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かつて日本の国割りは令制国に従って行政区分されてきましたが、日本のインフラ五畿七道日本六十余州とも呼ばれました。この国割りですが、どの様な基準に基づいて国境が引かれたのでしょうか?国によって貧富にかなり偏りを感じます。例えば武蔵国や尾張国・近江国・肥後国は肥沃な穀倉地帯・陸運・海運に恵まれてますが、伊賀国・志摩国・飛騨国などは一国でやっていけたのでしょうか?若狭国と越前国や河内国と和泉国は分ける必要はあったのですか?

「日本の国割り、令制国について」の質問画像

A 回答 (3件)

アメリカの50州は、東北部のニューイングランド地方、ヴァージニア以北は、本土48州が全部見える地図で見ると細かく入り組んでいますね。


(現地に行ってクルマで走ると結構広いですし、ボストンとニューヨーク、ニューヨークとワシントンDCはビジネスなら飛行機で行き来する距離ですが)

一方、ヴァージニアより南、オハイオより西になると州の面積が大きくなります。ミシシッピ川を越えて「西部」と言われる地域では、州の面積が日本の本州くらいあるのに人口は100万を下回る州が珍しくありません。州の境界も、緯度や経度で決めたような大雑把なものになります。

日本の令制国の区分けも、基本的には「古代の、瀬戸内海を通じたベルト地帯(九州から畿内)」は細かいですが、美濃より東の「東国」になるとだんだん一国の面積が大きくなり、東北地方に至っては、太平洋側の「陸奥」、日本海側の「出羽」の2つだけです。

「九州から畿内までは、古代から人口密度が高かった地域。だいたい、一定の人口の単位で、自然境界(大河や山地)によって国を設けたのではないか」

「美濃より東の『東国』については、自然境界(大河や山地)に沿って国を設けたのではないか」

「陸奥と出羽は、カナダに現在もある『準州』のようなもの」

と考えると、だいたい理解できるように思います。

他の方も言っておられますが
「令制国を単位とする福祉、公共事業」
などという発想は全くありませんので、「一国でやっていけるかどうか」などというのは全く関係ありません。

たとえば飛騨国司は、飛騨国内の国衙領から租税を取り立てるだけが仕事で、飛騨国内で飢饉が起きて住民が餓死しても関係ありません。「飢饉のため、租税の取り立てが思うようにいきません」となるだけです。

なお、武蔵国や尾張国は、前者は利根川、後者は木曾三川の氾濫原がかなりを占めますので、令制国が定めれた時点では、今のイメージほど豊かではありません。

武蔵国の、江戸時代より前の中心地は、川越あたりの内陸部です。中央線がまっすぐに走っている辺りは、明治になっても水がないために開発不能だった地域ですし、今の東京23区の東半分は海でも陸でもない湿地でした。
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それぞれの旧国の成立経緯はほとんどわかっていないんですよね。



ただ令制国ができる前は、豪族が国造として朝廷に服属したうえでその地方を支配していた地域と、朝廷の直轄領として支配されて県主として朝廷の任命した官吏が支配した地域があったんですよね。
それを令制国としてすべて直轄化し朝廷が国司を派遣して支配する方式に切り替えたわけです。

となるとおそらくこの国割も、それぞれ豪族が治めていた地域がそのまま切り替えられたものが多いのではないかと思います・
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地方行政などという概念はないから、町税単位である郡なり評が明確であれば、あとはどういう組み合わせでも問題はない。




一国でやっていけた

この疑問が生じるのは、近代(日本では少なくとも近世)のあととなります。
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