創作で、当時にすれば新興宗教ともいえるものです。
ご質問の阿弥陀如来の他にも、薬師如来、大日如来、観世音菩薩、地蔵菩薩その他の仏は創作と言えます。
経典についても華厳経、法華経、般若経、浄土教など多くの経が創作されています。

またその大乗仏教が中国に渡り儒教の影響を受けてまた変化し、朝鮮半島を経て日本に伝来しています。
もちろん日本の仏教のすべてが中国の儒教の影響を受けた大乗仏教です。

このため根を同じとする創作の経典の法華経を信じる日蓮宗が、阿弥陀仏を架空のため拝むことに意味がないということは、自分たちの基盤そのものを否定していることにもなります。
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この回答へのお礼

 まず、回答ありがとうございます。
 しかし、今回の質問は「日蓮聖人の阿弥陀仏に対する批判的思想の史料」に対する質問あって、「大乗非仏説」云々ということではありません。悪しからず。

お礼日時:2009/06/13 16:35

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