アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 神社には神様が宿るご神体や杜がありますよね。だから神社自体がパワースポットや聖域として扱われています。
 いっぽうお寺には仏様がいるんでしょうか?仏像は有りますが、仏って仏像に宿るものでしたっけ?仏はお寺に常駐していて、他にはいないものなんですか?

 お寺という場所と仏様の関係についてが良くわからないので教えて下さい。

A 回答 (12件中1~10件)

お寺に安置されている仏像と神社のご神体とは少し違います。


仏像には大きく分けて二つの役目というか機能があります。
一つは仏教の教えを具体的に目で見て理解するための補助としての機能です。
口で説明したりお経のように文章で説明する代わりの役割です。

仏像というのは、一定のルールに基づいて作られています。
一番分かり易いのが、手の形です。
印相と呼ばれます。

仏の印相について - ZAQ
www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/inn.htm

逆に言いますと仏像の手の形を見れば、その仏像はどの仏様を表しているのかが分かります。

十一面千手観音像のような沢山頭があったり手がある仏像もありますが、これは、観音様は世の中の全ての事柄や人の心の動きを全部見ています。困っている人や苦しんでいる人を助けるためのあらゆる手段を持っています。ということを表しています。

もう一つの働きはイメージトレーニングの補助です。
小説を読むのとコミックで済ませてしまうのとよく似ています。
文章で書かれた小説は情景や登場人物の姿は、読者がイメージしながら読んで行く必要があります。
コミックは読者は絵を見るだけでいちいちイメージを創らなくても済みます。

念仏という言葉を聞かれたことがあるかと思いますが、念仏というのは実は普段耳にするように声で唱えるものだけではなく、仏様の姿をイメージするやりかたも含まれています。観想念仏と呼ばれます。
これが非常に盛んになったのが平安時代です。
仏様の姿だけではなく、仏様がいる浄土の光景までイメージするようになりました。
ついには、実際にそのイメージどおりの建物を造りました。有名なのが京都宇治の平等院です。
お寺も実はこのミニ版です。
仏像の周りに色々な装飾品が飾られているのはこのためです。
奈良や京都の古いお寺は、創建当初は極彩色の絵で埋め尽くされていて仏像も金色に輝いていました。
現在のイメージとは全く違う景観でした。
鎌倉時代に禅宗が盛んになり、簡素であることを重要視してわびとかさびと呼ばれる美意識というか価値観が生まれました。
この価値観が現在も続いていて、現在のようなお寺のイメージになりました。

密教と呼ばれる宗派では、理論が難しいのでこれを図で表しました。
曼荼羅とよばれる大きな壁かけがこれです。
さらに、これを立体的に仏像を配列したものが京都の東寺に残されています。
立体曼荼羅と呼ばれます。

これらの仏像を始めとする内装品に囲まれた場所で、仏様の世界を疑似体験することで仏教の教えに従うようになる効果があります。
現在のお寺の仏像もその前に座って、姿をみることで仏の教えに導かれると期待されて作られています。

以上のように、仏像は仏教思想の視覚化であると同時にイメージトレーニングのための装置でした。
これに、神社のご神体のようになにかが宿っている、と考えるのは後から加えられた考え方です。
仏像を新造したさいに開眼供養とよばれる儀式が行われるのはこのためです。
開眼供養を行うことで、単なる彫刻作品に神格が生まれると考えられています。
奈良の大仏様も暮れの大掃除の際に僧侶が上りますので、儀式をおこなってこの神格に一時どいてもらいます。
お掃除が終わればまた儀式をして神格に戻ってきてもらいます。
この辺の考え方は神社の考え方とよく似ています。

日本では江戸時代までは、神社もお寺もワンセットで考えられていました。
神社もお寺も同じ敷地にあって、僧侶が神官をかねているところも沢山ありました。
これを無理やり政治的な目的で分けたのが明治政府です。
現在の姿は明治以降に出来上がったものです。
現在でも東大寺の大仏殿のすぐ近くに八幡様(手向山八幡宮)があります。

僧形八幡神坐像|秘仏開扉|華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ
www.todaiji.or.jp/contents/function/buddha4.html

お正月の七福神も同じ宝船に仏様(弁天様、毘沙門天)と大黒様が仲良く乗っています。
吉野熊野や出羽三山の修験道のように完全に一体化した考え方もあります。
ということで、ご神体と仏像の区別がよくつかないのも無理がありません。
どっちもに似たようなものと考えられても一向に差し支えはありません。
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原初の即ち開祖のお釈迦様ゴータマシッダルータがリアル生存なされてた時、各地に説法場があり祇園精舎もそのひとつ。

釈迦は転々と各宿坊を巡っては説法から戒律修行を指導して歩いた。偶像崇拝を禁じ「私を拝しても何ぁも無いよ」と戒めて涅槃はよい行いと正しい修行(難行苦行ではない)で得られる。としましたが時代経過とともに「仏陀になる教え」は仏像解禁~礼拝解禁~遂に護摩行まで解禁の変化をとげました。
で、
そうなっちゃた空海さんは般若心経秘鍵の冒頭から、
仏法は遙か遠くじゃなくて自分自身の心に既に備わっており迷いや悪意で心が曇ってるから発揮出来ない。決心して正しく行ずれば自分に現象する。
として
像に読経や護摩祈祷しその理想の形を心にも思い描くやり方を長く続けて来たので、修理解体時でなくば魂も仏像にあるとしています。
でもやっぱり
ナマクラ坊主はしっかり居ますのでそんな所はナマクラ~怠惰~堕落~魔の住処へと脱落してます。
当然私ら凡夫はそんなん見えないから
知らないウチに伏魔殿を参拝してたり、ちゃんと日々供養欠かさない仏性を維持しとる寺にも行ってます。
でまた
どちらも目前の仏像見てもまず分からない。

と、いう所で制限字数が尽きました。
では左様なら
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世に仏の有るは難く、仏に出会うは難し。

(ブッタ゜)が、有り難い、の語源とも言われます。
ブッ(仏)とは、悟りに導くもの、あるいは単に、導くもの、であり。すべて縁によりて起こる、の理法では、
悟り、を起こす、自己の内からと、外からの、縁、によって導かれる、その縁が、仏、なのです。
悪業を重ね、地獄に落ち、苦しんでいた亡者が、ブッダに出会った。
亡者は、私は運が悪かった、もっと早く仏に出会っていたなら、こんな事にはならなかった。と言います。
ブッダが、そなたは本当に仏に出会った事はなかったのか。と問うと、男はただの一度もなかった。と答えます。それでは、そなたは、病や傷を負って苦しむ者、死んだ者などに出会った事はなかったか。と問うと、
そんな事なら、何度も有った、と亡者が答えると。ブツダは、 それが、仏、だったのだ。と答えた。
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お寺は本来、仏法を学ぶ場所です。


仏像は仏法を判り易く表わしたものです。

しかし民間に広まった信仰がやがて、仏像を拝むことで仏法の功徳を得ると考えるようになりました。

仏というのは私たちが拝むものではありません。人が仏法を実践して迷いを捨てることが出来たとき、仏になることができるのです。
如来や観音は私達が仏法を体得するために力を貸してくれるのです。
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私は仏教徒です。

仏像にはあまり興味がないのですが、興味があるのは経典で表された教えです。その教えは自分の人生の行動に影響を与えています。
私はお寺には本当の仏は居ないと思っています。お寺や仏像には仏教の教えが形となって表されているので、見える経典であると思っています。経典を読まなくても、仏像という見える経典で教えを感じて理解できるなら、それでも良いと思っています。
神様も拝むのですが、先祖と同じく身近に感じるのです。お願いしたりするのは神様です。偶像が無いので返って存在感を感じます。存在感とはお願いと同時に約束した努力を自分が自然と行なっていることです。結果は良いことに繋がります。
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>お寺という場所と仏様の関係についてが良くわからないので教えて下さい。



〇奈良東大寺の大仏、あのお姿が仏のお姿です。実物はもっともっと巨大なものですが近いお姿をしています。みな仏の前では平等になるのですね。宗教の中でもはっきりお姿をみせられているのが仏ですね。
その縮小版がお寺ということです。お寺の役目は仏の前で自身を振り返り仏の教えを鏡として反省と発展を誓うことです。仏のお姿は仏像として見ることができますが、それには理由があります。仏が一番偉い神様だから誰も文句がつけられないからなんですよ。神様にも序列があり、地上での混乱を防ぐためにお姿の像は許されない場合が多いのです。神道系の神様も偉いとことにはいますが他の外国の神様とのバランスからお姿の像はないのです。だから神社の祭壇には反省用の鏡が置いてありますね。像といえばイエスキリスト像と孔子像はありますね。仏がおすわりになる玉座の左右にお座りの大霊なので許されているのですね。その他の神々はお姿を残さないようにしていると思えば良いですね。まあ、日本では神道の神の力が強いですから神社はパワースポットですね。でも奈良の大仏の威力はもっとすごいんですよ。すべての神々の長ですからね。お寺は反省場所ですね。ご利益を望む場所ではありません。地元の神社は地域の神様が管理していますから多少のご利益を望むのも良いと思います。神々の世界もそのように細分化しているのですね。
霊界の構造を知ることですね。それが地上に投影されているわけです。知は力ですね。
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おはおようございます。




>「神社には神様が宿るご神体や杜がありますよね。だから神社自体がパワースポットや聖域として扱われています。」

「パワースポット」・「西域」と、扱われるには、「ご神体」や「社」が、必要なんですね。





>「お寺という場所と仏様の関係についてが良くわからないので教えて下さい。 」

関係無いでしょう。
>「仏様がいる場所」




>「仏はお寺に常駐していて、他にはいないものなんですか?」
>「お寺という場所と仏様の関係についてが良くわからないので教えて下さい。 」

・・・わからなくても、仕方がありません。
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☆仏像は有りますが、仏って仏像に宿るものでしたっけ?


◇宿りません。
仏像はただの木像や金属製の像に過ぎません。
形がないと拝みにくいので、礼拝の対象としておいているだけです。

ですが、仏像の姿には教えが含まれています。
仏像のあの姿には、仏教の教義上の意味が込められています。
その意味において、仏像はただの置物でもなければ、美術品でもありません。



☆仏はお寺に常駐していて、他にはいないものなんですか?
◇弥勒仏が56億7千万年後この世に下生するまで、この(娑婆)世界に仏はいません。
もちろん、仏は、お寺にもいません。
今は、仏のいない無仏の世です。
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あまり積極的には訂正されていないようですが、



仏教の大本は社会学に近く、

科学的な視点を用いて幾つかの概念を説明したもののようです。

仏は、=覚醒者と言われていますが、現代で言うところの学位に近かったと思えます。

後に再解釈されて、物理現象の一つに近いものに準えられています。



インターネットで検索すると、

これらについて説明しているお坊さんのHPとか見つかりますよ。

それまでの神秘的なイメージとかなり乖離しているので、

いったいどうして複数のイメージがあるのか調べてみました。

すると、

インドから日本に伝わるまでの時間経過があったためのようです。

インドの現地で広まった後、

時代と共に、他の宗教におされ気味になっていく。

そこで運営者が民衆(神秘的な事件に弱い人達)向けに、

少しづつ神通力や神話の世界を創作して行ったとのこと。

最後はセックスによって覚醒する、と言うところまで改変しているようです。

日本でも、

布教のために、創作を加えており、

日本ならではの仏教にカスタマイズされています。



一番最初は、

人間の脳の錯覚について提唱し、

これが社会現象として害になっていると説き、

特に悪い部分(余計に損をしたり苦しんだりする錯覚)を整理したようです。

科学、社会学、医学、精神医学(カウンセリング含む)、流行の自己啓発本などに

書かれている殆どの本質が的確に述べられています。


基本の原理と言うのが素晴らしく、

「因縁果報」

と4文字でまとめられています。

これだけで仏教を理解したと言うことになるそうです。

すなわち、さきほど述べた全てのジャンルについて達人になったということ。

因縁果までは、自然界にある物理法則を指しています。

報は、人の解釈と感想にあたります。

仏教では、物理法則は唯一一つだが、

これを観察する人がマチマチに報告するので、

混乱が多いとしています。

さらに、人間はどうしたって、自分で解釈したことしか知りえないのだから、

この間違いだらけの認識に一人で苦しむハメになるとしています。

殆どの人は、自分が見えていることが、本当に起きていると思っていますが、

大脳生理学からすると、本来の情報を再解釈しているため、

感覚すら嘘であるというのが本当のところ。


「Aと言う何かがあり、Bと言う特定の作用を及ぼすと、Cに移行する。

 これを人が見て、『不発弾を掘り起こしたら爆発した』

 と表現しているだけだ。

 「不発弾」、「掘り起こす」、「爆発」 と言う言葉は、

 すべて人が何かを見て感想として伝えた概念である。

 この段階で、すでに正しくイメージが伝わっていない。

 しかし、こういった言葉を使って、考えたつもりになることが出来る。

 情報も伝えたつもりになることが出来る。

 これで知識を蓄えたと思っても、

 再利用できないのは当然である。

 だから、自分が思った以上に、何も出来ず、ちっぽけに感じる。

 しかし、知識によって色々経験したと言う錯覚を失いたくないため、

 人は言い訳も考え出し、最後は別の人に八つ当たりをする。

 これが錯覚によりおきる、人の苦しみの原因である。」

と言う大意であってると思います。


確かに、

目に飛び込んだ光の映像も、実際にはしっかりと再生していないようです。

過去に見た映像で合成し、すばやく「見たことにする」ことをずっと続けています。

また、匂い、痛み、すら実際には感じておらず、

過去の記憶から合成したモノを再生しているようです。


こんなことに2000年位前に気がついてしまい、

それを伝えようとしたのが、般若心経です。


色んなものに夢を託して、頑張ろうとするのが人間ですが、

そもそもこれくらいいい加減な感覚を元に、

何かを積み上げていっても、むなしいだけなのだ。

と言う話のようです。


言葉をもてあそんで空想するくらいならば、

目の前にあることだけを処理して、後は体力を温存したほうがいい。

と言うのが基本の教え。

ところがどっこい、思った以上に人はそれができない。

余計なことに期待してワクワクしたり、

余計なことを恐れて不安になったりしますよね。

しかし、思い出せば、そういうことは考えても実際におきていない。

物理法則だけをおっても結果が同じかもしれません。

だとしたら考えた分損ですよね。


このように、

物理法則以外の概念を忘れるように修行する、と言うのが初期の教え。



さらに色々とよい話があります。

ビジネスの世界で大成した人が述べるようなお話が、

「天上天下唯我独尊」

と言う言葉でまとめられています。

今後ダレが何を語っても、これで終わりです。

人は色々な間違いをして、最後に何かしら確かなものを見つけ、

そして段々と思ったとおりに物事を運べるようになります。

そのときの感覚を本にしたり、大切だったことを人に伝えようとするのですが、

これに関しては、「現状天下唯我独尊」という言葉で終わってしまうようです。

この言葉の意味を正しく理解すると、

現代の人が書いたり、講演したりするお話が、しょぼく見えます。



科学の世界では、

生態系と言うのがあります。

どうもこれを輪廻転生としたようです。

こうした循環がおきる衝動みたいなものがあるとし、

人が死んでたんぱく質になっても、これが別の生命の体の一部になり、

前世の記憶はなくなっているが、

その物質としての存在はなくならず、永遠である。

という事ですね。

いまの時代ではがっかりするような話ですが、

当時には、捨てたものがなくなったとか、

どこかに消えたという捉え方をしていた人が多いはずです。

この時代に、生命の素が、他の生命の素になっていると洞察するのは凄すぎる。


大本にある、因縁果報、これを説明しようとした般若心経。

これらは、いまの時代の物理学で言う、量子力学です。


こういった概念を次々に思いつき、

簡単なたとえ話で伝えられないものかと、

頑張ったのがお釈迦様という事ですね。


ですので、この中で言う仏と言うのは、私たちが思う仏じゃないようです。

物理学で言うところの何かを説明しようとしていたと思えます。


後の時代で覚醒した人が、

仏はどこにでもあり、唯一でもあるといっております。

これはどうも、原始や分子、下手をすると素粒子のことをいっているようです。


人は仏に成って、永遠に世界の中に存在できる。

ここに至らない場合は、輪廻をくり返し、転生する。

ということすから、

分子レベルでたんぱく質として他の生命の素になるか、

量子レベルで完全に無と同一に近い(それでも有)状態にもどり、

また別の原子化からやり直すか、

これらのどれかだと言っているようです。


さすがにこの概念は、今の時代に成らないと、一般的じゃないですよね。

ですので、当時は神秘として解釈され、

他の宗教の神話と混同されていたということです。

当時のインドでは、科学や哲学も相当進んでいたようで、

これらに精通していた、学生(僧)や貴族が関心をして、

その概念を理解しようとした。


今で言うところの、

ホワイトカラーが最新の学問を学者から教えてもらい、

知的な好奇心を満たしているのと同じですね。



さて、質問に戻りますが、

寺とは、こうした僧侶(学生が)旅をしながら宿泊する施設として、

提供されていたようです。

wikiにもありますが、祭祀施設として仏陀の墓を見立てて祈る施設でもあるとのこと。

日本では、先に神社が沢山ありましたので、

神社が嫌がる人の死体を管理する公共施設として便利につかわれたようです。


仏教を伝える人は、常に神秘性を訴求する宗教と戦っているようです。

合理性を求める科学、数学などに大変近く、

神秘性を理由に自己努力をしないとか、自分を律しない人を物凄く嫌い、

入信させないらしいですよ。


ですので、寺には神社的な神秘的なパワーはありませんが、

どこにでも存在しうる仏(つまり素粒子や原子)が存在しています。

この原子のパワーは確かに凄い。


完全に分解すると、

光のスピードの二乗に質量をかけたのと同じくらいのエネルギーを発します。

これはアインシュタインが発見していますね。


滅多にその力を外に出すことはありませんが。


悟ると言う行為はこれらの物理現象を洞察できる観察力を身につけることらしいです。

このためには、自己の見栄、都合などで、物事の解釈を捻じ曲げて、

自分に嘘をつく衝動を完全に無くさないといけません。

(科学者が無機質に感じるのは、これに近いため)

この衝動を無くす一つの方法として、

自分と他人を識別する脳内の感覚を壊すそうです。

病気で言うところの統合失調症に近いですね。

怪我やメンタル疾患、先天性の疾患などで壊れた場合は、

正常な思考が出来ないため、

修行により、他の障害が起きないように自然に壊すとか・・・。


この様に、

仏教の本質は、迷信を信じる人を科学的に馬鹿にすることのようです。

これらがお経に取りまとめられ、説法として伝わっています。

信者は神秘を求めているわけです。

しかし、自分を馬鹿にする経を毎日必死に読ませされるわけですから、

大変厳しいですよ。


こういう仏罰とパワーは実際にあるようです。


以上、ご参考に成れば。
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仏は、お寺はもちろんですが、どこにでもいます。


木の中にも、あなたの中にもウンチの中にもいます。

でもそれではあまりにつかみどころがないので、仏壇やお寺の
仏像の中にいることにしてるんです。
そうしたほうが、みんなが拝みやすいしお坊さんも稼ぎやすいんです。
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