1つだけ過去を変えられるとしたら?

頼朝と義経の対立原因とはなんだったのでしょうか?

それにいざ兄弟が相対すると義経についてきたのは弁慶ほか数名だけだったのは、義経に人望がなかったのでしょうか?

A 回答 (6件)

先ずは、徳川実記の徳川家康の意見から、



駿河にて夜話の折り、談伴等申しけるは頼朝は古より名将といひ伝えたれども平家討伐にさされし三河守範頼、伊予守義経二人の弟はすぐれて軍功もあるを後に誅戮せしは小恩の至ならずやと申せば君(家康を指す)外々の者どもはいかが思うと宣へばいづれも同意のよし申す。其時それは世にいふ判官びいきとて老嫗児女など常に茶談にする事にてとるにたらず。すべて天下を治る者は己が職をゆづるべき嫡子の外、庶子の分には別に異礼を施すことなし。其親族たるを以て国郡の主になし置といへども、これを遇するにいたりては外々の大名とかはることなし。よてその兄弟たるもの身をつつしみ、上を敬し万事を篤実にせず、もし兄弟の親をたのみにし無道の挙動(ふるまひ)するを、親族なればとて見のがしては外様の示にならざるなり。親族のわいだめなく理非を分明に行ふこそ天下の主たらむ者の本意なれ、驕奢無道ならば配流に処し、もし反逆の企あらむには死刑に行はねばならぬなり。すべて天下の主の心と大名の心とは大にかはるものなり。さる大体をわけまへずして頼朝を非議するはこれまた老嫗児女と同日の所見なりと仰せられしとぞ。

次に、明治の在野の歴史家の巨人山路愛山の『源頼朝』によると、

されど読者若し是に依り兄弟てふ人倫に対する感情は昔も今も差別なきものたりと思はばそれは全く誤解なり。、、、当時の婚姻に関する慣例は男子は如何なる種姓の女性にも通ひて子を生ませ得べく、而して男子の為にこを挙げたる女性は其正室に非る限りは多くは男子と共に居らず、、、、父を同ふする兄弟といえども其母を殊にする時は其情恰も路人の痛痒相関せざるが如きものに非ず。、、、義経の母は九条院の雑仕なりしを義朝之に通じて三子を生ませ、、、、その始終を考ふるに決して頼朝の母と同日に論ずべき貴種に非ず。されば頼朝も義経を見ること固より等倫の兄弟の如くする能はざりしならん。

愛山に言わせると、義経の最大の不運は、功名の誘惑最も強き年少気鋭の時期に、軍人たる非凡の力量を発揮してしまったことにあり、としております。義経がもう少し晩期型だったら、頼朝と旨く行っていたであろうと考えているようです。そして、不和の原因は、頼朝の大義を理解できなかった年少気鋭の軍事的天才義経の謀反に在りとしております。

上で挙げた、『源頼朝』で愛山はそのことに関して実証的に、かつ徹底的に論じておりますので、参照してみて下さい。
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頼朝、義経という歴史上の人物を主にその時代を考察するとロマンではありますが、実相はみえません^^。



アメリカの独立戦争と同じなのですよ、あれは。
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対立の原因については先の回答者さんが答えておられますので、


>いざ兄弟が相対すると義経についてきたのは弁慶ほか数名だけだったのは・・・
について・・・

義経が都落ちする時は、「義経記」では1万5千騎、「平家物語」では500余騎、七隻の船に分乗して、摂津の大物浦から、四国へ向けて出航しています。
ご存知だとは思いますが「騎」というのは、騎馬武者の数なので、それぞれの武将についている歩兵も合わせれば、けっこうな数だったと思います。
ただ、その船が嵐に遭い(軍記物では平家の怨霊の仕業)、それぞれがバラバラにはぐれてしまったうえ、義経の乗った船は、もとの出航した港に押し戻され、しかも座礁して動けなくなってしまいます。
その頃には、朝廷からの追討命令も出てますから地元の武将も敵となり、頼朝直属の追手も近くに来ますから、はぐれた他の船の者と陸路での合流が不可能になり、まともに合戦できないのなら、少人数の方が逃げやすいと、連れていた女性を家に送り返す名目で多くの者を返して、やむなく少人数で吉野へ逃げたはずです。

#3さんがおっしゃるように、そこまでになると、人望うんぬんではなく、謀反人の逃亡者に従う人数は自然と少なくなると思います。
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 弁慶たち数人が伴をした理由はわかりませんが、この人数で義経の人望の問題は判断できないと存じます。


 追放者、つまりは単に離れたのではなく、被否定者ですからね。
 身内などのことを考えたりすれば、敢えてついていかないと存じます。
 頼朝の判断と毛っての理由はわかりませんが、そういう処置がなされれば、あくまでも正当なる者ではない、という一般の思考と扱いになっていると存じます。
 義経の闘いかた、奇襲などは当時の戦闘常識を破り、裏をかくものでしょうから、ある意味では受け入れがたいものではないでしょうか。
 統治の地位になったものが、それをそのまま認めてはおかれないでしょうね。
 壇ノ浦の皇族身内のものの扱いも、無念と思う人が少なからずおられていたろうし、一つの層ではないでしょうか。
 義経の話にはフィクションや尾ひれが多いと存じます。
 義に反することも多々あったかのように思われます。
 頼朝はそれに何らかの対応をしなければいけなかったと存じます。
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木曽義仲の時は朝廷は絶対的に有利でありました。



義仲が西国で奮戦中、
頼朝上洛の申状に対し赦免、所領安堵と事は運び

意に沿わぬ義仲を追討させる事に成功。
平氏滅亡まで事はすんなりと進みます。

頼朝の怒りがあったと言う説は現在では消極的となっており、

西国討伐から外され、国司に任ぜられなかったのは、
治安維持の不安から朝廷側が京に義経を必要としていたからだとされています。

安徳天皇の救出失敗、神器喪失。判官任命。
いずれも対朝廷策では大きな障害となると予想できます。

頼朝を通さず、東国武将を成敗するなどの行為は、
代官=頼朝と同じ権利と言う誤認であり、

頼朝の意向を守る代理人としての自覚が全く無かったのです。

戦国時代の伝令将校は
主君の令をありのままを伝令する必要があります。
使いも満足に出来なかったと言えばそれまでです。

最終的には頼朝は義経の京の館に刺客を送り込むまでもつれ込みます。
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頼朝の猜疑心から出てきたことです。


義経は誠意をもって、兄に仕えたと思います。
そうすればするほど、猜疑心が募ったのです。
そして平泉の悲劇です。
範頼に対する仕打ちも同様です。最後は疑いを持って、伊豆へ流してしまいました。
全て、頼朝の猜疑心からでたことです。
追放された人に最後まで追いて行く人が一人あっただけでも、人望があったのだと思います。まして数人もあれば、立派なものだと思います。
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