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高3の人間です。
日本史で奈良時代を学ぶ際に防人が出てきますよね。
ところが彼らは、主に東国から派遣されたというのです。
この内容は、あの金谷俊一郎先生でさえ詳しく触れてくれません
でした。西国の人間を集めた方が効率的で都合のよい筈なのですが、
なぜこんなことを当時の国家は行ったのでしょうか?。

※類似した質問があるようですが、こちらでは詳しい回答を
 お待ちしています。

A 回答 (4件)

当初は唐・新羅の侵攻を本気で心配していたわけですから、


国境に兵力を集めることが本来の目的でしたから
当然、東国の兵力を西国に連れてこなくては意味がありません。
敵の侵攻が合った場合、西国の兵力は短期間で動員できますが、
東国の兵力は動員から連れてくるまで何ヶ月もかかる。
だから必要な場所に必要なものを呼び寄せるというわけ。
単純でしょ。
後半、唐や新羅の侵攻が現実味がなくなってくると、
経済的負担の大きい、東国からの派遣はなくなり、九州からだけ
動員となったわけです。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。大体理解できました。

お礼日時:2009/05/03 18:57

もう一ついえるのは、瀬戸内海沿いは調停の支配が良く行き届いている、重要な土地です。


一方東国は占領して多くの時間がたっていないわけで、どちらかというと植民地的な扱いです。
東国の税収も瀬戸内ほど京に運ばれないですし、調停にとって揺るがせてはならないのは西国な訳です。
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この回答へのお礼

御回答有難う御座います。要するに、東国の力を削ぐためということですね。

お礼日時:2009/05/03 18:55

笹山晴生著「古代国家と軍隊」によると


九州の防人にわざわざ遠い東国の兵士を選んだのは、以前から朝廷の舎人に東国豪族の子弟が使われ、その武力の伝統によるものだろうということです。
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この回答へのお礼

やはり東国人は相当の武力をもっていたのですね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/03 18:59

「蝦夷(えみし)一人に百(もも)の人」という言葉がありまして、「純血の東国人の戦士一人おさえるには、百の大和人を必要とする」と訳します。


彼らはローマ帝国で言うところのゲルマン民族、古代中国で言うところの北方騎馬民族に当たります。
蝦夷のもつ騎馬技術と蕨手(わらびて)刀そして血統は、後の武士や日本刀に絶大な影響を与えました。
したがって、戦闘のプロとして旧東国人は、日本にとって必要不可欠なのです。
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この回答へのお礼

回答して下さいましてありがとうございます。
つまり、東国の武士は強く、防人にはうってつけだったという
訳ですね。

お礼日時:2009/05/03 18:52

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