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五胡十六国時代、漢族以外はそれぞれの民族の言語でしゃべっていたのでしょうか。

五胡の君主たちは、漢族の臣下と不自由なく漢語で話していたのでしょうか? 通訳を介していたのでしょうか。(劉淵などは話せたと思いますが。)

庶民も支配階級も含め、毎日どんなふうにしゃべって暮らしていたのかイメージがわかないのです。

A 回答 (2件)

南朝のことはよくわかりませんが


五胡十六国時代の文書や碑文を見る限り上層支配層の胡族は中国語を使用していたようです
北魏の孝文帝が突如平城から洛陽に遷都し北族の胡語胡俗を禁止し
華夷思想により北族であった彼等が他の北族を夷狄と認定しました
逆を言えばそれまで北族は自民族の言語慣習を引き継いでいたということです
孝文帝自身歴代皇帝の漢族との通婚で北族の血が薄れていたこともありますが
北族の上層貴族にとり漢族との通婚や漢人風俗を真似ることはステイタスの一つでした

ただ北族の慣習が全て失われたというわけでなく、例えば王族の早婚、13、14歳で父親になることも少なくなかったようです
しかしこのような漢族慣習の強制は特に疎外された北族の反発を食い反乱が頻発
孝文帝が10代前半でもうけた皇太子も北族の不満を理解し反乱を起こしました
やがて禁軍(近衛部隊)や辺境防衛の任にあった六鎮の乱等反乱が頻発します
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この回答へのお礼

「歴史」という大きなジャンルのなかではマイナーな話題なので、回答が付かないかと思っていましたがありがとうございます。

北魏時代にいたっても胡語の禁止令が出るということは、ずっと民族の言葉が使われていたのですね。ただ上層部は漢語を使える教養があった。あるいは共に商売をしたり盗賊をしたりしていた人々は話せた(石勒などそうではないかと)。
 また妻が漢人だと子どもは母親の言葉を身につける。少数民族同士の結婚でも両親の民族が異なると、共通語として漢語を使う。ということでだんだん胡語のみを使う人が「格差社会」の底辺層に分離していったということなのだろうと思いました。

お礼日時:2009/06/21 11:03

>1です



回答に字数制限があり、なかなか上手くまとめられず申し訳ありませんでした

補足ですが
石勒は奴隷状態では到底教育を受けられるわけもなく
隷属身分から解放され盗賊団「十八騎」に入団し、そこで初めて盗賊仲間の漢人たちから言葉を教えてもらったようです
石勒が部隊の将となってからは出陣中に儒生に史書を読ませ過去の皇帝の善悪を論ずるまでになったと言われています

この石勒の後趙こそ十六国中で最も徙民(強制移住)を行った国です
他の十六国もそうですが、これで漢族と胡族が雑居状態となりました
北原における漢族と胡族の人口割合が10:9と言われてるいるため
下層民の胡族が一方的に漢文化に吸収されたということはなかったでしょう

前秦時代の支配下胡族は五胡を含め12民族いたと言われ
その中には粟特と呼ばれた中国に定住したソグド族もいました
彼等は商業民であるがため、漢語、他の胡語問わず話せたことでしょう
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この回答へのお礼

盗賊仲間からレッスンというのは面白いけど、そうだったのでしょうね。

商業の民は数ヶ国語を操れるでしょうね。民族入り乱れての生活というのは島国ではわかりにくいものがあるけれど、言葉は何とかなる、みたいな感じかな。

お礼日時:2009/06/22 12:03

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