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仏教について調べていたら、「生死は日常茶飯事であり、執着すべきでない」とのことです。しかし、例えば自分の運転ミスで同乗者が大怪我をし、苦しんだのち死んでしまった、というような場合は、どう考えたらいいのでしょうか。善良な人は悩み、極悪人は悩まない、と思うのですが。

A 回答 (6件)

完全な人間はいないのですね。

だからミスは当然誰しもあるわけです。
高度な文明を選んで生まれた者には、新しい経験も当然感受できるのですが同時にハイリスクもあるわけですね。つまり、多くのものが集まった高度な文明ではハイリスクになることは誰しも知って生まれているわけです。この点は誰しも気づこうが気づくまいが事実なんですね。どのような環境でも「生老病死」からは逃れられない、その中には文明が故に生じるものもある。例えば、車や電車、飛行機事故などですね。それも経験なのですね。当事者はつらいかもしれない、しかし逃れなかった過去の事は反省し、新しい心で明日に向かって生きればよいということですね。それが仏の教えです。
ミスには理由があったのだろうからその理由を知って同じ過ちを起こさないためにも反省は当然必要ですね。それから、仏教では、反省しないものを悪人と呼び反省するものを善人と呼んでいるわけではありません。日々反省を忘れているものはほぼ全員ですから、その分類では全員悪人になってしまいますからね。
悪人と呼ぶのは前向きに悪(仏の教えに反する事や思想)を広めるものですね。事故を起こしたものには事故の罪はありますが悪人が故のものではないので回りも自身もあまりせめすぎることはよろしくないということですね。
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この回答へのお礼

反省し、新しい心で生きる。力強いお言葉、ありがとうございます。難しいことですが、努力したいと思います。

お礼日時:2006/11/15 19:15

趣味・教養のレベルで仏教に興味を持っている者で


専門的な教育を受けてはいません、という前提で回答いたします。

それぞれの宗教には様々な宗派があります。
それでもキリスト教などには正教(スタンダード)が存在しますが
仏教は珍しいことに自由な解釈を許します。
ですのでいろいろな解釈がある筈です。
とはいえ(揺るがない)「仏教の基本」はあると思います。

仏教は基本的に人生を「苦である」と捉えます。
その苦の原因を煩悩(執着)にあると考えます。
そして、煩悩の滅し方(執着の捨て方)を教えます。

ご質問文に戻りますが
自分の過失で他人を死に至らしめてしまい
それが苦しくてどうしようもない人に対して
仏教は救済として機能します。
でも、悩まない人は救済の対象とならない、つまり
仏教がカバー出来る範囲外のテーマになってしまうと思うのです。

イスラム教、ユダヤ教、キリスト教に代表される「一神教」は
契約の宗教であり、規範として機能します。
ですから、神の意思に背けば契約違反となり、神の御加護を解かれてしまいます。

仏教は悩まない人を相手にすることは出来ません。
(まあ、そういう人は信者にならないでしょうが・・・)
ただし、浄土真宗などに代表されると思いますが
仏教には生きることそのものが他の動植物の殺生の上になりたつと
考える傾向が強くあります。
業(カルマ)、なんて言いますね。
つまり、自分は何もしていない、他には迷惑をかけてない、悪くない
なんて人を諭すのも、仏教の役割だったりします。

生死に執着していると心の平穏が獲られない、と教えるのは
あくまで業(自分の中の悪)を自覚できるレベルになってからです。
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この回答へのお礼

人が生きるうえには、多くの他の命が犠牲になっている、それを業というのですね。勉強になりました。ありがとうございます。合掌。

お礼日時:2006/11/15 19:35

他人の生死に無関心であれという意味ではありますまい。

前後の文脈を覚えてみえませんか。私の理解では、不可避の死を恐れる私たちに、毎日死ぬことを恐れて生きていては幸せにはなれないという教えだと思います。
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この回答へのお礼

死というのは、どんなものかわからないので、こわいです。こわがってばかりいず、前向きに生きよということでしょうか。ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/15 19:31

仏教で言うところの本旨は良く知りませんが、


「自らの行く末について案じても無益である」というように私ならば解釈したいところです。
転ずると、目の前のことには全力で立ち向かう、ということにもなろうかと思われます。
運転ミスというのは過失ですから、この点での怠慢を責められてしかるべきでしょう。

今、現在のことに力を尽くしていなかったことの証明ですから、後悔なり非難なりがあって当然です。
人の命を奪っておきながら、生死に執着するな、などということを言うのは似非仏かボケ仏でしょう。

自らの生死に執着するなということであって、そのような結果のみに拘るよりも、その結果に至るまでの道程を大事にしなさい、といったような意味ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

目の前のことに全力をつくす、大事なことですね。失敗するときは、それができていないことが多いですね。反省し前向きに生きたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/15 19:18

なるほど・・・



簡単に述べます。

なぜ仏教が“執着(しゅうじゃく)するな”と説くのか・・・

人間は必ず執着します。
執着から解脱するときは悟りを開くときです。

つまり常に執着していることを、開き直らず、自覚するためです。

自分を知ることによってさらに精進するのです。

合 掌
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この回答へのお礼

執着してしまう自分の弱さをしることが大事なのですね。ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/15 19:12

極悪人はともかく、善良な人は悩むと思いますが、「執着しない」ということで、いつまでもそのことを引きずるべきではない、ということではないでしょうか?



死に仏より生き仏ということもあり、死んでしまった人のことを思いいつまでもくよくよするのではなく、生きている人に目を向けて前向きに行こう、ということではないかと思います。
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この回答へのお礼

前向きに生きる、ということが大事なのですね。しかし、これがなかなか難しいんですよね。ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/15 19:11

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