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そもそも「宗教」ってなに?
「宗教」とは、各地の文明文化によって、歴史的に形成された「思想の併存するプロセス」のひとつにすぎないのではないでしょうか?つまり最終的には1つに確定される、ていうもので「完成されたものではない」のではないでしょうか?だって物理も進歩するのに「置いてきぼりの思想」ではダメでしょう?

A 回答 (19件中1~10件)

逆らうことができないあるいは原因が分からないことを受けいるために考え出されたもの

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例えば、学校の授業なんかで、ついていけない人が出、その人は授業の進行からは遅れているとしても、そのことによって、彼の友人が減ったり増えたりすることはないでしょう。


そういう事は、人間性によるところであって、別に何某の知識や教義に基づくものではないからです。


何かの宗教を奉じている人でも平和的な人もいれば、科学の研究者であっても、煩い人もいるでしょう。反対に、何かの宗教を奉じている人のうちで煩い人もいれば、科学の研究者であって、平和的な人もいるでしょう。それらは、その人が何を望んでいるかによるのであって、争いを好んでいる人は煩く、平穏を望んでいる人は静かなものではないのでしょうか。
また、何かの宗教を奉じていて、しかも科学の研究者である人も居られると思います。
宗教の対立概念として科学(あるいは物理や環境学)を設定すること自体が、益のあることなのか、。
 
ある人々は双方に理解を示し受け止められるのに、ある人々は矛盾を抱えて難航するのは何故でしょうか。
知識や教義に拠らない人が、それらの双方に理解を示せる人であって、そういう人々はもっと違うこころの場所で生活しているのであると私は思います。

もともと、自然界で(人間や他の生き物)が生きていくことは厳しいことであると思います。そのような中で、いろいろの知恵を出して何とか安全に生活できるようにしてきたのではあるのですが、一方で、それらの知恵に護られているのをいいことに、(本当は安全ではないのに、)今ある、備えられた環境の中で、ワガママをやったり言ったりする人というのも少なからずいると思います。そのような人たちには、ある種の覚悟がないのであって、それで、まだまだ話せないのではないでしょうか。

少々長文ですが、ご参考ください。
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人智を超えたものを信じ、神なら神を崇め、その神の言葉と思えるものを教典として集約し、教え広める行為。

まあ1人でも宗教ということになるかな。

アメリカのいいなりで、競争、市場原理主義、強い者勝ち優先で、都合の良い所にばらまきで、役人経営者経済団体とぐるで、開発経済優先で、大企業金持ち役人優遇で、国家権力側は甘くしろ反国家権力側は厳しくしろで、マスコミも世論も司法もコントロールしろで、選挙の時だけパフォーマンスを行えで、闇献金インサイダー取引パーティー官房機密費懐入れなどで金をつくって数を勝ち取れで、国家権力側に住み良い都合の良い日本社会を目指す自分党公暗党政権が良いか、

アメリカとは距離を置いて、理念ある独立国家として言うべき事は言いで、全人類の共存共生協調自然とも共存共生協調を目指すで、必要な所を重点に予算を組んで、役人を国民の公僕として職務を行わせるようにし天下りは許さんで、環境福祉質素な生活セフティネット優先で、汗水流している労働者中小企業弱者優先で、なんぴとたりとも公平平等に扱えで、マスコミ弁護士司法などは独立しろで、政権を担えば優先順位を考えて直ちに真の改革国民のための政策を行えで、志のある者だけで連帯し政党助成金も有効に使えで、全国民が住み良い日本社会にするかもしれない民主党政権が良いかの総選挙の結果、

民主党が大勝したわけであるが、国民新党や社民党に気を使って妥協したために、おかしな決定もあったわけである。

そして、自公政権で任命した、腐りきった国家権力の役人幹部らが、今だに裁判所、検察、警察、法務省などに居座って、自民党や創価学会公明党やこれらのバックにいる、アメリカ支配層の影響をうけているから、こいつらの命令意向に従って、与党幹部らのみを徹底的に攻撃しまくっているわけである。

御用マスコミも使ってね。

自公政権や自民党政権が復活すれば、また今まで通り、天下りや裏金作りや血税を飲食いに使うや不都合な人々を不当逮捕、不当起訴、冤罪に追い込むなどのやりたい放題の甘い汁が吸えるようになるというわけである。

鳩山総理や小沢幹事長の疑惑がすべて事実と仮定してさえ、自民党や創価学会公明党や腐りきった国家権力である悪徳役人の行ってきた犯罪悪行悪政の数々に比べれば、微罪にさえならないのである。

野党が贈収賄など成立するわけがないし、疑惑のほとんどがどぐされマスコミなどのデマだからね。

ということで、民主党がアメリカ支配層側に向けば、まともな国民にとっては、期待が失望に変わる、というわけである。
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 No.13です。


 すでに投稿した文章ですが かかげます。
 信仰をひとつの類型にまとめたものです。
 その《信仰》の内容を観念としまた教義として 二人以上のあいだで共通のものとするならば 《宗教》が現われます。

 信仰類型論

  §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無神

 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

 とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤーウェー》 X-Zd とも 《アッラー》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。

  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
   歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても 変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提について あらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 
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私もmappy0213さんの考え方に賛成です。

人間なら誰でも一度は「死んだらどうなるんだろう」なんで疑問を持ったことがあると思います。その疑問に答えがないと人間は不安を抱くため、結果として宗教の上でそれらの疑問に答えているんだと思います。
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>しかし依然として宗教対立はあり、戦争も宗教戦争の様相がある。

世界文明会議で宗教の指導者が集まるが、そのような場所に「環境認識学」を修めた人物も同席させてみるべきではないか?と感じています。

人間の自我を保とうとする力は強いですよ。自殺だってしますから。
自我の根っこに宗教の教えがある人間は容易に間違いを認めないでしょう。
でもきっと時間が解決してくれると思います。
今生きている人間は、やがて古くなって死にます。新しいものが生まれ、少しづつ宗教に対する認識を変えていくでしょう。
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 こんにちは。



 宗教はやがて無くなります。しかも出来るだけ早く引導をわたしたほうが わたしたちの生活のためになると考えます。
 
 《宗教》は 個人の《信仰》が観念化し その観念が共同化したものです。
 《かみ》は からだではなく 精神でもありません。人間の存在を超えています。(超えているからこそ この人間に宿る・あるいは仏性を宿すと説く場合はありますが いまここでは触れません)。この神が 精神のいと高きところとか言ってそのあたりの場所にひとつの観念として祀り上げられるようになりました。そしてこの観念の神は死んだと 誰やらがすでに言っています。

 つまりは 《わたし》の信仰における神が わたしの精神や思考の――天井あたりの上のほうでしょうが――中に抱かれ観念と成ってしまう。もしくは観念としてしまう。なぜなら そのような神なら そのような言葉として互いの間で人びとは 共有することができるかも知れないからです。つまりならわしを共通のものとしていれば 人びとは安心だったというところかと思われます。
 ひとことで言って 《わたし》の信仰における神が観念化しわたしの外に出てしまったその時点で 信仰は自殺行為を侵したと考えます。宗教がそうしようとするという意味です。
 なぜ観念とするのか? 観念にしてしまっておのが心の外に出してしまうのか? 《おしえ》としたいからでしょう。教義は 思考の対象です。信仰の神は 思考の対象ではありません。
 ただし《おしえ》は たしかに信仰から得られたものなわけです。ということは この教義を組織における人間関係ないし身分関係に絡ませて 観念の共同つまり幻想の共同とするところの習慣化がいけないということにもなります。
 ですから 宗教の自滅は一刻も早いほうがよいと考えます。

 ★ つまり最終的には1つに確定される
 ☆ ここを精確に言うなら 《ひとつに確定される》というよりは 宗教は要らないのですから 無くなるということだと思います。
 個々のわたしにとっての――こころの内面における――信仰はつねにあります。
 信仰からはその個人個人にとって それぞれ主観的な思想が得られますが 信仰じたいは 非思考のものです。神が 精神を超えており想像の産物ではありえないのですから 経験思考の対象にはなり得ません。非思考です。ですからむろん 観念化し得ません。観念の神というのは 想像の産物として成り立った神です。これは 神ではなく またそれをいくら抱いても 信仰ではあり得ません。

 この《信仰》は 大きく広く《物理》として人間の現象ないし世界の時空間現象だと見ることもできますが――なぜなら 《非思考》という現実だからです―― 一般に経験科学はそれを研究対象とすることから禁欲するようです。哲学はできるだけ一般性をもった人間現象として説明しようとつとめると思います。

 (この主題では 短くまとめることはできませんでした)。
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歪んだ教義に則って

この回答への補足

幼稚な教義の宗教は山ほどありますよね。

補足日時:2010/02/06 14:27
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>そもそも「宗教」ってなに?



君みたいな人間にさせてしまうもの



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日本語の理解大丈夫かな・・・・
だれも、辞書、WIKIを信用しろとは言っていませんよ。

>それを元に、考え、その後ここで、「質問スレ」を立てた方が、答えに近づく時間が浪費されずにすむと思えるんですけどね・・・・

つまり、考える素材の一つとして、使ったらどうですか?
との、提案なんです。
考える素材は、多い方が、視野が広がると思うんですけど・・・
 
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