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はじめまして。
長文になりますが、宜しくお願いします。

私はよく「理屈ばっかり」「屁理屈言うな」と家族に言われます。しかし自分ではそうとは思いません。(場合によりますが)

「理屈ばっかり」
自分が理屈っぽいというのは自覚しています。ですがそれを注意される理由が分かりません。「理屈を言って何が悪いんだろう。むしろ理屈は正しいことなのでは?」これが私の考えです。
必ずしも正しいとは言いませんが、理屈を否定するのは間違ったことなのではないのでしょうか?
「理屈を言って何が悪い」と言い返すと「開き直るな」と言われます。実際開き直っているのでそう言われるのは仕方ないのですが、それだと「理屈を言うことは非だ」と相手に言われていることになりますし、自分でもそれを認めたことになります。

「屁理屈言うな」
屁理屈言った覚えは、この時自分にはありません。理屈っぽい事を言っているというのは自覚しています。自分が言った理屈を屁理屈と捉われているのが癪で、また補足で話すのですが、それがまた相手にとっては屁理屈に聞こえるようです。

家族の「理屈・屁理屈」の意味の捉え方が間違っているのだと思い、一度理屈・屁理屈の意味を(上記の言葉を言われた時にいつでも反論できるように、事前に調べておきました)家族に伝えると、気に食わなかったらしく、「そこが理屈っぽい」とまた怒られてしまいました。

自分のこの「理屈っぽい」という性格は、短所でもあり長所でもあると思っています。友人に多い感情で物事を判断・伝える。これは正確さに欠けますし、この時こそ情報を整理するために理屈っぽさが必要なのでは?と思います。(この考えの所為か私の理屈を頭ごなしに否定されると、事実をうやむやにされたような気分で、嫌になります)
ですがその反面、なんでもかんでもまず先に理屈でものを言う癖があるので、(私の言い方が悪いのか)癇に障ってしまうようです。

例をあげると。
自分「妹に新しい仕事のこと、内容をどこまで話したの?」
相手「今さっき話し終えたところ」
自分「だからどこまで話したのか聞いているんだけど」
相手「この前の仕事のこと」
自分「私が知りたいのは、この前の仕事のことを話したかでもなく、いつ話し終えたのかでもない。新しい仕事の内容をどこまで話したのかだ!」
といった感じです。こういうやり取りが頻繁にあるので、最近ではイライラしてしまい、怒り口調ですぐに最後の文を言ってしまいます。相手からしてみれば、最後の一言が「理屈・屁理屈っぽい」のだそうです。(言った時の態度が悪かったので、そう捉われてしまうのかも)私が正論を言っているのだと、自分ではそう思っているのですが・・・。

他には
相手「あなただって同じ事したことあるくせに」
自分「したことある人間が、それをした別の人を注意してはいけないの?私は謝ったし、それが悪いことだという事を理解したから、今注意しているんだけど」
などです。

自分の言っていることが本当は屁理屈ということに、自分では気がついていないのでしょうか?
屁理屈についての調べた質問の回答の中に、「屁理屈を言う人は、自論を他人に押し付け相手を言い負かしたい気持ちがある」というものがありました。・・・正直に言いますと、この気持ちが全くないというと嘘になります。ですがそれは正しい事を言っている時であって、変なプライドを守るための悪あがきの場合(相手の言い分が正当なものであると感じれば)はきちんと言った事を訂正し、謝っています。・・・と自分では思っていますが、結局それも私の思い込み(正当化)で、本当は正誤関係なく屁理屈を通そうとしているのでしょうか?

私が言い争いで反論するとすべて理屈・屁理屈で片付けられ、終いには話しを聞いてもらえなくなるので、いつも嫌な気持ちになってしまいます。

A 回答 (7件)

指摘されていることの多くは「あなたの説明不足」によるものです


それを指摘され、返す言葉の多くは言い訳に聞こえます
書き込みの半分以上は言い訳にしか私には映りません
言い訳ばかりする相手を目の前にした場合、話を聞くのが面倒になります
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この回答へのお礼

自分が説明下手なのは自覚しており、「そういえば・・・」と思い当たる節があります。自分の言っていることが相手にきちんと伝わるのか、じっくり考え直してみたいとおもいます。
回答ありがとう御座いました。

お礼日時:2009/11/28 19:53

理屈でものを考えるのは悪いことではありません。


相手に伝わらないのは伝え方が悪い。
つまりご自身のコミュニケーション能力が低いからです。

「正しい理屈の前には万人がひれふすべし」とお考えでしたら、それは心得違い。
もう少し「人間」という生き物について考察してみましょう。
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この回答へのお礼

>「正しい理屈の前には万人がひれふすべし」とお考えでしたら、それは心得違い。
>もう少し「人間」という生き物について考察してみましょう。
お恥ずかしながら、そういう考えを心のどこかで持っていました。自分の間違っていることに気付く事ができて、よかったです。
回答ありがとう御座いました。

お礼日時:2009/11/28 21:01

この回答も理屈っぽいかもしれません。

ご質問者様の状況はA)口頭意思疎通いわゆるオーラルですね。かつB)言語的いわゆるヴァーバルですね。人と人との相互作用においては言語によらない意思伝達の方が実は重要らしいですよ。言葉と論理を使っているはずがいつのまにかそれに自分自身が振り回されている状況とも思えます。これはわたくし自身にも言えることであります。参考情報。素人。
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この回答へのお礼

自分の質問を読み返すと、たしかに「理屈っぽい」です・・・。

>人と人との相互作用においては言語によらない意思伝達の方が実は重要らしいですよ。
>言葉と論理を使っているはずがいつのまにかそれに自分自身が振り回されている状況とも思えます。
「言葉で説明する」ということに捉われすぎていたようです。
大切なことに気付かされました。
回答有難う御座いました。

お礼日時:2009/11/28 21:05

あくまでも参考意見ですが、もしかしたらあなたは自我状態でいうところの「考える私」タイプかも。


このタイプの方は、良い側面として情報の収集・分析力があり、客観的理解ができる人。
悪い側面として人情味に欠ける、人の気持ちより事実の優先、クールな人。
統計的にみるとIT企業関連のPC関係のお仕事をされている方に多いタイプです。

もし、上記のように他の家族にみられているならば、なんとなくつじつまが合うような気がしますがいかがでしょうか?
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この回答へのお礼

>悪い側面として人情味に欠ける
ギクリ。薄々なんとなくは感じていました・・・;
>人の気持ちより事実の優先
仰る通りです。
その上、IT関係の職業につくのが夢でした(苦笑)

他のものを客観視するのはわりと得意なのですが、自分を客観視するのは苦手でして(汗)

どういうタイプなのかを知る事ができて、良かったです。
回答有難う御座いました。

お礼日時:2009/11/28 21:13

 なるほど、僕もよく言われました^^;。

今も時々…^^;。
 『理屈っぽい!』とか『屁理屈言うな!』というのは、一種の合いの手〔あいのて〕と考えてはどうでしょうか。『うるさい!』というのも一緒ですね。実際に大きな声でなくても、『うるさい!』と言うわけです。字義〔じぎ〕どおりに受け止めるのではなく、何と言うか、もっと感覚的な言葉として捉えるのが適切ではないでしょうか。あるいは、一種の定番のツッコミと捉えてもよいでしょう。
 なぜ、定番のツッコミに成り得るかというと、この一言で相手の理屈を抑え込めるからです。理屈で攻められないとなると、こちらはお手上げです。
 とにかく相手は、やいのやいの言われたくないのです。責められたくはないのです。理屈で言われたって、納得にはほど遠いのです。
   http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/20/7.html 感情と理屈のすれ違い
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この回答へのお礼

>一種の合いの手〔あいのて〕と考えてはどうでしょうか。
確かに家族(相手)からしてみては、そういった意味なのかもしれません。(私との口論が始まると、まずそう言うのでパターン化してます;)
>字義〔じぎ〕どおりに受け止めるのではなく、何と言うか、もっと感覚的な言葉として捉えるのが適切ではないでしょうか。
参考になります。次回からはそこに注意してみたいと思います。
回答有難うございました。

お礼日時:2009/11/28 21:17

私も理屈っぽいとたまに言われるので、


あなたの気持ちは分かりますよ^^
理屈を言うこと自体は悪いことではないですよね。
「理屈を言って何が悪いんだろう。むしろ理屈は正しいことなのでは?」
と質問文にありますが、気持ちは分かりますが、
他の方もおっしゃってる通り
「正しい理屈が歓迎されるとは限らない」んですよね。

例えば、盗みをした人に、
「盗みは悪いことだ」と一生懸命理屈と正論で説いても大抵反発されます。
「正論は人の心を動かさない」んですね。
むしろ、「盗みは悪いこと」と延々と説くよりも
「あなたにもなにか理由があって盗むしかなかったんでしょう」
と言う方がきっと盗人は素直に反省します。
結局、人は正しいことを言ってもらいたいわけではないんですよね。

なので、あなたの家族の言う「理屈っぽい!」は
「理屈を言うのが悪い」という意味ではなく「あなたの理屈(正しい理屈なのかそうでないのかは関係なく)で不快になりました」ということだと思うんです。

私自身理屈っぽいのですが、たまに理屈っぽい人と出くわすと
「めんどくせ~~~(笑)自分もいつもこんななのかな?」と思いますもん。

自分「私が知りたいのは、この前の仕事のことを話したかでもなく、いつ話し終えたのかでもない。新しい仕事の内容をどこまで話したのかだ!」
↑この気持ちは分かります。
的外れな返事ばかりで聞きたいことが聞けないとイライラしますよね。
でも、よくよく思い出してみると自分も人から聞かれたことに的確に
答えてないってことしょっちゅうありますよ。
しかも、人って「七回同じことを言われないとほんとに理解できない」らしいです。
統計的にだっけな??忘れましたけど。

自分「したことある人間が、それをした別の人を注意してはいけないの?私は謝ったし、それが悪いことだという事を理解したから、今注意しているんだけど」
っていうのも、気持ちは分かりますが、
ちょっと相手の気持ちになって考えて見てください。
反対の立場だったら
「うわ~、めんどくさい!」って思い不快になりませんか?
相手の方の
「あなただって同じ事したことあるくせに」
ってセリフは
「お互い様なんだから許してよ」
ってことなんだと思います。
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この回答へのお礼

盗みのお話、なるほど!と思いました。確かに理屈では片付けられない事ってありますよね。

>私自身理屈っぽいのですが、たまに理屈っぽい人と出くわすと
>「めんどくせ~~~(笑)自分もいつもこんななのかな?」と思いますもん。
自分の質問を客観的に読み返したとき、「理屈っぽい、めんどくさい」と思いました(苦笑)言語に捉われて、自論優先になっていたようです。

>相手の方の「あなただって同じ事したことあるくせに」ってセリフは
>「お互い様なんだから許してよ」ってことなんだと思います。
そういう考え、浮かびませんでした。その台詞はどう考えても「あなたにいわれたくない」といった意味にしか取れなかった自分が、恥かしいです。

いろいろと気付くことができました。
回答有難うございました。

お礼日時:2009/11/28 21:26

普通の会話で理屈を語ったら、嫌われるのはしかたないことでしょうね。


人はそれらを称して理屈とは言わず、蔑みの気持ちを込めて「能書をたれる」などと呼ぶのがいい例ですが、会話が成立するには、理論理屈が主体ではなく、コミュニケーションが主体でなければならないからです。
つまり、会話というのは、言葉を通じての心と心の触れ合いが主体なので、そこに理論理屈が入り込む隙はないといいましょうか、言葉で真理を語ってもしかたがないのです。
言葉を語るのはあくまで便宜上の話で、言葉と言葉のやりとりではないのです。
あなたの場合、おそらくその点を大きくかん違いしているのではないでしょうか?
会話が言葉と言葉で成立しているという表面だけで捉えているため、「どうして理屈が悪いのだ?」と思うのでしょうが、実は言葉と言葉のやりとりに見えて、そうではないのです。より深い心と心の交流が主体であり、暗黙の主目的になっているのです。
そもそも言葉にはロゴス的側面とパトス的側面が内在しているのです。あなたが、言葉のロゴス的面だけに捉われているために生じた問題だともいえます。簡単に言えば、言葉に捉われ過ぎているのです。
ある言語学者の論文によれば、人と人の会話の中で相手に伝わる部分の90%以上が言語によらないとしています。
つまり、どういうことかと言えば、どんなに活発に言語を使ってやり取りしていたとしても、言葉そのものでやりとりしている部分は極めて少ないというのです。
言語自体から伝わる部分は最大でも10%未満に過ぎないというのです。
その学者が言うには、言語自体が相手に伝わるというよりも、会話中の「間」即ち言語と言語の間に生ずる「沈黙」が言葉以上のメッセージを伝えているというのです。
文章で言えば、行間を読むのというのと一緒かもしれません。
私が思うに、沈黙が語るメッセージとは、相手が語った言葉と言葉の間に生じたその沈黙から、想像力を発揮して、聞く側がどれだけ言葉にならない言葉を理解するかと言う深さの尺度でもあると思うのです。有能な者を例える言葉に「一を聞いて十を知る」というのがありますが、深く考える者は、相手の微小な言葉や言葉の断片からでも、物事の本質や大きな全体像までも理解することができるのです。
そこには、言葉一つあれば十分であって、かえって下手な理屈は無用のものであることでしょう。
つまり、語り手が理屈を語ってしまったら、相手(聞き手)が想像して理解する部分を最初から奪い取ってしまうことになるので、
つまらないと思うし、それ以前に会話が成立しないので、相手に不快感を与えてしまうのです。
クイズの答えを相手が考える間もなくバンバン言ってしまったら、面白くないのと似ています。
相手に考えさせ、想像する部分を残すからこそ、会話もクイズも楽しいものとなるのです。
人は、考えに考え、悩みに悩んだ結果、どうしても自分で解が見つからなかった場合のみ、正解や真理を知りたいと思うのではないでしょうか?
理屈が悪いのではなく、理屈を言うならそれに相応しい時と場所、シチュエーションなどがあると思うのです。
たとえば、十を聞いても一すらわからない人には、その答えを求めている場合のみ、わかりやすく噛み砕いて理屈を語ってあげなければならない場合もあるかもしれません。
あなたの場合も同様なことでしょう。ご家族の皆さんがそれを聞きたいなら、喜んで理屈を聞きたいのです。
そうではないから歓迎されていないのです。
理屈がいくら正しくても、その時と場所と相手が、それを求めていなければ、会話やコミニュケーションが成り立たたなくなる場合があることを知っておいて下さい。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。

>有能な者を例える言葉に「一を聞いて十を知る」というのがありますが、深く考える者は、相手の微小な言葉や言葉の断片からでも、物事の本質や大きな全体像までも理解することができるのです。

自分の考えを相手にわかってもらうには、言葉の使い方を上達させ、いかに正しい理屈を伝えれるか(大げさに言えば)、と大きな勘違いをしていました。
私にとってhyuuma8579様の回答は内容が深く、とても勉強になりました。今後相手とのコミュニケーションの中で今回学んだことに注意し、気持ちの良い会話を楽しみたいです。

回答有難う御座いました。

お礼日時:2009/12/09 23:12

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