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鎌倉期と江戸期の特性を教えてください
困っています

A 回答 (5件)

>鎌倉期と江戸期の特性を教えてください


困っています

前提として武家政権のみについての質問ではないということで。大きく考えると太閤検地を境に、それ以前は程度の差はありますが荘園制社会が残り、一つの土地に多元的な権利関係が存在したことです。太閤検地により多元的な関係が整理され、一地一作人の原則が立てられ、土地への権利は耕作者一人になったことです。これは、太閤検地で急に成立したのではなく、戦国大名の一円知行政策の延長線上に成立したもので、各地で行われていたことです。逆に言えば、鎌倉期では将軍・御家人を始め武士はこの多元的な権利関係の一部に過ぎなかったのであり、江戸期の武士は耕作者である農民を直接支配する単一の存在であったことは大きな違いです。これは社会の構成についても言えることです。
鎌倉時代の多元的な構成を挙げると、各国には朝廷から任命された国司(守・介など)と幕府が任命した守護の両者が並存し、御家人の中には介などの在庁官人となって国守の下僚となる者が存在します。荘園(公領=国衙領も荘園公領制体制の中では荘園と同様)についても同じです。全ての荘園に地頭が置かれたわけではありませんが、地頭が置かれた荘園では、幕府任命の地頭と、本所任命の預所以下公文・荘司などの荘官の2系統の荘園管理人がおり、地頭の中には預所以下の荘官にも任命される者もあるなど、2元的、多元的な関係の中にありました。
これに対して江戸時代は一元的支配で、浪人などの例外を除き、主人の主人とたどっていくと全国の武士は将軍に行き着く関係(外様大名の主人は将軍)であり、土地・人民も一元的に支配されていています。
鎌倉時代から太閤検地に向けて、武士による荘園・公領の侵略が徐々に進み、太閤検地によって武士による侵略が確定したとも考えられます。

法律の面を見ると、鎌倉時代はいくつかの法体系がありました。北条泰時によって作られた貞永式目は有名ですが、これは武士に適用する幕府法の1つです。これに対して律令より派生した公家法、荘園の管理などの法としての本所法の3つの法体系が存在します。

しかし、鎌倉も江戸も幕府の原理は御恩と奉公の関係であったことが共通する原理です。日本封建制の特色はこの御恩と奉公の関係にあります。鎌倉幕府ですと本領安堵と新恩給与の御恩が有名ですが、江戸幕府においては関が原の戦いのあと、家康により大幅な領地の再編が行われたことが御恩の始まりで、家綱以降領地朱印状の形式で将軍代替わりに所領安堵を確認することになります。これは御恩の再確認であり、この御恩に対して各種の奉公がありました。参勤交代なども一種の軍役であり、そのために往復の道中は行軍の形式であり、宿舎が本陣と呼ばれるのはこのことに由来します。城などの普請、河川の改修なども軍役の一つと考えられていました。
創立者の定めたことは同様に重視されています。鎌倉時代では「右大将家(頼朝)」の先例であり、江戸幕府では「権現様」の祖法です。

さて、大きな違いの一つが武士の相続法です。鎌倉期と江戸期では相続法がまるで違います。鎌倉武士は分割相続が原則でした。一門一家と呼ばれた宗家と分家の血縁的一族の集団の長を惣領(家督と言う場合も有ります。後世の跡継ぎ・長子の意味の惣領ではなく、宗家の当主の意味です)とし、それ以外を庶子と呼びますが、相続の時には惣領が所領を独占するのではなく、庶子にも所領を分ける分割相続でした。そのため所領が細分化されていく傾向がありました。しかし、一族は強い血縁的統制のの元にあり、惣領の命令・支配に従い、戦時は惣領が指揮官として庶子を率いて戦場に赴き、通常時には大番なども惣領が一門を率い、先祖や氏神の祭りなども惣領の指揮下に行われています。
幕府も命令を惣領を通じて下し、荘園・公領の年貢や公事の領主への納入も惣領が代表し、庶子に割り当て、惣領の元に一括して実施しています。
さらに、女子にも相続権があり、御家人・地頭となる事もできましたし、その例も多くあります。もっとも本人一代限りの相続である一期分(いちごぶん)とされるものも多く、また、軍役などの場合代人を出すことが普通でした。
このような分割相続も所領の細分化と困窮化を招いたために、鎌倉時代の後期から家督と財産を惣領が一括して相続する単独相続に移行し、庶子は嫡子に従属するようになります。南北朝の争いが長引いたのはこの時期に惣領制が解体し、宗家・分家共に独立し、それぞれの家で嫡子が全所領を相続し、庶子を従属させようとすることに庶子が反発し、嫡子の対立勢力に加担することにより自己の運を開こうとしたことも大きな原因の一つとされています。
余談になってしまいましたが、鎌倉の分割相続に対して江戸時代は原則として嫡子単独相続であり、女子の相続も原則的には認められていません。(相続法については他の質問に答えたものをそのまま使っています)

鎌倉時代武士は農村に居住するのが一般的でした。地頭が荘園の現地管理人ですから、農村に居住しなければ仕事にならない面があったことと、荘園そのものの開発領主が地頭そのものや地頭の祖先であったりするため、元々その土地に住みついていたという事もあります。分割相続が一般的なのもこのことに関連するとの考え方もあります。
江戸時代では豊臣時代の兵農分離政策の後を受け、原則として農村には武士身分はいません。農村は農民の自治がある程度許されていました(室町時代の惣村を換骨奪胎した)。逆に武士は農村を離れ、城下町に集住するのが原則です。

さらに大きな違いは鎌倉幕府が全国政権でなかったことです。逆に言うと朝廷の支配権が強かったということでもあります。鎌倉幕府の性格を「東国王権論」「二つの王権論」(朝廷-西国政権対鎌倉-東国政権)と「権門体制論」(朝廷・寺社・武家の相互補完体制)とするなどの考えがありますが、どの考え方でも幕府将軍が全国の単一の支配者でないことだけははっきりしています。
江戸時代は将軍による単一的な支配です。(名目的には朝廷の権威は存在しますが)

支配機構については江戸幕府が庄屋仕立てとよく言われるように、三河の土豪時代の支配機構を残しています。また、老中などの重要な役職を複数制にし、個人への権力の集中を防いでいることにも特色があります。鎌倉幕府の支配機構は公家の家政機関的な部分があります。初代の頼朝が3位未満であった時の公文所、3位以上になってからの政所への改称などは公家の家政機関であったことが分かります。また、政所と侍所のトップを兼ね、執権として実質の権力を握った北条氏という特定の氏族の台頭があったことに違いがあります。
将軍については江戸時代が徳川氏に独占されたのに対して、鎌倉時代は源氏三代、摂家(九条家)2代、皇族4代と変化しています。

農業では鎌倉時代に草木灰を肥料に用いることが始まり、鉄製の農具の利用や、馬・牛を用いることが始まります。商業では全国的に三斉市などの定期市が始まり、遠隔地取引が盛んになり、問丸という専門業者も誕生します。貨幣の利用も盛んになりますが、当時の日本では貨幣の鋳造が行われておらず、中国から永楽銭などの宋銭を輸入して使う状態でした。
これに対して江戸時代では農業の発展が著しく、米作だけでなく綿・桑(養蚕)などの換金作物の栽培が盛んになり、人糞のみならず、鰯の干しかなど金肥と呼ばれる購入肥料も使われます。商業の発達は雲泥の差があり、後期には問屋制手工業の段階にあったと考えられるようになります。

文化面では鎌倉時代が京都中心、公家社会を背景とする文化であったものが、江戸時代は前半の上方中心に発達したものが、化政文化になると江戸に中心が移行し、下級武士や町人階級が担い手に変化します。


順不同にバラバラに書いてしまい、まとまりない内容になってしまいました。参考程度に。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>鎌倉期と江戸期の特性を教えてください

鎌倉幕府について:
(1)これまでの「荘園制度」を徐々に打破して「御家人制度」への移行を目指した。

(2)「将軍(鎌倉殿とも呼ばれた)」と、その家来となった御家人との間に「土地」を通じた。「御恩」と「奉公」の関係を成立させた。(ギブ アンド テイク)。

(3)具体的には:
1.将軍から御家人への「御恩」。
*本領安堵(ほんりょうあんど)・・・先祖代々の所領の支配権を保証する。
*新恩給与(しんおんきゅうよ)・・・新たな所領を与え、地頭に任命する。
*朝廷への官職推挙。

2.御家人から鎌倉殿への「奉公」。
*軍役(ぐんやく)・・・合戦に参加をし、鎌倉殿のために戦う。
*番役(ばんやく)・・・京都大番役、鎌倉番役など、鎌倉幕府の重要機関で一定の期間働く。
*関東御公寺(かんとうみくじ)・・・朝廷の内裏や幕府の建物などの建築を担当したり、修理をする役目を担う。

こうした「土地」を通じた主従関係を一般的に「封建制度」と呼んだ。

徳川幕府:
(1)徳川家康は「東鑑(あずまかがみ=鎌倉時代の歴史書)」の愛読者であったと言われ、鎌倉幕府のような「失敗」は二度と繰り返さないようにした。

(2)体制:
*鎌倉幕府での「御恩」と「奉公」のような曖昧なものではなく、「中央集権国家」を目指した。
*大名をはじめとして武士全体に「武家(方)諸法度」を通達し、厳しく統制した。
*大名の妻を人質として江戸に住まわせ拘束し、参勤交代という制度で隔年に江戸へ出て公務にあたらせた。
*公儀隠密と呼ばれるスパイを全国に送り込み、諸大名に不穏な動きがないかを探らせた。これにより、大名といえども「勝手に」軍備を整えたりすることができなくなった。もし、「ばれれば」改易などの厳しい処罰を与えた。

(3)朝廷との関係:
*鎌倉幕府は朝廷の後ろ盾があったからこそ、「成立」し「行政」を行ったが、江戸時代には朝廷の権威も落ちたことから、「公事方諸法度」を発布し、朝廷がこれに違反をすると、直ちに介入をして「罰」を与えるようになった。

(4)人民の統制:
*「信仰の自由」を認め、「檀家制」を創出。つまり、全国の寺社を統制の管理下に置き、国民全てを、その地域の寺社に所管させた。
鎌倉幕府では、所領を安堵した地域は、領主だけの管轄であったが、江戸幕府は、国民全体を支配下に置いた。

まあ、まだまだありますが、大筋では、このような違いでしょうかね・・・。
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鎌倉期と江戸期に共通して、他の時期と異なる点(特性?)のは・・・



日本の実質的な最高権力者(将軍)が天皇の近く(京)にいない!
ってこと位か?
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もともと、(公家)天皇が国を治め居たのですが



(武士)将軍(征夷大将軍)が権力を持つようになって
将軍も国を治めるようになったことでしょうか…
鎌倉は源頼朝~ 江戸は徳川家。

天皇のほかに、民を治める者が出てきているところ。

(公武)2元体制と言います。

教科書を読んでいると
天皇中心に時代が流れているところと
将軍中心に流れているところがあると思います。
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特性?



何の事やら。仕方ないのでgoo辞書で引いてみると
とくせい 【特性】
あるものに特別に備わっている性質。特有の性質。特質。 「火に強い―を生かして耐火用とする」

鎌倉期に特別に備わっている性質と江戸期に特別に備わっている性質?

何か補足請う。
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