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 お寺の本堂ではなく、自分の部屋で何日か数時間位座禅をしてみたいと思います。
 何かを得ることが目的ではないのですが、座禅をして何かを会得できたか教えてください。
 
 特に宗教には関わっていません。また、目的も特にありません。

A 回答 (8件)

無。



つまり、「無が得られるか」、「何も得るものが無い」かのどちらかです。
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この回答へのお礼

   eleさん回答ありがとうございます。
大変分かりやすい回答で、参考になりました。

お礼日時:2003/05/14 09:05

禅宗の教えに、「只管打座(しかんたざ)」と


いうものがあります。
「ひたすら、ただ座りなさい」ということです。
何かを得ようと思って座るわけではないのです。
ただ、座る。
無心の境地です。
何が得られたかは、経験してみないとわかりませんね。
それに、禅宗の教えは「不立文字(ふりゅうもんじ)」と
言われまして、禅宗の教えは言葉では
言い表すことが出来ない、というものです。
つまり、僕がこうやって語っていることすら無意味。
とにかく、ひたすら座りましょう。
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この回答へのお礼

  qunny-hillさん回答ありがとうございます。
ただ座る。無心の境地ですね。意味時間的余裕、精神的余裕がないと、意識してもできないですね。座禅ができるということは、ある意味では、贅沢なのかもしれません。参考になりました。

お礼日時:2003/05/14 09:29

 ゆっくり、座って、「座禅」のまねごとをして得られるものは、ちっちゃな「自己満足」と、短時間の「ゆとり」かな?



 
 ただ、家で、「座禅」のまねごとをする場合、何時修了させるのかが、大きな問題となります。(その外も問題はありますが・・・)
 終了時間を自然に知り、座った余韻に少しだけ浸る時間も必要です。
 少なくとも、自己の意思で、座るのを止めては、あまり意味がないと思われます。座る事に専念すれば、時間経過の感覚がまったく、分からなくなります。自分で10分以上経過したと思っても、1~2分しか経過していないことはざらです。
 長い線香を使う事をお勧めします。(長ーい線香とそれを受けるものは、仏具屋さんで探してください。線香で、時間を計る方法は、実際の座禅でも行われているところが、多いと思います。また、花街の遊びも、時間が過ぎれば、「線香がたった」と表現することがあります。)



 しかし、しかしです。
 先の方々が、回答されていますように、何等かの「座禅会」に定期的に参加してみることは、絶対お勧めします。
 特に最初の時は・・・。

 座るときの姿勢は、自分では分かりません。背筋が真直ぐなのか、どうか?
 無駄な部位に力がはいっていないのか?

 座り方も、結跏趺座、半跏趺座、正座とあります。
 この座り方にも、ノウハウがあります。
 手も、「法界定印」をするのか、「結手」するのか?
 座るときの姿勢や、「法界定印」も、10分もすれば、崩れてきます。
 数息観も、いつのまにか、100、200と進んでいます。
 只管打座といっても、いろいろな事を考えてしまいます。
 それを、第三者の目からただしてもらおうとするものです。

 誰かが書かれていますが、多くの人の中で座っていても、ほんの一瞬、自分だけが座っていると感じる時もあります。その感覚は、多くの人と座らなければ、体験することができません。

 禅は、宗派によって、少し方法が異なりますが、行き着くところは、同じだと思われます。

 先達(先人)の教えの良いところは、まねて、短時間で効果を上げると考えればどうでしょうか?
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この回答へのお礼

  bonnnouさん回答ありがとうございます。
修業なのですね。行き着くところ、目指すものということを教えていただきました。機会を見て、どこかで座ってみたいと思います。参考になりました。

お礼日時:2003/05/14 09:24

座禅で何かを得られるのでなく、自分が今までと違う自分に成るということです。


成るというとは変化することです。

物事を在るがままに観ることができるように成ります。
自分だけで生きているのでなく人々によって活かされていると考えるように成ります。
喜びと感謝の気持ちで生きるように成ります。
人に何かを為すことを心掛けるように成ります。

座っていても歩いていてもできるように成ります。

ただ座っているだけでは、何時間座っても何年座っても何も得られないようです。
今までの見方考え方を見直さない限りは、何にも成らないようです。

実践修行中の私度僧です。
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この回答へのお礼

  skikidsさんこんにちは。回答ありがとうございます。私も自分ひとりでは生きて行くことができず、周囲によって生かされている、もっと言えば、目に見えない大きな力によって、もっと社会のために働くように生かされていると思っています。参考になりました。

お礼日時:2003/05/14 09:20

学生時代に臨済宗のある僧堂に、数年間通って参禅した者です。



No.1さんのご回答、言い得て妙ですね。実にその通りなのですが、経験しないと、やはり理解できないのではないでしょうか。
「無所得」の禅こそが本物の禅なのでしょうが、そこに到達するまでの段階として、例えば早起きして爽やかな気分になるとか、足の痛みを我慢することで達成感を味わうとか言うことは、当然ありますし、あっても良いことだと思います。その段階で終わってしまっても、それはそれで良いのではないでしょうか。

何事も自己流ではうまく行きません。姿勢とか呼吸など、最初は専門家の指導を受けることをお勧めします。
日曜座禅会などは、あちこちのお寺で開催されていると思います。
臨済宗でも曹洞宗でも、禅宗は今はやりの新興宗教と違って、「客引き」は決してしませんので、宗教に興味がない方でも、安心してお寺を訪ねてみて下さい。。

参考図書として、ちょっと古い本ですが、大森曹玄老師の「参禅入門」(春秋社)に、「座禅とは何か」が、わかりやすく解説されています。講談社学術文庫でも出ていたと思います。
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この回答へのお礼

  naomi2002さんこんにちは。回答ありがとうございます。
 経験した者でない分からないと参考図書まで紹介いただきまた。機会を見てどこかへ訪ねてみたいと思います。

お礼日時:2003/05/14 09:16

禅の修行は、「個人としての集団生活」と称されるように、集団でやることにも意義があります。

佐保田先生は、サットサンガということで説明されていました。
現代的な意味づけをすると、グループダイナミクスが働くのだと思います。
師がなければ、本来の禅の修行にはなりません。
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この回答へのお礼

  jun95こんにちは。アドバイスありがとうございます。師を求めて修業、参考になりました。

お礼日時:2003/05/14 09:13

何かを得るために座禅するのではありません。


また、座禅する事によって何かを得られることもありません。

何かを考えるのでなく無心でひたすら、座禅する事です。
その先には・・・経験したものしか分りません。
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この回答へのお礼

  babuoさんこんにちは。回答ありがとうございます。無心で座る、そして経験するですね。参考になりました。やってみます。

お礼日時:2003/05/14 09:11

うちは、曹洞宗の門徒で、そのお寺では毎週座禅があってます。


私は若い頃、そこのお坊さんにいろいろ質問したことがあるのですが、あなたと同じような質問を。
答えは、「とにかく座りなさい。」です。目的があったのでは、座禅ではないということです。また、その先に何があるかということは、言葉では説明できないのではないでしょうか。
その後、ときどき行って、座ってます。
会得できたものはないように思いますし、特に生活や考え方が変わることもないと思います。未だに煩悩だらけの頭の中です。
初めてやると、すごく疲れますが、なれると、終わったときにすっきりしますよ。
特に目的がないというあなたは、座禅にぴったりでは?
とにかく座りなさい^^
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この回答へのお礼

  jody-jさんこんにちは。アドバイスありがとうございます。
 私も煩悩だらけですが、座禅をして追い払うつもりはありません。とにかくやってみます。参考になりました。

お礼日時:2003/05/14 09:08

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