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北条氏は源頼朝の血脈を絶ち、おおくの権力闘争を勝ち抜き政権を手に入れましたが執権職についたものの将軍職にはつきませんでした。

もちろん2代義時の頃までは安定していなかったので無理ないと思いますが、次第に権力基盤を強化していっても、代々執権職の世襲はしましたが将軍職にはついていません。

鎌倉幕府の将軍職が屡々空位となっても都度京都から皇子などを招聘して間にあわせて対処しています。

実力、兵力、権力共に備えながら将軍職を望まなかったのか不思議です。

この理由は何でしょうか?
北条氏が滅んで後足利氏はスンナリ将軍になっています。

A 回答 (7件)

征夷大将軍になれるのは源氏姓を持つ者だけなので、北条氏は将軍になれなかったのです。


豊臣家が征夷大将軍ではなく関白となったのもこのあたりが関係しています。

足利家や徳川家は養子縁組などで源氏の姓を手に入れたので将軍になれました。

参考URL:http://www.nichibun-g.co.jp/library/sha-fax/fax/ …
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。

私も北条氏が平氏なのであるいはそれが理由かと思ったのですが、源氏も平氏もともに天皇の皇子の出であり、確かに勢力はおとりましたが源氏でなければ成らぬという理由は薄弱なようにかんがえます。

お礼日時:2006/05/08 10:23

>北条氏が滅んで後足利氏はスンナリ将軍になっています…



足利氏はもともと源氏だからです。
源義家 (通称・八幡太郎義家) の孫「源義康」が足利姓を名乗ったのが最初で、義康から数えて7代あとが尊氏です。
また、源義康は頼朝の祖父「源為義」のいとこです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9% …
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asika_k.html
http://www.loops.jp/~asukaclub/omocya/asikaga.html
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この回答へのお礼

有り難うございます。

No1の方にも書きましたが、源氏だからというのは今ひとつ納得がいきません。
単に勢力の大小がたまたまそうなったように思えるのですが。 北条氏が強力になりそう願えばと考えたのです。

北条氏が躊躇した理由としては弱いのでは。
足利氏も当時あまり強力ではなかったのでは。

お礼日時:2006/05/08 10:31

確かに北条氏は数々の豪族を排して権力を確立しますが、


北条氏が征夷大将軍になれば、
鎌倉幕府とは違う新幕府が生まれるということですよね。
頼朝は平氏追討を成し遂げましたが、北条氏の場合、
いかに権勢を誇っていても朝廷から見れば「田舎武士」とも言えるわけで、
親王将軍を廃して
新しく幕府を開かせるほどの功績はないと見なされたのではないでしょうか。
それに、北条氏が将軍家になれば、また補佐役的豪族が現れることになり、
そちらに権力をとられないとも限りません。
自分達がそうだったのですから、その可能性・恐ろしさは
重々承知していたのではないですか?
飾り物であるより、実権保持を望んだのでしょう。
鎌倉幕府自体がそもそも御家人の合議制という政体だったことも理由の一つだと思います。
ちなみに、源氏将軍の伝統は源、足利と源氏出身者が続いた為で、
それ以前には見られなかったのでは…?

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B7%E6%A8%A9
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この回答へのお礼

有り難うございます。

お説のとうり権力闘争の継続の心配はあったでしょう。
しかし承久の乱で東国の軍勢を催し上皇軍を粉砕し、三上皇を流刑し天皇には譲位を迫った実力は無視できるものではありませんでした。

源氏と平氏の問題は他のご回答に対し書いたとうりです。

お礼日時:2006/05/08 10:44

征夷大将軍の職は、元々その名のとおり(征夷)、当時未開の地だった関東以北の朝廷の権威の届かない地方を征するため設けられた官職でした。


そして、その職には、代々清和天皇の血筋たる源氏の頭領がなっていたのです。
そのため、時代が下って、征夷大将軍の地位が幕府を開くための必要要件となったときに、「源氏の頭領」であることが必要となったのです。
北条氏は、元々平家の一門であったはずです。ですから、将軍職を得ることは不可能でした。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。

「征夷大将軍」=「幕府開設」という図式はなかったのでは。

お礼日時:2006/05/08 10:49

「征夷大将軍の職は、元々その名のとおり(征夷)、当時未開の地だった関東以北の朝廷の権威の届かない地方を征するため設けられた官職でした。


そして、その職には、代々清和天皇の血筋たる源氏の頭領がなっていたのです。」
という事実は、少なくとも鎌倉時代にはありません。「清和源氏」と「征夷大将軍位」が結び付けられるようになるのは戦国時代頃からです。

ご質問はなかなか良い所を突いておられると思います。答ですが、

1. 北条氏は、元々伊豆の武士に過ぎない。平氏の一門と称してはいるが、三国志の劉備が漢皇室の一族と称するのと同程度に怪しげなもの。あくまでも、「将軍家の郎党」でしかない。

2. 北条氏が征夷大将軍位を得るなど、当時の社会ではありえない事。実際に将軍位についた人が、
「清和源氏の嫡流」
「摂関家出身者」
「親王(天皇にごく近い皇族)」
であったことを考えれば分かります。

3. 北条氏が、得宗であっても従四位相模守程度の官位しか持たずに、あくまで征夷大将軍の家宰としての法的地位で、執権として天下を動かしたのは、当時の身分意識と現実を巧みに融合した名判断と思います。

結論は「北条氏が征夷大将軍位を得るなど、当時の日本人の誰も想像もできないことであった」となるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。

確かにお説のように北条氏は地方の一豪族で、血脈としても、家門としても将軍職などつこうものなら下克上の走りで早すぎたと思います。

封建的血脈の重要性が判っていたので頼朝の血脈を絶つのに執拗であった意味が判りました。

三上皇を流刑にするほどの決断と実行力があっても想像力がフリーズしていたのですね。

お礼日時:2006/05/08 12:13

北条幕府もやろうと思えばやれたと思われます。


鎌倉幕府も源氏出身の将軍は3代実朝をもって断絶し、それ以降は藤原氏出身の将軍や宮様将軍が出現していますし、時代が下って、織田信長(平家)は「三職推任」を受け、望めば将軍もと朝廷から内意があり、豊臣秀吉(庶民出身)も当初は足利義昭の養子になるという方便で、豊臣幕府を開く構想がありましたから、北条氏も征夷大将軍になり、名実ともに幕府を開くことは可能でした。
しかしやらなかったのは、当時の日本人の意識に平等主義があり、出る杭は打たれるという諺があるように、自分たちの仲間から一人だけ成功者が出て、出世することを嫌う風潮があります。
鎌倉幕府も多くの御家人により支えられ、北条氏自体も幾つかの傍流に分かれます。
こういった御家人たちが、自分たちとは生れ落ちの違う貴人を主君に戴く事は納得できても、昨日まで同輩だった仲間を主君として仰げるかと言う問題があります、
これは徳川3代将軍家光が「生まれながらの将軍」と称し、父や祖父は生まれたときは単なる一大名だったと言っていることからも分かります。
御家人たちの意識としては、実質はどうあれ、源氏に仕えてるのであって北条氏に仕えているのでは無いと言う誇りはあったと思われます。
こういう中で北条氏が将軍になれば、将軍位を簒奪したものとして他氏族が結束して歯向かいますし、朝廷がそれに乗ればどうなるか分かりません。
公家の藤原氏がどれほど勢力があっても天皇の位を狙わないのと同様、北条氏も名をとるより、実を取ったほうがトラブルが少ないと知っていたのでしょう。
因みに、日本史上天皇の位を狙ったと言われる者に、足利義満がいますが、彼も訳の判らない死に方をしていますし、恐らく北条氏が将軍になれば、他氏族が黙ってはいないでしょう。
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この回答へのお礼

有り難うございます。

確かに当時の認識ではお飾りでもシステムにあう将軍職を建ててNO2でいた方が安全で長続きできたのですね。

下克上の実態をカモフラージュするしかなかった社会というのは理解できました。

お礼日時:2006/05/08 12:22

現代の私たち日本人が、また外国人が日本の歴史を見たとき、理解しにくいことの一つですね。



この問題に最も明確に答えているのが、作家の井沢元彦さんだと思います。
著書の『逆説の日本史』にあるのですが、なぜ藤原氏は天皇家にとって代わらなかったのかという命題の延長上に、この問題があります。

『逆説の日本史』では、日本に実力者が主権者を追い払うための革命理論がなかったため、実力行使を理論的に肯定できず、その結果お飾りのNo.1を擁立しておいて、実際の政治はNo.2の実力者が行うという「寄生虫主義」を取ったためと説明しています。

民主主義のない古代や中世においても、下克上を成すにはそれなりの大義名分が必要でした。

中国においては、孟子が徳のない王者は徳のある者にとって代わることができるという理論を確立したため、中国で儒教が普及すると、それ以降の王朝はその理論でもって、前王朝に取って代わることができました。(いちおう禅譲という儀式を行うこともありましたが、結局は形だけのものです)

またヨーロッパにおいては、中世以降はキリスト教がヨーロッパ全土に普及したため、神の代理人であるローマ教皇から王位を認めてもらうことで、実力者は誰でも王になることができました。

しかし、日本ではそういう主権者にとって代わる革命理論がなかったので、政治の実力者が王になる理論的根拠がありませんでした。
その結果、藤原氏は天皇を立てることで、また北条氏は名目だけの将軍を立ておき、自らはNo.2の地位にいながら、実際はNo.1をお飾りにすることで政治の実権を握りつづけたわけです。

さらに詳しい内容は、『逆説の日本史』を一読されることをオススメします。

※ちなみに、このNo.2主義を根本からひっくり返そうとしたのが、戦国の革命児、織田信長だったと私は考えています。朝廷を利用しましたが建前上のNo.1である足利将軍家を見事に蹴落としました。本能寺の変で命を落としましたので最終的な彼の政治構想は今一つ不明ですが、官位にも固執していなかったところを見ると、どこまで天皇家を立てようとしていたのかはよくわかりません。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
寄生虫主義とは始めてお目にかかりました。

日本では神に寄生するのですか。
確かに革命思想はなかったとおもいます。

しかし同じ血脈とはいえ天皇家の内紛で王朝交代はありました。

ただ外部勢力によるほど思想の混乱はなかったと思います。

お礼日時:2006/05/08 18:01

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