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吉原と遊郭の違いは何ですか?

A 回答 (4件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>吉原と遊郭の違いは何ですか?

吉原=遊郭です。

「遊」・・・遊び場。
「廓」・・・「かく」とも「くるわ」とも呼び、限られた一帯と言う意味です。

吉原ができた当初は、「大名」や色々な藩の「お留守居役」、裕福な武士だけが相手でした。しかし、江戸の人口が増えるにつれて、男60%、女40%と言われ、とにかく女性が少なかったため、幕府も吉原を庶民に解放しました。

当然、春を売る商売だけではなく、音曲や踊りなどで楽しむ場所でしたので「遊郭」と呼ばれました。

また、大名などを相手にしていましたので、三代集などを「レ(返り点)」なしに読めたり、和歌や囲碁、将棋なども相手ができるように「教養?」を高めたのが、高級娼婦として「太夫」「格子」などの位につきました。つまり、娼婦の中の「超エリート」というわけです。

従って、NO2の方の言われるように「文芸サロン?」とまではいかなくとも、ただただ女を抱く・・・だけではなく、唄や踊りで楽しませる場所でした。

(よもやま話)
(1)遊女の起源は古く、神社の「巫女(みこ)」が始まりです。何も遊び場のない時代、神社は格好な遊覧地であったことから、神社の副収入だったのです。
そして、江戸時代になっても、神社は寺社奉行の管轄で、寺社奉行は、そのような「風俗取締り」の権限がなかったため、「安全地帯」だったというわけです。

(2)では、お寺は・・・というと、諸国勧進の「尼」が、いつしか堕落して、娼婦に落ちた者もいた。尼僧姿の娼婦というと何か「変」だが、坊主頭にお色気を感じる「変態男」もいて、江戸時代はなかなかの人気があった。
「三ケ日待たず 比丘尼は見世を張り」
と狂歌にうたわれ・・・正月の三ケ日も休めないほど繁盛したという。

(3)吉原の歴史:
慶長5(1600)年に徳川家康が、関ケ原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶屋をつくり、揃いの赤ダスキに赤い手ぬぐいをかぶった遊女8人で家康に茶を振舞わせた者がいた。
これが家康のお気に入りとなり、関ケ原の戦いののち、元和3(1617)年にこの男(=庄司甚右衛門)へ日本橋葦屋町に公認の遊女屋の場所を与えたのがはじめ。そのあたりは、まだ一面の葦野原だつたことから、めでたくもじって「吉原」とした。

(4)江戸の四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)には、「飯盛り女」という宿場女郎が許可されていました。1軒つき2名という決まりでしたが、表に出て客を引くのは2名でしたが、一旦、宿へ引き込んだら、裏にまわれば、ぞろぞろ・・・。

(5)明暦3(1657)年の大火をきっかけに、葦原町から浅草日本堤へ移転しました。これには、人口の急増で江戸府内が手狭になったこと、浅草近辺の開発をめざしたこと、千代田城(江戸城)の近くに遊女屋があるのは風紀上よろしからず・・・等々の理由でした。
以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになりました。

(6)遊女の格式では、「太夫」「格子」「散茶(さんちゃ)」「うめ茶」「五寸局(つぼね)」「三寸局」「なみ局」「次(つぎ)」の序列になります。
そして、「太夫」と「格子」に客がつくと、揚屋まで向かう時は、いわゆる「花魁道中」をして、客のもとへ向かいました。
従って、「花魁道中」は、「太夫」と「格子」の特権でした。

(7)「太夫」になると、「容姿」はもちろんのこと、「唄」や「踊り」「和歌」や「書」の素養「三代集」などを「レ(返り点)」なしに読む、「囲碁」「将棋」なども相手ができるくらいの教養が求められました。つまり、遊女の中の「超エリート」でした。しかし、一晩過ごすだけであると、余りにも「窮屈過ぎる」ということから、宝暦年間(1751~1763)以後は、「太夫」は消滅し、そこそこの「容姿」と、そこそこの「話題についていける」程度の「花魁」が登場しました。

(8)花魁の由来については、「おいらの姉御」「おいらの」から「おいらん」と転じ「花魁」という漢字が当てはめられたと言われています。

(9)見世で格子戸の中から客を呼び込み、しやにむに二階に上がるのは、「散茶」以下の遊女たちです。「太夫」「格子」は、絶対に見世の格子戸の前には座りませんでした。
ちなみに、「散茶」の由来とは、煎茶をたてる方法として、振ってたてるものと、振らないでたてるお茶があり、振らない方を「散茶」と呼んでいて、どんなお客も振らないことから「散茶」と洒落て呼ぶようになりました。

(10)なお、吉原の遊女は、幕府公認という「格式」をもっていたので、「女郎」とは決して呼ばせず「遊女」と呼ばせました。
ちなみに、私娼は「売女(ばいた)」と呼ばれました。
・江戸では「夜鷹」・・・夜になるとゴザ一枚を小脇抱え、両国や柳橋、呉服橋、鎌倉河岸などに出没し、通りすがりの男の袖を引っ張って、川端に積んである材木の間などで「事」をすませた。
・京都では「辻君(つじぎみ)」・・・何となく風情がありますね。
・大阪では「惣嫁(そうか)」・・・何でも喰らいつくの意からとか。

(11)また、岡場所と呼ばれる私娼を抱える店もあり、例えば、「湯女(ゆな)」などという、風呂屋でもっぱら営業していました。また、中堅の料理屋などでも抱えていて、有名なのは「不忍池」の料亭などでした。
しかし、正式な遊郭でないため、たびたびお上の手入れがありましたが、男女の関係だけは、雑草のごとく、摘んでも摘んでも生えてきました。
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補足です


>和歌連歌俳諧漢詩、または川柳狂歌といった
文芸サロンが花開きましたし

これはたとえば吉原は狂歌が流行った頃
遊女屋の当主や鳶屋重三郎らを中心に「吉原連」という集まりがありましたし
島原においては、与謝蕪村やその弟子が島原で
俳諧を教えたり、また俳諧・和歌に関しての保存資料も数多く
歌人や俳人も移り住んだりしているようですし
一応のサロンの存在は認められると思います。
それが廓の女性達にどこまで波及したか、ということは詳しくはわかりませんが・・。

狂歌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E6%AD%8C
嶋原
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E5%8E%9F
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20090 …
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/omoshiro/ke …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E6%AD%8C

花魁道中(京都では太夫道中です)は
吉原の場合、太夫・格子に加え
「呼出昼三」と呼ばれる最上位の花魁もその権利を
持っていました。
これ以下の花魁が店が始まると同時に張見世として
見世の前の格子の前に姿を見せなくてはいけなかったのに
ひきかえ、呼出昼三は店のものを通じてお客に呼び出されてはじめて
自分の部屋から出てきてお客の待つ「引手茶屋」に
向かいました。その際に「花魁道中」をしました。
呼出昼三ほどの花魁はそうそう呼び出せる客もいなかった
でしょうから、赴くときには一大パレードとなったのでは
ないでしょうか。
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>吉原と遊郭の違いは何ですか?



吉原も遊郭の一部です。
遊郭 とは江戸時代においては
幕府 が公認した遊び場、ということでした。
京の島原・江戸吉原・大坂新町・長崎丸山
がそれにあたります。(伊勢の古市も入るとか)
各藩が各地に認可した遊び場はそれに準じます。

遊び場、ということですので売春だけが専業という
わけでなく、和歌連歌俳諧漢詩、または川柳狂歌といった
文芸サロンが花開きましたし、歌舞音曲の発祥発展の地
ともなりました。茶の湯や書、生け花やお香合わせの
教養を持った人々(お客・楼主)がおり
主な客として皇族公家大名豪商達が集いました。
遊女達も容貌・品格・芸事・教養 のハイレベルを
競った高級遊女達が売り物でした。
また当初は最新ファッション・流行の発信地でもありました。

ただし、遊郭が大衆化し、庶民のお客の割合が高くなって
いった頃から売春の色合いが強くなっていったようです。
しかし、宴席の盛り上げ役は必要とされ、遊女とは別に
幇間(芸をみせたり宴席の仕切をする男性)や
女芸者の存在が大きくなっていきました
(それ以前にもそれに類する職業の人々はいました)
が、高い教養を
有する遊女の存在はあまり必要とされなくなっていったようです。

一方岡場所は遊郭のような高い格式を嫌う庶民を
初めから相手にしていたようです。
寺社の門前や船宿といったところに女性が集まり
幕府・または各藩からの許可を得ずにお客の相手を
していました。
売春をもっぱらとするところと、色もうるけれど
達者な芸を見せるところ、という風に場所に若干の
違いはあったようです。見つかればもちろん摘発されます。
江戸なら深川・柳橋といったところ、京都は祇園
大坂は島之内や曾根崎といったところが有名でした。
後には「遊郭」に変わって流行の先端に立ちます。

これ以外に街道沿いの宿場(旅人のための宿が集まるところ)に
ある旅籠には「飯盛女」がいて(抱えていない旅籠もあった)、
お給仕という名目で旅人相手に「色」を売っていて「宿場女郎」とも
いわれていました。こちらはなかば幕府や藩に公認される存在でした。

明治以降吉原などのもともとの「廓」に加え、こうした
「宿場女郎」で有名だったところの一部も「遊郭」となり
政府公認の「公娼」が集まることになります
(娼妓と呼ばれ、それ以外に幇間や芸妓なども働いていました・・
芸妓は職分が娼妓とはっきり分かれているのがつねでした)。
その後、明治以降あらたに開かれる「遊郭」も出てきます。

岡場所の多くは明治以降は「芸妓」中心の街となっていき
東京では「三業地(芸妓置屋・料理屋・待合)」または「二業地(芸妓置屋・料理屋)」として営業が許可されました。「娼妓」は置くことが
できませんでしたが、実際はごく近くに娼妓だけの「遊郭」が
あったり(営業団体はもちろん別)、政府に無許可の「私娼」の営業場所があったりしました。
 京都大阪はまたすこし状況が違っていて、「新地」または「廓」という通称でかつて岡場所だったところも「芸妓」「娼妓」の両方を
置いて営業していました。
有名なところは東京は柳橋・新橋・赤坂。京都は祇園・先斗町・上七軒。
大阪は南新地・北新地といったところです。
これらの場所も明治以降あらたに作られるところもありました。

私娼は明治以降も存在し、遊郭の規定では働けない女性
(年齢など?)の女性も多く存在したようです。
「銘酒屋」など飲食店をよそおった店で酒席でお客の相手を
した後、売春を行いました。
「酌婦」などとよばれていました。
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江戸の吉原、京都の島原は公娼であり、幕府公認の遊郭です。



これに対し、私娼(基本的にはもぐりですが、なかば公然と認められた)ものたちを置く遊郭を岡場所(岡とは傍目八目=わきから見ると八目はよく見えるや、岡惚れ=横恋慕のように岡=よこからという意)といいます。

この岡場所が江戸には84ヶ所あったといいます。時代により増減はありましたが、私娼の総数は2000人を超えていたといいます。

もっと詳しく知りたいときは言ってください。書き足します。でも、きっとこの手の質問は、きっと自称「歴史作家」さんが詳細に回答すると思いますがね^^
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