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仏教ってどこまでが方便なんですか?六道・戒律・浄土・仏・唯識など
空って、すべてのものは関連性であり、それだけで成り立っているものはない、と僕は解釈していますが、仏教はすべてそれに達するための方便ってことでしょうか?

A 回答 (10件)

まず、仏教における真意と方便ですが、その祖師である釈迦は、当時、誰もがほとんど覚知していないことで、人々にとっては大変重要で根本的な事実を教えるために説き始めたのですが、それは我々の誰もが元々、その生命の内奥にすばらしい生命力(仏性=ぶっしょう)というものを持っていて、それを開き現わしていくこと(これが本来の成仏)により、その卓越した力を使って、人生いかなる困難に直面しようとも、その生命力で悠々と乗り越えていくことができるということを教えるためのものだったのですが、それで、その本意である法華経のみを説くつもりであったのが、説き始めたらその当時の人々の機根、つまり、その仏説を受け入れるための理解能力が劣っていたため、すぐにその本意、真意を説くことを止め、あたかも幼子に物事を教えるように、分かり易く様々な例えや架空の仏や菩薩をいろいろと登場させて、おとぎ話のごとく種々の方便を多用して、順々と生命や仏性の何たるかを教えていって、法華経を理解できるレベルまで人々を化導して行き、最後に法華経を説いたのです。


それで、それまでに説いたものが時系列的に華厳経や阿含経、大日経、阿弥陀経、般若経等々と様々な教経となって数多く残ったのであり、所詮、それらは法華経に導き、理解させるために説かれた一時的な仮りの教えでしかなく、つまり、厳密に仏教といえば、法華経のみを指して言うのであって、それ以外はすべて方便ということで、法華経が説かれたら、それらは無用の長物でしかないということです。

尚、空とは有るようで無くて、無いようで有るというものであり、それは結局、『有無』に捉われない概念であり、つまり、一見すると無いように見えても、ひとたび何かに縁すると顕われいずるという、いわば潜在的存在を表わしているかと思われます。
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「方便」という用語を用いるべきかどうか分かりませんし、ご質問に対する答えにはなっていませんが、私には、いくつかの考えが浮かびます…



( a) 初期仏教、上座部仏教、大乗仏教、密教と、仏教と一口に言っても、力点の置き方が色々あり、一概に、たとえば「本質は個体に内属はしない。いわゆる本質なるものとして、われわれの意識に現象しているものは、実際には、諸々の関係のアンサンブルである。」というのが悟りの内容であり、その悟りに達する、ということが、たとえば、日本仏教のある特定のご宗旨での、最大に力点が置かれているところかどうかは、難しいかもしれない。この意味で、そもそも日本仏教のある特定のご宗旨で必ずしも、そもそも「空」「空」と言っているとは限らないかと思います。

( b) 初期仏教においては、「悟り」の中身が何であったのかについては、言語化していない、語っていない、書いていない…という傾向が強いのではないかという印象を持っています。たとえば、第一段階として「生じるから滅する……等々」という公式を考えた。第二段階として悟って、悟りを堪能した(けれどもでは悟りの内容はなんだったのかについては書いていない)。第三段階として、悟った後に、悟りの内容が、実践できるか、検証するために、第一段階の公式を逆にたどってみて「生じなければ滅しない…等々」と検証してみたらばっちりだった。すると、第二段階の、悟った内容はなんだったのかは、実は、よーーーーく考えてみると、言語化していない。言語化を避けている。言語化できないものはしないというきっぱりした態度がある傾向が見られるという印象です。第一段階の公式および第三段階の検証は、悟りの内容ではないと考えることが可能。第二段階における、静かに、自分で堪能した、味わった悟りの内容、境地は何だったのかは、言語化できないものなのだから、書くことを避けていると考えることが可能と思います。よって、初期仏教では、そもそも「空」と言っていないと思います。
一方で、大乗仏教では、悟りの中身について、名前を付ける、言語化することに、やや、積極的な態度が見られると思います。たとえば「無分別知」という用語が発明されていると考えます。有る、無い、1と0を分別するのは言語によるのであって、人が日常語で話し、日常語で考えているから、1/0の線引きが意識に現象しているのであって、実際にはそのような線引きはない。蛾と蝶を区別していない言語が母国語の人にとっては、蛾と蝶は同じに見える。2010年新語大賞等、新たに国語が変われば、人間に意識される、減少するところの世界は違って見える、等。これは考えたら自然な歴史上の流れであると思われます。というのは、お釈迦様の時代にはまだ仏教はないので、仏教用語は一つも存在せず、日常語で語っているわけです。一方、大乗仏教の時代には、大量に仏教用語が発明されており、大人数の人々がああでもない、こうでもないと真摯に、真剣に悩んでいるため。確かに大乗仏教経典の一番最初の大部のものというと般若経典なのでしょう。そうすると「空」概念は、「無」という言葉の方が、おそらく「空」の何倍も頻出するようにも思いますが、「空」という概念は、出てきてはいるとは思います。しかしながら、そもそも般若経典における最大のポイントは「空」なんであるというところに力点を置いて、そこを最大のポイントとして語るか、それとも違うかは、やはりもろもろのご宗旨によって異なると思います。もちろん、大乗仏典は般若経典が全てなわけでもないですから、そうなってきますと、たとえば浄土経典ですとかになりますと、そのお経に書いてすらいない「空」が要点であって、書いてあることの全てが「方便」に過ぎない…というのは、書いた人たち、論註した人たち、ののべ人数を考えると、そこまで無駄な労力がかかっていると考えるのは大変に無理があると思います。

端的に、ある特定のお経ならお経が、書いていること、言わんとすることがやはりある、それは必ずしも、たとえば「本質は個体に内属はしない。いわゆる本質なるものとして、われわれの意識に現象しているものは、実際には、諸々の関係のアンサンブルである。」という悟りに到らせるための方便ではなく、それぞれ、個別で、ある、と考えるのが自然と思います。
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質問者様、#2です。

すみませんね。ちょっときつい言い方になってしまいました。私の悪いところです。

#6の方がおっしゃるとおりです。#6の方のあげられた2項目のうち片方ばかりを気にしすぎました。部派仏教・ヒンドゥー教・イスラム教・キリスト教などや、ヴァスヴァンドゥー・アサンガ・ナーガルジューナ師たちの唯識・中論・中国禅・中国浄土教などいろいろ考えすぎて、信仰の面は少し疎かになってしまっているようです。

私の今の祖師たちは道元禅師であり澤木興道禅師であり親鸞聖人であり、キリストも含め、すべての方々であります。何も考えずただ信ずるということのできない俗人です。えらそうに言っていつも悪いことばかりしています。

質問者様、#6の方その他の方々に少しでも接触できました。ありがとうございます。
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空って、すべてのものは関連性であり、それだけで成り立っているものはない、と僕は解釈していますが



○「空」にはたくさんの意味があります。それ故、「空って、すべてのものは関連性であり・・」は一つの側面しか表していないのですね。
例えば、「空即是色、色即是空」と「諸法是空=諸法無我」の「空」は意味が違うのですね。
そんな違いがいっぱいありますので、わかりやすく説明したり、解脱への修行の道筋があったり、いろいろあるのですね。仏陀にとってはそれ故、例え全て真実であったとしても、迷える修行僧には方便とも感じられるのですね。でも、解脱を目指す修行者にとっては全て必要なものですね。
これが、仏教が高等な宗教・哲学であるゆえんなのです。2500年前に空を理解した者があっても、科学技術の進んだ現代でさえ理解できないものが多いという不思議もあるのですね。
仏教は最高・最強・最大の宗教・哲学なのですが、巷の宗教や哲学と同じように考えてしまうのですね。
各人の認識力の程度にしか真実の姿を現さないというところが方便ポイのですね。でも学べば、学ぶほど何であるかが良くわかるようになると思いますよ。
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僕の抱く見解を少し書いてみますね^^



仏教を学ぶもしくは実践するとき二つの方法があると思います

・何かしらの信仰を元にその信仰から実践を導き出す方法
・理性的に、道徳的に、実証的に調べその根拠を求めた見解から実践を導き出す方法

方便と言い切るものは前者の信仰によるものでしょう。

後者ならば、「いまだ知れず」や「~がゆえに成り立たないと考える」「~ゆえにこのようなことはありえる」「もし方便とするなら~ではないかという考えを持っている」とするなど、そのような見解の構築の仕方をするでしょうから。。

論拠・根拠なしに、言い切ることはしないでしょう^^

後者の姿勢が多くパーリ語の仏典に見れると思います。

師とて信じるなかれ
経典の引用だからとて信じるなかれ

ですから^^b

なのでどこまでが方便かについては、個人や祖師、開祖の信仰のないようによると私は思いますよ^^v
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 六道輪廻・・・・・・・実際にあるような気もするし、単なる方便のような気もするし。



 戒律・・・・・・・これは目的地にたどり着くための、手段。

 浄土・・・・・・・行ったことがないので方便のような、でも修行すれば実感できそうな。

 仏・・・・・・・これもほとんどの人は実感したことはないのでは。でもかろうじて自分の心に良心(やさしさとかの)のあることに気づき、これが仏の心かも、なんて思ったりりすると、方便とは言えず実在するかも、だなんて。

 唯識・・・・・・・これは頭悪いのでパスします。

 仏教に法句経というのがありますが、これは真理を著したもので方便とはいえないと思います。

 仏教に観音経というのがありますが、こちらは衆生を導くための方便といえる要素を、多分に含んでいるのではないでしょうか。
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仏教を少しかじった者です。


空の解釈ですが、全てに自性はなく縁起による関連性があるのみ、とする事もできますが
客観的な智慧の領域においては、その概念が一つの正解であったとしても
それだけでは空の本質にはまだ触れていないようにも思えます。
空の理であっても、体ではないように思えるのです。
体が無いからこそ空なのだと言われそうですが、果たしてそうでしょうか・・・
実体が無いという解釈は理であって、全くの無ではない空の本質は・・・と思ってしまいます。

無我や縁起の解釈は空の入口のようにも思えます。
それらを含めて向上門の手立て、方便と見る事もできると思います。
質問者様の広い捉え方もそうした視点からすれば正解でしょう。
一つの事を説くために、他の教えの全てがあるとする見方です。
それを方便と解釈する事も可能です。

「広修智方便」という言葉がありますが
向上門に於いても、向下門に於いても、私達が仏様から方便を頂いているという事なのかもしれません。
その事をありがたく受け止めるべきだと思います。
ご参考になさって下さい。
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第二の矢


悟りを得ても矢が刺されば痛い、しかしこれで自分は死ぬのだろうかとか、誰が放った矢だろうかとかこころが不安になったり、誰かに恨みや疑念を持ちこころが惑わされることはなく第二の矢を受けることがない。

筏の譬え
役に立った教えも執着してはならない。教えをすら捨て去るべき時がある。誤った教えはなおさら捨て去らねばならない。

毒矢の譬え
人生の役に立たない形而上の問題への解答は拒否する。毒矢を抜いて治療することが必要ではないか。無記。

戒律が増え続ける理由
集団が大きくなると何事か考えの違いによるトラブルも多くなり平穏が保てなくなる。このため何等かに決まりを作ることによって集団を管理する必要が生じた。
大切なのは修行のための平穏であり、戒律ではない。

諸法非我
何事も思うとおりにはならない。我とか我のものとかいうものは存在しない。

縁起
原因、条件、結果⇒原因

自灯明、法灯明
自らをたよりとし法則、真理をたよりとすべし。
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仏教の学問の専門家ではありませんが、インドで仏教が発生してからインドでは消滅ではないですが、ヒンドゥー教の中の一部の神と同じ扱いを受けているようです。

そのあたりの歴史から考えないと、仏教という統一した思想があるとは思っていらっしゃらないでしょうが、一般的に言って何かしら仏教というものがあると世界の人も日本人も東南アジアの人々も考えておられるのではないかと思います。

「仏教ってどこまでが方便なんですか?六道・戒律・浄土・仏・唯識など」というご質問に関してはうまく答えることはできません。

西欧人の哲学にもいろいろな人が各時代にその思想を述べられ、何々哲学という名称で呼ばれており、何かそれぞれ固定したものがあるように感じられますが、哲学という学問を勉強するというのではなく「哲学する」というのが一番大切なのではないかと思っております。

それと同じで、いろいろな仏教の教え、仏教の歴史があり、学べば学ぶほどどこへ行ってしまうか分からないほど範囲が広いものです。概念的かも知れませんが、いろいろなことを学びつつ、先ほどと同じく「仏教する」というのが大切なのではないかと思います。日本の仏教史から仏教を学ぶこと、・中国の仏教史から仏教を学ぶこと・仏教の源であるインドの宗教史から仏教を学ぶこと・禅にのめりこむこと・念仏にのめりこむこと・なぜ仏教は東南アジア(チベットなども含む)と日本にだけ生き残ったのかを勉強すること・なぜ西洋ではキリスト教が主に信じられているのかを勉強すること・なぜイスラム教という宗教があるのかと勉強すること・質問者様の「空って、すべてのものは関連性であり、それだけで成り立っているものはない」という考えがどこから来たのかを勉強することもすべて「仏教する」ことでしょう。最後に自分自身で「仏教する」ことが本当の意味で「仏教する」ことではないかと思います。

「方便」という用語も「何か固定した本当のものがあって、そこへ導くために、便宜的にある方法を用いる」という意味に私は受け取りますが、それでよろしいでしょうか?そういう意味では西洋哲学もですが仏教にも、何も固定した真実はないように思います。

保坂 俊司氏の著作で「インド仏教はなぜ亡んだのか」という本がありますが、これはイスラム教の資料から見た視点で、「インド仏教はなぜ亡んだのか」ということがよく説明されている唯一の書ではないでしょうか?この本は、非常に歴史的にインドでの仏教の立場が書かれていましたが、非常に現在の仏教を知る上で学ぶことが多くありました。六道・戒律・浄土・仏・唯識など、始まりはインドです。しかしインドでは仏教は主たる宗教ではない。なぜ?「方便」というものを考えるよりも、ほかに考えるべきところはあまりにも多くあります。しかし自分で「仏教する」気持があれば、自分で学んでいけます。

質問者様のご質問に対する直接の回答にはなっていませんが、私には「方便」ということを、仏教を学び「仏教する」過程で考えたことがありませんので、私の方がかえって、「方便」とは何ですかとお尋ねしたい気持です。
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確かにo(^-^)o貴方の考え方も一理あると思います。

私の知る宗派だとお釈迦が自ら語られたとの日本語訳になってます(^O^)/
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