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坊主がお経をあげるのは死にゆく者を成仏させるためであるという。
では成仏とは何か。
それは仏教の教えなのか。
仏教は成仏できる者とできない者がいると教えているのか。
仏教には人を成仏させるためにお経をあげるなり、何がしかの儀式が必要であるとの教えがあるのか。
また戒名がない場合、戒名料が少ない場合は成仏できないって坊主が説くのも仏教の教えか。
 

A 回答 (12件中1~10件)

>仏教はただ一つのことを説いているのです。


色即是空空即是色、この世のあらゆるものは空であり無であると。
これが何を意味するか?
実は簡単なんだよね。
実に簡単で、単純明快な唯一つのことを語っているのです。

では何故、「成仏」等を人に尋ねる?

単純明快に自分位は操縦しなさい。
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こんにちは。


 成仏というのは、生きることに付随する苦しみからの‘すごろくでいうあがり‘みたいな感覚で、そのための手向けが葬儀のお経なのではないでしょうか(気持ちとしての慈しみの念の表出として)。この世の人生という表象(色)としての存在が無(空)へと移ろう、色即是空。無限の空の中に有限の色が帰っていく。空即是色、その空からまた新たな色が生まれる。無限の空と多様な色が縦横に混然一体と行き来してこの世が移り変わりながら先へ進んでいく。そんな感じの解釈も可能なのではないでしょうか。
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貴方が言われる「仏教」とは、法然や親鸞の教えでしょう?私の宗派はこのような念仏ではありません。

ここでは宗派の名を書く事は出来ませんが、私達の宗祖はまずこのように言っています。「先ず、臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし、」、なぜこんな事を言ったのか?それは念仏の人たちの死に行く姿を見て、「なぜ、念仏の人は顔色が真っ黒で暴れて死んでいくのか?」、それは念仏の法然や親鸞の教えに問題があり中でも「選択集」に問題がある。と指摘され、以後、勉強と研究され今の私達の宗派が確立されました。では私達の宗派の信徒の「臨終」とは、医学会においては「死後硬直」「遺体の変色」「腐敗臭」が定説となっていますが、真面目に信心し抜いた人は形も損せず必ず生きていた時より色が白くなります。そして、半眼半口で黒目が下を向き身体も柔らかく死臭すらないのであります。私は同じ宗派の人の葬儀に何回も出ていますが、火葬場に行ってあの釜に入れられる直前まで、顔色は白く頬は柔らかいのであります。硬直はありません。この姿が「成仏の姿」現証として見て参りました。
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この回答へのお礼

 

お礼日時:2014/04/03 08:09

No5です。


質問者さんの投稿は現在の仏教のあり方へ反省を促しているように見えてそうでも無いということがお礼の補足から感じられます。

以下質問者さんの補足のコピーです。
>私にとっては大乗も小乗もありません。色即是空、空即是色。仏教においてはこれが全てであると思っております。 この世のあらゆるものは空であり、無である。あの世のあらゆるものもまた空であり、無である。何故ならあの世はこの世が作り出したものであり、あの世とはこの世のことだからである。
故に極楽浄土は空であり、地獄は無である。このように考えるとお経も、成仏も、戒名も、極楽浄土も、・・・およそ坊主の考える一切が空であり無となるのである。
------ここまでーーー

この補足を読む限りでは仏教に対する質問者さんの信条を述べられているだけのようで、(多分、般若心経、)それはそれで良いのではないでしょうか。

自分の考える宗教は ”歌” であり、 人それぞれに ”違った好きな歌” があると思います。 どこかの放送局で使っていたフレーズ ”歌は世につれ 世は歌につれ” まさしくそれそのものではないでしょうか。
その歌を歌うことで自分が、あるいは周りの人たちが癒されればどんな宗教でも宗派でもOKではないでしょうか。 歌の内容変更を強要は出来ません。(判断が出来ない子供が明らかに変と思われる宗教にのめりこもうとしている場合は別ですが。。また明らかに変という定義もまた難しいですが。。)

自分の好きな歌を歌ってこれから先を乗り切りましょう。
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この回答へのお礼

>質問者さんの投稿は現在の仏教のあり方へ反省を促しているように見えてそうでも無いということがお礼の補足から感じられます。

もちろん現在の仏教のあり方を正したいという思いはあります。
現在の仏教が本来の仏教に立ち帰って欲しいというおもいです。
本来の仏教は色即是空空即是色、この世のあらゆるものは空であり無であると説いているのです。ただ色即是空空即是色と説いているのであって、それ以上のこともそれ以下のことも何も語ってはいないのです。
だから成仏のこと、戒名のこと、極楽浄土や地獄のことなど何も語っていないのです。それが本来の仏教なのですよ。その仏教本来の姿に立ち帰って欲しいと願っているのです。
 

お礼日時:2014/04/03 14:04

一切皆空、諸法無我、色々な言葉が仏典には載っています。


無所有処について空に住し、非想非非想処について空に住しても、まだ覚りの境地とは言えず、無相について空に住し得たなら、それが覚りの境地だと聴いたことがあります。
空や無を知っているならば無所有処や非想非非想処についてもニュアンスはわかると思います。
しかしながら、覚りが人格の完成と言われる以上、解空したことがゴールとはならないようです。もしそうならば、私だって覚っているということになる。解脱者の足取りは、虚空を飛ぶ鳥のように知り難いと言われます。ただ空を眺めているだけでは、解脱とは言わないのでしょう。無論、不二の法門と言われるものもありますが、空について修める事よりも、徳行を修めることの方が優れていると私は聴きました。実際には、空に魅力があるのはよく分かるのです。
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この回答へのお礼

仏教はただ一つのことを説いているのです。
それは色即是空空即是色、この世のあらゆるものは空であり無であると。
これが何を意味するか?
実は簡単なんだよね。
実に簡単で、単純明快なただ一つのことを語っているだけなんです。
 

 

お礼日時:2014/04/03 16:31

>成仏とは何か



○巷でいうところの成仏という意味は、死んだことと三途の川の渡り方を知っている程度のことでしょうね。
これを坊主が死者に教えるのが葬式という儀式なんですが、今や死んだらなんにも無くなるという教えを信じる坊さんにはできませんね。

>仏教は成仏できる者とできない者がいると教えているのか。
○現実的に言えば3人に2人は上記の意味の成仏さえできていませんね。ほとんどの人が死んでいることすら信じていないのですね。みんな彷徨う霊(まあ幽霊ですね)になっていますね。そんな現状ですから葬式もお金の無駄ですね。

>仏教には人を成仏させるためにお経をあげるなり、何がしかの儀式が必要であるとの教えがあるのか。
○仏教には供養という教えはあります。供養とはしっかりした霊界知識を持った仏の弟子がが仏の慈悲の光を仏の代わりに手向けるということですね。本人が成仏出来るかどうかは本人次第ですが仏の慈悲の光を受けて反省のよすがとすれば可能性はあるということですね。そういう意味で儀式もありますね。仏弟子が1000人集まって千僧供養すれば、普通の人であればほぼあの世にかえれますね。

>また戒名がない場合、戒名料が少ない場合は成仏できないって坊主が説くのも仏教の教えか。
○これは詐欺ですね。戒名と救いは全く関係ないものですね。
仏陀や立派な修行僧には救済力がありますので、お布施をするのが常人の勤めということだけですね。それ以上の意味はありません。

○死んだことが理解でき、三途の川の渡り方ぐらいを知っていれば、葬式は必要はありません。
三途の川さえ渡れれば、後はあの世の役所の方が面倒見てくれますから。そういう世界があるんですね。
そういうのを教えるのが仏陀の僧なんですよ。これは過去・現在・未来に渡って同じです。  
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釈尊の教えで言えば、そんな物は世迷言です。



しかし、この教えは広める為には難解過ぎ、カニシュカ王の登場を経、最終的には念仏教にまで広がるほどに、その段階を広げます。

これが『良い』か『悪い』か?(私は「良し」とは言えませんがw)

しかし世界にある数多の宗教を見る限りでは、全ての段階が揃っているのは(私の知る限り)佛教のみです。

正に「千手観音」だと思いますよ。

私は「坊主丸儲け」は納得が出来ませんが、声高に「清貧」を唱えるだけのインテリもどうかと思います。

佛教の本質って、「幸せ」です。(実は幸せではなく、「楽」ですがw)


戒名に関しては、需要と供給の関係があると思いますよ。

残された遺族が、故人に出来るだけの事をしたと満足する為のモノでしょう。

しかし、それで遺族が救われるのも一つの道かもしれません。(私には理解が難しいですがw)


原理主義は大切だとは思います。

しかし其処に囚われる事は、それこそ佛教の本質から外れてしまいます。
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この回答へのお礼

 
仏教はただ一つのことを説いているのです。
色即是空空即是色、この世のあらゆるものは空であり無であると。
これが何を意味するか?
実は簡単なんだよね。
実に簡単で、単純明快な唯一つのことを語っているのです。
 

 

お礼日時:2014/04/03 16:39

No1の回答者さんのように仏教には大きく分けて、大乗仏教、小乗仏教と2つあるようです。


大乗;大きな船を用意して極楽(ほとけとしておきます)への道のりを他の人(この場合お坊さん)が、安く沢山乗せて上げる。
小乗;自分だけが乗れる舟で極楽への道を自力で見つけ出し(悟り)、仏に成る(成仏する)
程度に考えておけば良いでしょう。
さて、
>では成仏とは何か。 それは仏教の教えなのか。(仏教の教えではなく→仏教ですね)
成仏とは人間の持つ”四苦八苦”(煩悩) から解き放たれ(解脱) 悟ったもの(これは自分にもわかりません)に成ることと思います。

>仏教は成仏できる者とできない者がいると教えているのか。
仏の教えではなく、仏の教えを理解するのが難しい人にわかりやすくする為に後の人々が説明に使ったものと思います。ある意味での道徳の為の道しるべでしょう。
成仏は先にも書きましたが自分の力でなれる人(他力本願:阿弥陀仏に全てをお任せする)と自分だけの力でなれる人(自力本願:自分の力で仏の悟りまでだどりつける)の2種類があるようです。
 
>仏教には人を成仏させるためにお経をあげるなり、何がしかの儀式が必要。。。。
これは仏様(阿弥陀仏)が言ったことでは無く、仏の教えを理解するのが難しい人にわかりやすくする為に後の人々が説明に使ったものと思います。

>戒名がない場合、戒名料が少ない場合は成仏できないって坊主が説くのも仏教の教えか。
端的に言えば”地獄の沙汰も金次第” お金で地獄極楽での待遇が変わる という意味ですね。
これも仏様(阿弥陀仏)が言ったことでは無く、仏の教えを理解するのが難しい人にわかりやすくする為に後の人々が説明に使ったものと思います。 本来は ”喜捨” といいってお金に余裕のある人は仏様が本来目指す(大勢の人々の心を救う)こと(本願)のために援助(寄付)をすることを言ったものと思います。

これは自分が思っていることですが、現存する仏教の儀式や地獄極楽の概念は現存する人(生きている人)の心の中(あるいは生活の中)にあるのではないかということです。
親不孝した息子が親が生きているうちに孝行できなかった事を悔いて既に手遅れですが、せめてお葬式だけでもちゃんとして上げたい。つまり、せめての自分の慰めにやっていることでそれはそれでその人には必要なことと思います。

もしかしたら仏教の儀式をすることで死んだ親が地獄から逃れられるかもしれない(この考えは仏教にもあったかもしれないですね)と思って実行すれば実は自分の心も同時に救われていると思います。
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この回答へのお礼

 
>No1の回答者さんのように仏教には大きく分けて、大乗仏教、小乗仏教と2つあるようです。

私にとっては大乗も小乗もありません。
色即是空、空即是色。
仏教においてはこれが全てであると思っております。
この世のあらゆるものは空であり、無である。
あの世のあらゆるものもまた空であり、無である。
何故ならあの世はこの世が作り出したものであり、あの世とはこの世のことだからである。
故に極楽浄土は空であり、地獄は無である。
このように考えるとお経も、成仏も、戒名も、極楽浄土も、・・・およそ坊主の考える一切が空であり無となるのである。
 

お礼日時:2014/04/02 09:21

仏法では、過去、現在、未来の三世にわたる生命の因果を説いています。

この三世の因果が仏法の骨髄であり、これを抜き切ってしまったら仏法は存在が失われると言っても過言ではありません。こうした因果の理法の上から仏法においては「臨終」を重要視します。なぜなら「臨終」はその人の人生行路の総決算、また未来世への第一歩でありますから、その「臨終」の姿がそれまでに積んできた一切の悪行・善業、死後と来世の状態を如実に顕すのです。つまりは「臨終」の姿をもって善人か悪人か、幸福か不幸か、地獄に堕ちたか成仏したかが事実をもって証明されるのです。もっとも地獄といい成仏といっても、この世界の他に別な世界があって、地獄の鬼に責められたり、極楽の蓮の上に暮らす事を説いているのではありません。地獄というも成仏というも私達の生命の実感をいうのです。例えば人が眠っている時、実際は布団の中で寝ているのに夢の中では猛獣に追い回されたり、汗をかくほどうなされる事があります。それと同時に地獄や極楽などという世界が実在しないのですが、死後の生命はそれまに集結された業報によって、厳然と苦楽を感じ続けていくのです。そしてその死後の生命が、まるで燃え盛る溶岩の中で身が焼き尽くされるような苦しみを感じていれば地獄であり、歓喜に満ちた苦しみの中に安息していれば成仏というのであります。
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この回答へのお礼

 
>「臨終」はその人の人生行路の総決算、また未来世への第一歩でありますから、その「臨終」の姿がそれまでに積んできた一切の悪行・善業、死後と来世の状態を如実に顕すのです。

人の人生には様々な浮き沈みがあるものです。
その浮き沈みの中で栄えるときもあれば衰えることもある。
だから臨終において人がどのような状態にあるかはたまたまの事であって重要ではありません。
そもそも仏教は人の善悪や来世なるものについて何一つ語っていないはずであるが。
 

お礼日時:2014/04/02 23:47

 こんにちは。




 親鸞のたどりついた境地は 《義無きを以って 義とす》です。

 悪人正機の説を言っている段階では 善人悪人ないし善悪の問題にこだわっています。そこから 善悪の彼岸に到ったという恰好です。

 これが 《成仏》した姿のひとつの説明です。





 その余のことは 坊主の世迷いごとです。これを存在させている人びとの よく言っても甘やかしであり ふつうに言えば 鈍感さでしょう。鈍感の哲学とでもいう思想があるのでしょうか。

 
 ちなみに お寺とは縁を切りました。身内の者が お墓はそのままにしておいて欲しいというものですから その賃借料(地代)を 五十年ぶん払っておきました。(安いですが)。



 オシエは めざす境地そのものではありません。せいぜいが その《成仏》の姿を説明する補助線です。

 自由とされる個人の信教・良心については別としつつ 集団にとっての雰囲気つまり世に言うクウキをつくるオシエまたはそのシュウキョウ これらからわれらは自由になるでしょう。

この回答への補足

 
補足:
「まあそれを言ってしまえば仏教に限らずあらゆる宗教がただの雰囲気つまり世に言うクウキに過ぎないってことになりましょうが。」

と書きましたが、ここで指した仏教は成仏とか戒名や戒名料を語る仏教のことです。

真の仏教は色即是空空即是色、この世のあらゆるものは空であり無であると説いているのです。色即是空空即是色、これ以上のこともこれ以下のことも何も語ってはいないのです。
真の仏教であればただの雰囲気つまり世に言うクウキではなく、一つの真理と考えます。
 

 

補足日時:2014/04/03 11:50
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この回答へのお礼

こんにちは。
 
> 自由とされる個人の信教・良心については別としつつ 集団にとっての雰囲気つまり世に言うクウキをつくるオシエまたはそのシュウキョウ これらからわれらは自由になるでしょう。

もし坊主のあげるお経が坊主にとっても誰にとっても意味不明なものであるなら、仏教はただの雰囲気つまり世に言うクウキに過ぎないことになりましょう。
まあそれを言ってしまえば仏教に限らずあらゆる宗教がただの雰囲気つまり世に言うクウキに過ぎないってことになりましょうが。

お礼日時:2014/04/02 23:24

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