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みなさんへ

世の中は、無情だと思いますか?
それとも、
そうではないと思われますか?

教えて下さい。

A 回答 (13件中1~10件)

無情と思う人は、心が広く、感受性がある方が思われることですよね。



心が狭く、視野も狭く、人間性のキャパの少ない方は、世の中の無情を作り出している人たちなので・・・

無情を作り出す人たち、苦手です。

心が広く、豊かな感性を持つ人と接すると、心が安らぎます。

けど。
心が狭く、視野も狭く、人間性のキャパの少ない方は、同じタイプの人を求める。

この人たちの良いところは、無情になれているから、他人を必要としない。
無人島で、たった一人でいても、生きていける遺伝子配列をもっているらしいです。

無情になる人と、無情になれない人。どっちも個性として受け止められたらいいですね。
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すみません、肝心な事を書き忘れました。



世界には、明日食べる物も無い人達がいる反面、ダイエットと言って食事を残す人達もいます。
夫々、反対側のグループの事は見ようとしなければ見えませんし、関係もありませんし、影響もありません。(細かい事は置いておいて)

つまり、「人は自分の周囲に環境、自分が属している境遇がその人の世界、世の中と言える」と言えます(微笑)

そして、1つ1つのその小さなグループの集まりが社会全体なのです。
ですから、自分が属する最小単位の社会、これを良くしようと働きかける事が自分の人生設計にもなります。
そして、これに最も大きな役割を果たすのは私達自身の認識です。

何をどう受取るかが変われば当然その後の判断、行動も変わります。
この最初の「何をどう受取るか」が変わっていないのに判断と行動を変えようとしてもそれは大変です。
しかし「何をどう受取るか」が変われば自動的にその後の判断、行動が変わるのです。


こうした多面的な見方を経た上で私を含める他の方々も「心がけ次第」と言っていると思うのですが、それでは不足でしょうか?
「心がけ次第」とは、決して自分を説き伏せたり強引に思い込もうとしたりする行為とは違います。
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「聞く耳を持っていない」とは思っていません。


ただ「届かない状態なのかな」という可能性が浮かんだだけです。
こちらこそ、少々大胆な書き方をしました。申し訳ありません。



さて、「世の中の真実の姿」ですが、私の考えを言ってしまうと、「そんなものは無い」という答えになります。
「世の中」とは、”世界(この地球環境と言う意味)の上に建てられた人間の思惑が交叉する社会”と言えます。
つまり実態などなく、人間の思惑が変われば世の中もまた変わるという事です。
政治が変わるだけで世の中は大分変わる物です。
一人一人の心が根底から変われば今ある世の中等何の意味もありません。
これはお解りですね?

そして、よく「大海も一滴の水が無ければあり得ない」と言われる様に、あらゆるものが極少の何かの集まりという状態で成立しています。
人間社会、つまり世の中も同じ事です。
一滴の温度が低い滴が集まれば冷たいプールの様だろうし、暖かい滴が集まれば暖かいお風呂の様でしょう。
これはそこに集まる一滴(社会を構成する一人一人の人達)の温度の問題です。
「森」は「木」が沢山集まった状態を意味する形容詞と言えます。
「木」は確固たる存在ですが、「森」は存在ではなく「木」が集まった”状態”、つまり現象です。
”存在”と”現象”は全く異なります。

私達一人一人はこの「木」であり、世の中は「森」です。
ブナの森、竹の林、松の森、夫々違います。
それは「木」が違うからです。

つまり「世の中とは私達一人一人の思惑、心がけの形である」と言えると思います。
後は、その思惑に込められたエネルギー量の問題で、勢力が生じ、強弱が発生します。
言ってみればこの勢力争いがあるだけです。
勢力というと誰かの意識的な組織とかそういうものを想像されるかもしれませんが、これは大多数の人が当たり前に持っている世界観をも含めます。



少し視点を変えて、私達一人一人の心の中を見てみます。
私は善を為したいと思っている、しかし様々なプライドや恐れなどが邪魔して中々それができない、それどころか、プライドや恐れに負けて他人を傷つけてしまう事もある。
これは善か悪か?情か無情か?
「どちらでもない」というのが答えです。
世の中もこれと同じ事です。
善を為したいと思うグループ、そうでないグループ等が烏合の衆になり、統合性がないので思う様に動けない。
こうした中、人々の心は疲れ(この場合の疲れは所謂実感する疲労感だけでなく、潜在意識にたまって表在意識では認識していない種類の疲れも含んでいます)、他人の優しさなどを求めますが相手もまた同じ様に疲れているのでできない。

ただ単にこういう状態があるだけだと思っています。
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No.9です。



>「冷たい世間」~
これ、「基準」が存在しないので、返答のしようがありません。
あくまで抽象的な主観の表現でしかありません。
先に「あなたの考える『温かい世間』像」を提示して頂かないと。。
それとも、
「世の中って、冷たいよねぇ~。」
「うん。そだよねぇ~。」
と言うような井戸端会話みたいな物をお望みなのですか?

さらに、何を以って「冷たい世間」と「温かい世間」を分けるのか。。
部族が違うという理由で争いになったり、迂闊な事を口走っただけで拘束されたり。。なんていう社会よりは余程「温かい社会」だと思いますが。
個人のプライバシーの尊重と集団の中での助け合い。
(少なくとも日本では)前者の比重が重めになってきていますが、崩壊するところまでは行っていないと考えます。

確かに「全ての人が他人を思い遣り、助け合って生活する社会」って確かに理想ですよね。
でも、現在の情況で現実問題として可能なことなんでしょうか?
人間は個々に感情を持ち、思想も思考パターンも違います。
人間って、まだ精神的にそこまで進化していないと思うんですよね。

例えば、駅のホームから線路に転落した人を目撃したとします。
線路に飛び降りて助けようとする人もいるでしょう。
でも、「線路に飛び降りて助けようとしなかった人」を責められますか?
足が竦んで動けなかった人、非常停止ボタンを探す人、駅員を呼びに行こうとする人。。事情は色々あると思います。
それらの人は「冷たい」のでしょうか。
(まぁ、「微笑を浮かべ、ただ見てるだけ」と言う人がいれば、それは「冷たい」と言って良いと思いますけどね)

もう少し、御自分の中で考えを整理された方が宜しいと思います。
(~という御自分の理想に対して、とか~国の現状と比べて、といった前提を提示していただけないと、No.9のご返事に対する明確な返答なりアドバイスを行う、と言う事はおそらく不可能です。)
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おかしな言い方ですが、


「情」って、世の中いたるところに転がっていますよ。

要はそれに気が付く「心の目」が開いているか閉じているかの問題です。

私は当年とって45になりますが、本当に「世の中が無情」であれば、ここまで生きながらえてはいないでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「情」はあるかもしれないのですけど…

「冷たい世間」も、ありますよね?

お礼日時:2009/10/08 20:09

2回目です。



先ず、「世の中は無情である」という回答(同意?)がご希望なのであれば、私はそれを差し上げる事はできません。
持っていませんので。



暖かい面はコンマ1%などではありません。
「圧倒的に多い」です。
コンマ1%の視野しか持っていなくても、それが重なる回数によって統計は出せます。
親切の方が圧倒的に回数が多いですよ♪と言うより無情であると感じる場合の方が極端に少ないです。全体の中のほんのひとつまみ位です。

恐らく何かが起きて、ご自分でも気づかない間に少々冷静さを欠いているのではないでしょうか?
よく周囲にいる人達、今まで起きた事を思い出してみると、強度深度は別として数的には親切な人や暖かい人の方が圧倒的に多いのが一般的な光景です。
もしそうでなかったとすると、shakeraさんの今までは日本人の一般的なそれよりも少し外れた過去をお持ちであると思っていいと思います。
そうであれば、簡単です。
世の中は無情ではないと考えている一般的な人達と交流を深めれば良いのです。
もしそれでもまだおかしな事が続くのであれば、ご自分の内面に原因がある可能性を考慮するのも1つの手です。

日本人は、他の民族に比べると、細かな親切など行き届いている面がありますが、その反面、ガラスの様な弱い心である人も少なくなく(特に都市部)、ちょっとした事で怒ったりします。
この「ちょっとした事」を自分で起こしていたら、恐らくその人にとって世の中「多くの場合日本社会の事」は無情と言う事になります。


皆親切でありたい、善い人間でありたいと望んでいます。
だから小さな親切はする人が多いです。
しかし、大きな親切をするにはある程度の犠牲や覚悟などが必要になります。これをするほどには強くない人が多いのです。
だから日常で見る親切は本当に小さな小さなものばかりです。
若い内は、「そんな小さな親切は当たり前だよ、もっと大きな親切でないと意味が無い」的な事を意識的、無意識的に考えている場合が多く、溢れるほどの小さな小さな親切を見落とし勝ちです。
でも、私達はみなその小さな小さな親切にも大きく支えられて暮らしている事を忘れてはなりません。

従いまして、世の中は決して無情などではありません(笑)



最後に、回答者は「信じる事が大事」だと言っているのに、それをあえて「思い込む事が大事」と言い換えて返事をする。
相手の意見を聞く姿勢というよりは、自分の中の思い込みが強過ぎて相手の言葉が届いていない状態を想像させます。且つ、他の方への返事を見ても、それが一瞬だけ起きた事ではないと見える。つまり、内面の思い込みの波が治まり、外部からの声が届く様になるまでは少々時間がかかる様に見える。(波だった水面を納めるには、押えるのではなく放っておくのが一番早いのです。)そしてこちらにはそこまでつき合う時間はない。(多くの人は何かの合間にネットをしています)
すると、回答者は「あ、そう、私は”信じる事”と言ったつもりだけど、質問者さんがそう思いたいならそう思えば」と言って来る。となる流れは別に珍しくありません。
上述で言うところの「ちょっとした事を自分で起こしている」という状態です。
信じる事と思い込む事は全く異なるものである事はお解りですよね?
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この回答へのお礼

再びご回答ありがとうございます。

前回のご回答で、Apostleさんのご意見に、聞く耳持たなかったと
思われてしまったのなら、本当に申し訳ございませんでした。
m(__)m


そうではなく、
私はただ、世の中の、本当の姿、真実、実態を知りたかったんです。

前回のApostleさんのご回答の最後のところ、
>「意識的に世の中は無情ではない、暖かい部分も沢山あると信じる事」が肝要です。

ここを読む限り何やら、“実態はどうあれ、自分の心の在り方が大事だ”、
みたいなふうにとってしまったのですが、
私は実態が知りたいのです。


いい人も、もちろんいるとは思います。
「小さな親切」も、あるかもしれません。
ですが少なくとも、今までの私の人生、無情なことばかりでした。
だから「そんな世の中いい人ばかりか?」と、疑ってしまうところはあります。

お礼日時:2009/10/08 13:15

世の中は無情だし、昔から他人は冷たいと、したものです。


しかしながら世の中が無情であれ、がんばらなければ生活が
できないので、しかたがありません。

ちなみに僕は現在仕事を探しているのですが、年齢的なもの
とか、過去の問題などがあり厳しい状態です。
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この回答へのお礼

全くおっしゃるとおりだと
思いました。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/08 13:19

うーん


楽しい事や幸せな事は一杯あるかもしれない
逆に家族の死に目に逢えないなんてことも沢山ある
畳の上で死ぬのは難しいですし(大体病院で死ぬ)
通り魔に殺される人も居る
あの時こうすればよかったとかああすればよかったとか
やってみないと後悔は出来ないですし
結局
それを受けとめる自分次第ってことですかね
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この回答へのお礼

その通りですね。

お礼日時:2009/10/08 13:18

無情ではないと思います。



最近色々と思い悩む事がありまして、上の空になってしまいがちなのですが、今日の会社帰りに足がもつれて水溜まりの中に転倒してしまいました。
ギャグみたいな光景ですよね。

足をひどくぶつけて立ち上がるのに時間がかかりましたが、雨の中、傘を放り出して助けて下さる方が数名いらっしゃいました。
中にはお年寄りも。
台風が迫っているのにもかかわらず、一時間程時間を割いて下さる方も。

優しいなぁ。としみじみ感じました。

人を助けるのには限界があります。
ギリギリの生活をしている人間が、大切な相手だからと大金を貸せないように。

でも、自分が出来る範囲で困っている人の力になろうとするのは、当たり前に人が持っている人情なのでしょうね。

なので世の中無情ではないと考えます。
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この回答へのお礼

余力が自分にあれば、
“助けてあげよう”という気も沸いてくる、ということですね。

やはり、“自分第一”なのでしょうね。

お礼日時:2009/10/08 04:31

今日こんなことがありました。



あまり土地勘のない場所で、バス停の場所がわからず地元の古いお菓子屋さんにバス停の場所を聞いたんです。
そうしたら快く答えてくれました。
本当ならここでお菓子の一つも買うべきですし、当然お店もそれを期待していると思ったのですが、この時私には時間が無く、バスが今来るなら一刻も早く乗りたい状況で、
「すみません、今度来た時必ず寄りますから!」と言うとお店の人は
「いいからいいから、早く行きな!」と言ってくれました。

…素敵な情だな~って、思いました

全く逆の話ですが、屋台のおじさんに道を聞こうと話しかけた時、初めはものすごく愛想が良かったのに買い物目的じゃないとわかったとたん無視された経験があります。

…無情だな~って、思いました。

世の中、両方ですね。
ちょっとしたことで周りが助けてくれる事もあれば、大変な事が起こっているのに無視されることもある。
考えてみれば自分だって、今日は気分が良いからちょっと良いことしようかな~と思って人助けをする事もあるし、今日はすごくイライラしてるから少し困ってる人がいても無視しちゃえ!と思う事もある。
生身の人間であればそのくらいの裏表は誰でもあるでしょう。
本人に悪気はなくとも、それに接する人間にとっては
「情に触れた~」「無情だ~」…一人の人間に対して相反する二つの感情が向けられることもあります。

大体そんな感じで世の中成り立ってるのではないでしょうか。
ただ、最終的には自分の事は自分でしなければならないので、他人の情にばかり頼っていてはいけないし…
でも、人間は必ず誰かの手によって助けられてるし…

…やっぱり、どっちもですね(笑

この回答への補足

「この回答へのお礼」に、書き忘れました。
>ちょっとしたことで周りが助けてくれる事もあれば、大変な事が起こっているのに無視されることもある。

全く、その通りだと思いました。
ありがとうございました。

補足日時:2009/10/08 04:27
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この回答へのお礼

“捨てる神あれば拾う神あり”といったかんじでしょうか…。
それもそうですね。
世の中や、物事には二面性がある、といったことかもしれません。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/08 04:25

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