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親鸞あるいは蓮如は布教の拡大にあたって必ずしも在来の神道を排除しなかったようですが、具体的に真宗の教義の上で神道をどう理解し、解釈していたのか、これに触れている文献等があれば教えてください。
また、真宗の立場からみて天台系神道と真言系神道との間に違いはあったのでしょうか?
それとも系列の如何を問わず、神道は仏教と両立し得るとみて、真宗門徒が神社を作り、神を祀ることを容認したのでしょうか?

A 回答 (5件)

そもそも「神道」という枠組みは後代になって遡及的に作り上げられたもので、親鸞を含めて当時の僧侶が神仏習合の世界観を持っていたのは当然のことです。

親鸞は今でこそ、ひたむきな絶対他力主義を根幹にした神祇不拝の先駆とされますが、彼自身は神道を排除すべきだとは考えていなかったでしょう。それはそもそも「神道」を切り出して認識する視座が存在しなかったからです。

明白な文献は多くありませんが、例えば親鸞作の和讃にはいくつか神仏習合を伺わせるものがあります。

天神地祇はことごとく
善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに
念仏のひとをまもるなり

また、歎異抄には、
信心の行者には天神地祇も敬伏し魔界外道も障碍することなし
とも示されています。
さらに消息文の中には次のようにもあります。

此世の祈りに仏にも神にも申さむことは、そも苦しく候まじ。後世の往生の為には、念仏の外にあらぬ行をするこそ、念仏を妨れば悪しきことにては候へ。此世の為にする事は、往生の為に候はねば、神仏の祈り更に苦しかるまじく候。
仏法をふかく信じるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちにそへるごとくして、守らせたまふことにて候へば、念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまふさんと思ふこと、ゆめゆめなきことなり。

要するに、神祇信仰は往生のためには(専一なる念仏に違背するので)いささか不向きだが、現世利益のためには誠に効験があるものであるし、護法神としての神々は念仏者の守護神でもある、ということが説かれているのです。
これらを見ると、親鸞における神仏習合の姿勢にはあまり疑いをさしはさむ余地がないのではないでしょうか。

親鸞の後、覚如「親鸞伝絵」や存覚「諸神本懐集」「六要抄」などにおいて神仏習合を明確に教義の中にくみ入れていることは、自然に見れば親鸞の時点において少なくともそれを否定しなかったことが反映されているとみるべきでしょう。よく言われるように、覚如や存覚が封建体制におもねたとか、親鸞の本意を汲んでいない、といった非難は私にはあまり正当なものに思えません。

ただもちろん、存覚が「諸神本懐集」の中で、権社の神と実社の神を区別したうえで阿弥陀仏を本地とする垂迹神は権社に限られる、などといった区別を設けているなどというレベルに至っては、これは親鸞のあずかり知らぬところ、と言えるでしょう。
むしろ親鸞の意識の中では、本当の神は阿弥陀仏を信ずるものも助けるものであるし、生霊や死霊の類であるところの仮の神は拝む対象ではないが、そうなればなおのこと阿弥陀仏の救済によって成仏せしめる必要がある、という風に考えたのではないでしょうか。言わば阿弥陀救済への絶対的な自信ゆえに神の細かな区別は二次的なもので、あまり親鸞の眼中にはなかった、と言えると思います。

私は個人的には、親鸞の神祇不拝のイメージは後代に教義が先鋭化されるなかで“捏造”されたものだと思っていますし、親鸞の本当の凄みは、日本の神々が古来持っていた祟り神としての性格のほうに「代受苦」の菩薩の誓願を見ようとした点にあるだろうと思っています。

神道の細かな点については私はお手上げですが、少なくとも言えることは、いかなる凡愚でも往生を遂げられる、という親鸞の思想は、全ての衆生に仏性を見る天台系の本覚思想の同工異曲であるということです。阿弥陀仏という絶対者を一旦おいて考えれば、一切衆生が念仏という易行によって即得往生するというのは、涅槃経や華厳経に説く仏性遍満がその根底にあることは指摘するまでもないことですし、そのことは親鸞の青年時代の経歴からはむしろ当然と言えるでしょう。
本覚思想に基いて善人・悪人を問わずに往生の可能性を信じた親鸞にとってみれば、神仏の細かな区別すらこだわる必要はなかった、ということが言えると思います。

※少し余談にそれているかも知れません。必要なところだけ取捨してくださるようお願いします。

この回答への補足

どうもありがとうございます。
これだけの博識がありながら自称「自信のない一般人」とされる奥ゆかしさに敬服します。
さて、親鸞の和賛と消息文でみると明らかに敬神を説いているように思えます。なのになぜ神祇不拝の先駆と後に言われるようになったのでしょうか?
また、歎異抄では逆に神を否定する響きが読み取れるように思うのですが、このとらえ方は間違ってますか?

補足日時:2003/04/02 12:19
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>仏教の伝来から近世末期までの高名な高僧(ある程度の門徒を獲得した宗祖)の中で、明確に神道を否定した人



少しわかりにくいのですが、各宗派を通じて、という意味に捉えてよいでしょうか? (門徒というと浄土真宗に限定したはなしになってしまいます)
私の知る範囲では、各宗宗祖やそれに準じる高僧のなかで、明確に神道を否定した人は存在しないと思います。前線の逸脱といったレベルならば、仏教なりの原理主義的な動きのなかで神社の排斥が五月雨的に起こったことはありますが、教義として打ち出されたことは恐らくないでしょう。

基本的に、華厳、真言、天台といった本流とも言うべき各宗派を通じて確立した本覚思想は、全ての存在に仏性を認めるという点でもともと汎神論との親和性があるわけで、結果的に神仏習合を理論だてる思想として機能したということが言えます。
禅宗も当然、この思想の流れを汲むわけですから、神祇信仰には対立するものではありません。曹洞宗は、特に永平寺三世の頃以降が主ですが、密教との接近を通じて祈祷と神祇信仰を採り入れることで結果的に勢力を伸張しました。また臨済宗も後代の五山文化の中で天神信仰が盛んになったことから見れば、神祇が厭離されたことはあっても「明確な否定」はされていないのでしょう。

恐らく他宗に対して最も排他的であった日蓮宗でも、宗教的理想主義が国家主義と結びつくことで垂迹神を巻きこんだ神国思想を生むに至っています。「神は所従なり、法華経は君主なり」とか「三千余社の大小の神祇も釈尊の御子息なり」といった日蓮の言葉からは、仏本主義ではありますがそこにうっすらと敬神に近い感情すら伺うことができます。
そもそも本地垂迹思想は法華経の教説を軸として説明されるのですから、日蓮宗ではあまり神祇の存在は問題にされなかったのでしょう。最も原理主義的であった不受不施派ですら、特に神祇に反対したわけではありません。

>神社が取り壊されるようなこともなく、ムラの中に寺と神社が両方存在し

真宗に話を戻せば、親鸞二十四輩の第一位である性信にはおもしろいエピソードが伝えられています。性信の説法に感激した天神が弟子となり、その証として毎年鯉を二匹贈ることにした、というもので、彼の開いた浅草報恩寺で行われる「俎開き」の由来となっているエピソードです。
興味深いのは、この話には、苦しむ神が得がたい仏法の縁により出離して苦難を免れる、という古来の神仏習合のパターンが忠実に再現されているということと、もうひとつ、この伝記が記録されるのが元禄の「叢林集」を初めとして江戸時代になってからである、ということです。
要するに、江戸時代という時代になってなお、関東布教を親鸞から任されるほどの愛弟子の法力のエピソードがわざわざ神祇信仰のスタイルをとって描かれることを見れば、いよいよ親鸞の「神祇不拝」のイメージが明治近くなってから遡及的に作り上げられたイメージであることが十分伺えると思います。

もう少し言えば、神にもいろいろあるわけで、特に否定されやすいのは、一定の年月を経て神霊化する「祖先神」や、御霊などの「怨霊神」といったいわゆる人神の方です。権現など多くの自然神は仏教的なパンセイズムのなかで比較的軋轢が少ないまま真宗的原理主義とも共存できた場合が少なくないのです。

結論としては、個々の現場での暴走(ないしは極端な先鋭化)を例外とすれば、真宗地帯でも神祇信仰は共存し得る余地が十分あったわけで、北陸とは言え、質問者氏のお住まいの地域で神社が取り壊されもせずに存在するのは別段不思議にはあたらないと思います。
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この回答へのお礼

度々丁寧なご回答をいただき、本当にありがとうございます。多分いなかったんじゃないかとは思ってましたが、それがなぜかということがよく分かりました。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2003/04/07 13:35

補足に対応させてもらいます。



先の回答と矛盾するようですが、親鸞の和讃の中には、神祇不拝を強調するものも幾つかあります。歎異抄も然りです。これが後に、徹底した他力本願と合わさって先鋭化されるなかで「親鸞=神祇不拝」のイメージが作り上げられたのです。
しかし先に書いたように、念仏者は神の守るところともされるわけで、一概に神といっても、親鸞にとって善神つまり護法神ととしての存在と、迷信の対象としての悪神鬼神の間に一応の線引きがあったことを意味するのだと思います。少なくとも、現代のように截然と神と仏を分離する視座に親鸞が立っていなかったことは明らかです。

このことは、例えば同時代の道元が厳しい修行を説き、正法眼蔵の中で「山神鬼神等に帰依することなかれ」としながらも、永平寺に白山妙理大権現はじめ多くの護法神、護伽藍神を祀った心性とさほど変わらないと言えますし、やはり同時代の「沙石集」に神仏習合をむしろ讃美する風情が伺えることと似ています。

師の法然も神祇不拝であるという非難を南都北嶺側から受けています。しかし、専ら阿弥陀一仏に傾倒した念仏者は自然と他宗や神祇に冷淡になるのは事実でしょうが、彼自身は明白に神祇不拝を主張したことは一度もないはずです。専一は必ずしも排他性を意味しないわけで、彼は進んで神祇不拝を主張するような、革命的・反時代性は持っていなかったのではないでしょうか。これは親鸞とてさほど変わらないと思えます。

そのような親鸞の感覚から後に「神祇不拝」がことさらに抽出・拡大されるようになったのは、基本的には、江戸時代に起こった真宗内部の一種の啓蒙主義が原動力となったのではないかと思います。教義の中にある神道色を拭いさろうとする動き、言ってみれば「真宗原理主義」のような力が働いたのではないか、ということです。

このことは、廃仏派の国学が知識人一般の啓蒙主義と歩調を合わせるようにして神仏習合を俎上にあげ、純粋な神道を切り離そうとしたことと裏腹になっているように思えます。この動きが真宗僧侶をして危機感を抱かしめ、教義に位置づけを持たない“感覚的で土着的なもの”、つまり迷信部分を批判し排除させたのではないでしょうか。
要は神仏分離をいわば先取りして真宗が実践することを通じて、より純粋な真宗を取り戻そうとした、と考えられるのです。当然その中で親鸞像も再構成された部分があったでしょう。

特にこういった感覚が維新を経て、この世のこともあの世のことも祈願せず、臨終のさまも問わず、ひたすら現世の報恩行に徹するという、清沢満之に代表されるような精神主義を生み出すことになりますし、これが「出家とその弟子」に描かれるような禁欲的親鸞像と相まって殉教の人としての親鸞像と教義が再整備されたのではないでしょうか。
それはつまり、神仏混合などの迷信・習俗に決別するという(プロテスタント的とも言うべき)合理性が真宗の背骨として自覚されていく、ということです。
先に挙げた歎異抄も、本来こういう動きの中で“再発見”されたものですから、教学の歴史の中で見る場合には清沢のフィルターという前提を抜きにしてはならないと思います。

また、このような再構成には、仏教他宗に対する真宗の独自性を強調する働きもありました。
業縁に根ざした自分を見つめて生まれる徹底した悪人性の自覚、そして阿弥陀救済への完全なる信頼、といった親鸞の独自性がそのまま宗門に異端としての強烈な独自性を与えていましたが、これも、江戸時代の寺檀制度や本末制度という安定したシステムに組み込まれたうえは発揮しようがなくなっていったわけです(被差別との関係はこの意味では本質的な問題ではありません)。

それが、この迷信排除による宗教的純化と明晰性の獲得によって、再び真宗に確固たる独自性がもたらされることになったわけです。今でも残る「門徒もの知らず」を逆に誇るような「門徒誇り」の風潮は、明らかに独自性を優越性に置き換えた自負から生まれているものでしょう。良くも悪くも“ピューリタン”になぞらえられるような門徒の心性とエネルギーは、少なからずこういう独自性の意識に源泉を持っているはずです。

もちろん、このような純化以前から、迷信的なるものは真宗の中で否定されがちな傾向にあったことは事実です。しかし外部から虚心坦懐に見れば、例えば一向一揆の際に六字名号を書いた幟や旗が民衆にとっては「弾除け」の護符の如き位置づけを得ていましたし、懐中の名号札が身代わりになって持ち主の命が助かった、などという奇跡物語も説教師によって吹聴されていたのです。
つまり、門徒が「祈祷せず」というのは、名号そのものが護符(呪符)として機能したために、外部には「祈祷せず」と見えたに過ぎないと言えるでしょう。真宗すら、実際には呪術的な民俗から決して自由であったことはないのが現実です。
江戸時代の篤信者の列伝である「妙好人伝」などは、門徒の有るべき様を照射することで、教義の先鋭化に伴う信仰現場の混乱をうまく収拾する役割を陰に陽に果たしたもの、という風に見ることができると思います。


また話がそれてしまうのですが、私には今の真宗は「無辜の民の習俗」をあげつらうことに汲々としているように思えてなりません。
実際には民俗宗教的な心情に支えられている教化の現場に目をつぶりつつ、民衆の自然な感情の発露である習俗を「お念仏だけで何が不足なのか」と教義を一方的に掲げ、あれはするな、これはいけないと習俗を根絶やしにしていく独善性に、私はどうも引っかかりを感じてしまうのです。
このサイトには真宗僧侶の方も複数参加されているようですから、本来そのような方々から適切な見解を頂けることが望ましいのですけれども。

この回答への補足

度々の補足質問で恐縮ですが…
江戸時代に真宗内部で神祇不拝の思想が広まったとはいえ、末端の村々においては神社が取り壊されるようなこともなく、ムラの中に寺と神社が両方存在し、領民は神仏どちらも敬っています(これは私の周りに限定してのことですが)。
仏教の伝来から近世末期までの高名な高僧(ある程度の門徒を獲得した宗祖)の中で、明確に神道を否定した人はいたのでしょうか?
それと、できましたら下記の質問もお願いします。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=513692

補足日時:2003/04/03 11:52
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この回答へのお礼

大変ご丁寧な回答をいただき、どうもありがとうございました。おかげさまでよく分かりました。

お礼日時:2003/04/03 11:01

再度#1です。



親鸞生きていたの時代のものは知りませんが、
親鸞の5代後の存覚のもので『諸神本懐集』というのがあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。質問で親鸞と蓮如と限定したのは、宗祖と中興の祖なら何らかの言及をしているのでは?と思ったからです。
当地(北陸)では存覚の弟子を開基とする寺もあり、むしろ存覚の果たした役割の方が門徒拡大の上で重要であったとも考えられます。その意味でも貴重なご教示でした。
また、『諸神本懐集』で検索したところ、参考になるサイトが多数見つかりました。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2003/04/02 12:09

こんにちは。


答えになっていないかもしれませんが・・・。

日本の歴史上、
神道と仏教が確実に分かれたのは「明治維新」以降です。
それまでは神仏習合というか、大変曖昧です。

今現在の神道という考え方は
江戸時代中期以降に発展した国学
(本居宣長ではなく、特に平田篤胤)
に影響を受けた人たちが明治維新において作り上げたもの
と考えて差し支えはないと思います。

ですから親鸞等が布教するにあたって
神道を排除したというような事実はないでしょう。

この回答への補足

すみません。質問が言葉足らずでした。
真宗が広まった中世において、既に民間にもかなり浸透していた修験道や古い形態の神道は、その後も駆逐されることなく真宗と両立しているので、親鸞や蓮如がこれを容認したことは明らかですが、どのような言葉、思想でこれを受け入れたのかということを知りたかったのです。本地垂迹等の説を具体的に記した文献等はあるのでしょうか?

補足日時:2003/04/01 17:25
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