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私は(というか人は誰でも)「食べる」という行為を通して、間接的に他の生物を殺生してきました。これは自然の摂理だとか食物連鎖だとかの一部だと言ってしまえばそれで済むかもしれません。でも家畜とか養殖の魚とかってやはり不自然ではないでしょうか?当たり前のことですが、人間が食べる作物を育てるために罪もない雑草の命を奪うという行為も、やはり人間の知により為せるものでしょうが、この1ヵ月半、農家民泊で農作業をしながら違和感を覚え続けました。

お聞きしたいことが2つあります。
(1)自然の一部でありながら、上のように自然を操作できてしまう生物として、どのように割り切って生きていったらいいのでしょうか?皆さんのご意見をお聞かせください。また、そういうことについて書かれた読みやすい書籍などがあれば教えてください。

(2)そして、今までこうした間接的・直接的(虫を殺すetc)な殺生をしてきたことに対して償いをしたいのですが、どのような行為が考えられますか?「植林」というのを思いついたのですが、あまり償いになっていないような気がして・・・

というかこの質問そもそもこのカテでいいんですかね?笑

A 回答 (16件中1~10件)

> 実は「ブッダ」はついこの前読みました。

むしろ読んでからこういうことを考えるようになった、と言えます。自分の身近な人の死というものをまだ体験していないというのも大きいかもしれません。

そうだったんですね。失礼しました。
死生観に関しては、自我の確立の部分の一つと私は考えます。この部分の確立の過程を人に頼るのは当たり前の流れですが、そこで生じる苦しさを楽になるための手段として人に頼るのは精神的な隷属の一種になってしまうので。
以下、人それぞれという部分の話に踏み込んでしまいますが。
自分という存在自身が、自然という真理のなかに存在する役割の一つという理解であるなら、植林に限らず、ごくごく小さなことであったとしても、自然や地球、宇宙に役立つであろうことを行うのは有意義だと思います。
ただ、殺生に対しての償いと考えるなら、相手に対して失礼かもしれません。あなた自身が何かの役に立つことで、「相手」も存在した意義を持てることになるわけですから。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

>あなた自身が何かの役に立つことで、「相手」も存在した意義を持てることになるわけですから。
非常に心に響きました。やっぱり自殺はいけませんね。

お礼日時:2009/10/11 20:43

(1)


人間を自然の一部だと理解しているなら、
鉄筋コンクリートのビルディングだって、立派な自然だという事も理解できるはずです。
インターネットも、大気汚染も、戦争も、核も、天気や海なんかの自然と、
0.01%だって変わることがない自然そのものなのです。

屁理屈を言ってるつもりはありません。人間の知恵とか傲慢さも自然の一部だと言ってるのです。
家畜とか養殖とか、罪もない雑草の命を奪うような行為は、人間にとって地球にとって自然な事だと思っています。

これが、私の割り切り方ですね。

>また、そういうことについて書かれた読みやすい書籍などがあれば教えてください。

漫画だけど、寄生獣というのがあります。上の回答は、寄生獣を読んで私なりに解釈した話でした。
漫画を基にした回答で、ごめんなさい。

(2)
償いというのは、所詮は自己満足をしたいという事ですよね・・・
人間の身勝手な言い分なら、ありきたりですが、たくさんの命の礎に自分が成っている事を忘れないくらいかな・・・
植林はけっこう良い事だと思いますけど・・・他には動物愛護のボランティアとか・・・

ちなみに、もうこれ以上の殺生したくないのなら、もうzi-syakuさんが死んじゃう以外ないと思いますが・・・

>というかこの質問そもそもこのカテでいいんですかね?笑

たぶん、カテはアンケートか哲学だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>漫画を基にした回答で、ごめんなさい。
いえいえ、非常に納得のいく割り切り方だと思います。

「死んじゃう」という選択肢は消すことにしました。割り切って自己満足して生きていこうと思います。

お礼日時:2009/10/12 09:13

私は昔、魚殺しをやっていました。


海を走り回って、魚の群れを見つけては釣り上げ、次から次と殺し、何カ月もその死体の山と一緒に寝泊まりしました。
これが私の稼業だと思って続けました。
人間に限らずどの生き物も、植物も、他を殺して自分を生かしているのです。
あなたが言う殺生は、人間以外の他の生き物も当然のことのようにやっています。植物もまた然りです。
そうすることが、自然界で生きていく方法なのです。

人間も自然の一部です。
ダムを造ると自然を壊す、などと言いますが、自然から発生した人間が、何をしたところで、それは自然現象の副産物なだけです。
蟻が、蟻塚を作って自然を壊したとは言いません。
人間だけが、大自然の範囲外にいるなどと、思い上がっては行けません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>自然から発生した人間が、何をしたところで、それは自然現象の副産物なだけです。
その考え方が、生きていく上では最も馴染みやすいですね。

お礼日時:2009/10/12 08:58

最後にもうひとつ。

知性があるから殺していけないというのは西洋の考えです。東洋ではクジラの命を頂いて自分の形枯(ぎょうこ)を防ぎ、成道のためにするというのが東洋の教えです。西洋では牛とか羊とかは人間に食べれれるための神様が創られたと考えます。根本的に違います。
皆さんの意見を見ながら思うのですが、西洋の考えの中で不殺生戒を考えるから変になっていると思います。西洋の考えは絶対があり、東洋にはすべて相対的と考えます。西洋では神様が絶対で東洋では自分が悟り、自分が仏になっていくという自分が成道することがが重要です。Ecologyとはまさに東洋的です。西洋人に東洋の考え方のが優れているというとYou are right.と言われてきました。単に論争すれば負けると思ったからにすぎないと思いますが。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
西洋と東洋の考えの違いがわかりました。

お礼日時:2009/10/11 20:47

食べることに関しては五観偈(ごかんのげ)があります。

ぜひお調べください。
命のつながりがなくなるのは環境破壊です。微生物がいないと人間は生きられません。乳酸菌などは身体を保護してくれています。植物も微生物がいなければ死んでしまいます。命は循環しています。
いただきますという食事前のあいさつは命をいただきますという意味です。給料を持って帰る亭主に対して言っているのではありません。
仏教には善悪の対立はありません。自分が自然の一部として行動すれば良いと教えています。自然と調和する生き方です。私の家の野菜畑は抜かず、やらず、耕さずです。立派に育っています。
むかし食糧難のときカエルを取って食べていましたが、カエルを取ったとたん傍にヘビがカエルを取ろうとしていました。ヘビの餌を奪ってしまいました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
五観偈の言っていることは、今の自分からすると少し立派すぎます(笑
でもやっぱりいただきますを忘れるようじゃ人間としてお終いでしょうね。

お礼日時:2009/10/11 20:41

年齢がある程度達して、精神への希求が強くなるとあなたのような心境になる方がいます。


肉食回避はその典型であり、愛や感謝ということに気付きを得たのです。
ただし、摂理を分からないと路頭に迷われる方が少なくありません。

人間は修行をするためにこの世の中に産まれてきました。
現世はある意味修羅場であり、この修羅場で生きていくためには食べるしかありません。
全てのものの命を奪うことになるからと断食のまま命を絶つのは、この根本摂理に反します。

したがって今後は肉食を軽減→停止の方向でいけばいいのです。
考え方としては霊性(知能)の進化の速度で考えます。
人間→犬猫などのペット→四足動物→鳥類→魚類・・・虫・・・植物の順で捉えます。

人間は全生物の中で別格なのは、人間だけが第六感を与えられているからです。
人間と生活を共にしている犬猫も霊性が極めて進化しています。
つまり、進化の早い生物を殺生して食することは控えよということです。
某神示でも四足は食べるなと諫めています。この辺りを境界として、後はご自分で調整してみて下さい

人間にとっては動物性蛋白も必要です。無理はよくありません。
感謝の念をもって接することが大切です。感謝の念で動物の怨念を中和するのです。

つまり、むやみな殺生はよくないのです。しかし、虫も殺すなと勘違いする人が出ます。
こういう逸話があります。釈迦は弟子に風呂に入りたいと命じたそうです。
しかし、風呂の中には虫が多数いました。虫を殺さねば風呂は掃除できません。
弟子が釈迦に報告すると釈迦はいいました。私は風呂に入りたいのだと。

人間の生活圏に入り込んでくる虫にまで気を遣って修行ができますか。
それは人間の生活圏に入り込んだ虫の責任です。
残念ながら彼らは知能が低いので学習できません。五分の魂といわれるほど弱いのです。
逃げしてあげられるのならば逃がしてあげましょう。

これに対して植物に対する考えはガラッと変わります。食事には最高の存在です。
中には玄米のように人間に食べられることを喜んでいる植物もあります。
人間の生活圏をよくするためなら雑草を刈るのも必要なことではないですか?

>間接的・直接的(虫を殺すetc)な殺生をしてきたことに対して償いをしたいのですが

上述したように今後は感謝の念をもって生きていくことです。
虫などを殺したなどと過去の自責の念に囚われていては却ってマイナスです。
その自責の念が強くなりすぎますと、逆に地獄に落とされます。
もし可能であるのなら、瞑想等でご自身の霊格を磨かれることです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
その順序付け的な考え方は自分には合わない気がします・・・。

お礼日時:2009/10/11 20:12

No.6です。



前回の回答ですが、言葉が足りない部分があったので補足をいれます。

飼育されている動物が自分の立場を正確に理解し、重度のストレスを受けているかもしれない。
栽培されている植物や間引かれる雑草が明確な意識を持っており、且つ人間と同じような精神構造を持ち、現状を認識しており、その上で現状を悪いものと考えているかもしれない。
質問者様の罪の意識には、このような悲観的な多くの「かもしれない」の上に成り立っているものと思われます。

しかし、「かもしれない」と言うのであれば、逆に
外敵に襲われる心配の無い状況で飼育されている動物たちは、最終的に殺されるとしても、その現状を認識しておらず、外敵に狩られたり、飢えて死んだりする野生動物より案外平穏な生涯であったかもしれない。
植物についても、そもそも意識がないかもしれない。
また、あったとしても人間とは違う構造であり、食べられる事・死ぬ事に対して人間ほど強い忌避感を持っていないかもしれない。
栽培される植物に関してはむしろ生息域を大幅に広げているものもあり、現状を良しとしているかもしれない。
等など、人間に都合の良いかもしれないもあるかもしれません。

しかし、これらの「かもしれない」はあくまで可能性に過ぎず、その実態を正確に把握できない我々にとっては手に余る領分であり、手を出す必要のない事柄ではないかと思われます。


また、前の回答でもお話しましたが、お話を読んでいると「不自然」という言葉に些か過剰に反応しているような気がします。
これは質問者様だけでなく世間一般にも言えることですが、どうにも不自然という言葉に対して反射的に悪いものというイメージが浮かんでいるような気がします。

個人的には、不自然に対するデメリットとして考えられるのは、
これまで自然界で絶妙なバランスを保ってきたものについて、人工的な手を入れることでそのバランスが崩れる危険性がある事。
(例:特定の人口甘味料など自然界に存在しなかった物質を口にする事により人体に予期しない影響が出る、等。)

くらいしか思いつかないのです。
しかし、殺す事に関して言うのであれば、自然環境の中で生きたままハラワタを食べられるのと、炭酸ガスで気絶させられされるのとでは、どれほどの違いがあるでしょうか?
それに不自然な殺し方に罪があるのであれば、自然な殺し方なら罪は無いのでしょうか?

質問者様がどのように認識しておられるかは分かりませんが、もし不自然という言葉に対して曖昧な部分があるとするのであれば、まずは不自然とはどういったもので、不自然の「何」が「どのように」悪いのかを考えてみてはいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
私の考えの曖昧さを丁寧にご指摘くださり、ありがとうございます。
考え方によっては、今の人間の過剰な開発・環境破壊も自然のなりゆきとも言えますものね。
「手に余る領分」であることがようやくわかってきました。

お礼日時:2009/10/11 20:06


自然の摂理ですが人間の場合草食でも生きていける。
現在の食生活・文化は贅沢に間違いない。
疑問を感じるなら草食にすればいい。

無駄な公共工事等、自然破壊反対運動に参加することですな。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そうですよね。というかジャングルで暮らすのが一番でしょうね。

お礼日時:2009/10/11 11:30

たぶん、葛藤があるのは西洋の考え方と東洋の考え方の両方を満たさなければと思われているかもしれません。

償いという思想は西洋的ですし、不殺生戒は東洋的です。私は不殺生戒は微生物まで含んでいると思います。病原菌に殺菌剤を用いるのも殺生です。植物や微生物も生き物です。西洋では黒人が神の使わしたけだもので人間が楽になるために人間の格好をした生物を神が遣わせたと考えて奴隷制度がありました。人間のためなら殺生はおろかレイプでも殺人でも許される西洋の神様は我々にとって理解不可能です。命が循環しているので命を絶つと人間の命にも影響しますよとフッダは教えられました。西洋の考えでは地球環境がダメになる現在、正しい教えと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
不殺生戒を突き詰めていったら手も洗えなくなりそうですね。

お礼日時:2009/10/11 11:28

殺生という言葉は現在死語に近いと思います。

またこの殺生という概念が重要な位置を占める仏教の教えの中にも植物に対しては直接殺生という概念は適用されていないと想像します。近頃の分子生物学では動物の植物も生物であることには違いがないということになりますから殺生という概念はいったんとりつかれると仏教よりももっと厳しい状況になると思います。唐突ですが、殺生というのは金のためなら何でも殺すというのが現代的殺生ではないでしょうか。カネにならないからと言って食べられる弁当や栽培作物をごみ箱に放り込むようなことも殺生ですが、返せない金を貸し付けて借りたひとを自殺に追い込むのも殺生ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仏教でも解決できませんか・・・。
お金で回っている今の社会は嫌いです。

お礼日時:2009/10/11 11:22

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