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江戸時代の経済は活発だったのか?

江戸時代の経済は活発だったのでしょうか?

私の江戸時代のイメージは生活は質素倹約、物は何回でも再利用する、年貢は米だし、武士の給料も凄く少なかったと聞きますし、技術の新しい開発も確か幕府によって規制されていました。

質素倹約ならば安いものしか売れずにデフレになるはずだし、もったいない精神があれば全然物は売れないし、新技術の開発が規制されていたのならば一体何が売れていたのでしょうか?そこがわかりません

あと、江戸時代の人間にとってお金ってどのような存在だったのでしょうか?

現代日本人みたいに拝金主義だったのでしょうか?

それとも食べ物の次みたいに別に重要視されていなかったのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

今の時代、環境問題のことを考えると「もったいない」「自然循環システム」が重要。

だけど経済が縮小すると失業も心配・・・・ということで持続的経済成長は可能なのか?という点は、今多くの方が気にしているテーマだと思います。

そして実は、世界に先駆けて「自然循環型の持続的経済成長を実現」した事例こそが江戸システムなのです。

欧州においては、中世に沸き立った人々の一攫千金を夢見る欲望は、際限なく拡大し、産業革命と第三世界への侵略戦争へと展開していきました。

ところがこの同じ時代に、日本は鎖国政策をとることで欧米発の市場開放圧力を最小限に押しとどめました。また厳格な身分制度を保持し続けることで、一攫千金を夢見る欲望(リスク)よりも農村共同体における安定への欲求を促進したのです。従って、市場経済が無制限に拡大することは抑止されたのです。

しかし、だからといって、経済が縮小し、人々の生活が困窮した訳ではありませんでした。むしろ鎖国したことで、全て国産で作り出すという国内の産業振興が可能になったのです。

また最大の秘訣は、幕藩体制にあります。つまり、基本的に藩に全権があり、徴税権も全て藩にありました。他方で藩は経済政策を失敗すればお家取り潰しもありえましたから、藩の経営には競争圧力が働いていました。江戸の後期には藩は専売制度を導入し、地域経済の振興に力を注いだのです。

と同時に、そのままほっておくと隣合う藩同士で揉め事が起きることもありうるため、藩に資財が蓄積されないように参勤交替によって、江戸という一大消費都市を作り出しました。

これにより、基本的に藩という地方分権を実現しつつ同時に、幕府の財政力・統率力も失わない仕組みを実現していたのです。またこれにより各地に宿場町も発達し、富裕な藩からそうでない藩へと富の再分配を図ることにも成功していたのです。

勿論、江戸システムにも限界はあり、結果的に海外からの市場開放圧力に屈しることになりましたが、欧米流の経済システムが限界を迎えた21Cこそ、江戸システム再興の時代だといえるのではないかと思います。

以下のブログでは、日本型市場システムの可能性を縄文時代から遡って検証しています。是非、覗いて見て下さい。

参考URL:http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2010/04/001043 …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

江戸システム、すごいですね。

それに経済の規模も縮小していないというのは凄いです。

全て国産だから、日本人の職もあったのでしょうね。

お礼日時:2010/04/23 18:12

歴史では、「質素倹約」が奨励されていた、というのは、「豪華奢侈」が流行していた証拠なのです。


再利用品は買い取られて市中に戻るのだし、年貢米は換金されました。
幕府が規制した新技術とは兵器開発のことですか?この分野はあまり経済に貢献しないと言われていますね。
なにより、世界で初めて現代と同様の目的で取引された「先物取引」は、日本の「小豆相場」だという事実を忘れてはなりません。
また、日本人が拝金主義者扱いされるのは、戦後、大きく捉えても明治以降でしょう。
江戸を訪れた異人は、例外なく日本人の誇り高さを誉めています。
金銭感覚は落語など参考にされてはいかがでしょう。「文七元結」なんかどうかな。
金に苦しみながらも矜持を保とうとする江戸庶民のお話です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

>「質素倹約」が奨励されていた、というのは、「豪華奢侈」が流行していた証拠なのです。

考えてみれば確かにそうですね。落語も聴いてみます。

お礼日時:2010/04/23 18:14

徳川吉宗が年貢を五公五民したので、


これ以降は百姓の貧困が進みます。

田沼政治では重商主義政策を取った為、
米価は下がり、百姓は更に貧困します。

貨幣本位となり、町人や役人はお金本位と変わります。

その後、重農政策を取りますが
時代はお金の時代であり上手く機能しませんでした。

元禄時代には景気が良く
大食い競争や、金1両の大福など贅沢をしていました。

倹約令が出ると、
表地は綿。裏地は絹。下駄に手ぬぐいを入れる箱細工など
隠れてお金を使うよう、心がけます。

将軍綱吉の時、幕府の財政は最も安定していたと言われています。

小判は幕府が発行する物で、数に限りがあります。
大岡は良い小判を回収して悪い小判を大量に発行します。

これによって逆に経済は安定します。(リフレーション)

昭和40年代までは東京の下町には町工場が軒を並べていました。

デパートと言うアメリカ商法。
規格や品質管理。生産ラインや合理化を米国から学び
ようやく現在の経済へ発展します。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

江戸時代も経済が悪くなることもあったんですね。

現在の経済もアメリカからの合理化を学んだのですか。

お礼日時:2010/04/23 18:10

江戸時代には、たいへん為替制度が発達していましたね。

一説によると世界一と言われています。為替制度が発達していましたので、ご婦人がお伊勢参りなど現金を持ち歩く必要も無く、安全に旅行ができたようですね。この為替制度は当然、活発な商取引の必要性からから発達したものです。
 このことからも経済が発達していたことがうかがえますが、江戸時代の豪商と現代の大金持ちを比較してみると面白いと思います。一番有名な豪商といえば淀屋ですが、最盛期には20億両(120兆円)の資産があったと言われています。ちなみに、ビル・ゲイツの資産は530億ドル(日本円で約6兆2000億円)ですね。
 あと、江戸時代の人間にとってお金ってどのような存在だったのでしょうか?・・・例えば、大工さんへの賃金(賃銀)は銀貨でいくらと定められていましたし、当地の農村部の和紙の支払いも江戸後期には銀貨で支払われていました。(但し和紙の場合、江戸中期までは『米』(物貨=米が貨幣)で支払われていました)農民にとっても職人にとってもお金は便利で大切なものでした。
 農村部では、白米は納税の対象という観点からすると幕末まで大切な「貨幣」でした。同じ米でも『古代米=赤米や黒米』は農民の食糧にはなりましたが『通貨』とはなりませんでした。農民で白米を食べることは少なかったと言われます。
 新技術の開発が規制されていたのならば一体何が売れていたのでしょうか?・・・・はて、どうお答えすれば良いのか分かりませんが、江戸時代に各藩で特産品は各地で活発に開発されています。その製造技術のレベルは世界一のものが沢山あります。各藩は藩札(地方通貨)を発行していますが、明治政府が、その藩札と「円」の交換レートを決定する目安として採用したのは「特産品の市場でのシェア」だったのです。江戸時代は暗黒の時代ではありませんよ。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~UW8Y-KYM/yodoya-tats …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
江戸時代は暗黒の時代ではなかったのですね。
なんだか、のんびりしていて、米作って、刀鍛冶がいてという具合にしかイメージできていませんでした。

技術については特産品を開発していたのですね。
なんだか、そんな当たり前のことにも気づいていませんでした。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/23 18:07

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