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悪意は悪意で返すべきなのか?

よく掲示板で相手のことを想って言っているのではなく、相手を貶めることで自分の優越感を得たり、相手を傷つけて苦しむのを想像して楽しむための書き込みを見ることがあると思います。
もちろんネットの世界だけではなく、リアルの世界でもありますが、そういうものにはどう対処すべきだと思いますか?

無視する、説教する、やり返す などなど

A 回答 (23件中1~10件)

やり返すのは、最低です。

泥仕合になるだけです。
相手が後輩であれば、説教も可です。
無視するのが、通常はベストです。超然としていれば良いのです。
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もうひとつのパターン



 私たちは仲が良い。幸せである。⇒彼は私たちを見て嫉妬している。うらやましがっている。⇒仲良くしているだけで不快に思い、偽善者であると思っているらしい。

 ということか。こういう腐った考え方しか出来ない奴がいるから、世の中忌まわしい。

 親との関係を見直さないでそのままいくとこうなる。
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「私は愛そのものである」という人間は他者に対しては愛そのものであるとは思わないらしい。

いまどきの新興宗教の教祖や幼児でさえ自分に対して「愛そのもの」とは言わないでしょう。これで騙される奴は「自分でここまで言うからには何かあるかも」と思うアタマの良い人か、言われたことをそのまま信じる頭のワルイ人のどちらかであって、少数狙いということであり、一般大衆狙いではないということか。


 自分は許してきた⇒怒っている人は非寛容であり、悪である⇒オレは善、あいつは悪⇒許し・見下げる姿勢⇒嘲笑

 こういうことか?

 まさに「私が愛そのもの」と言う奴が、対象の「悪」を作っている、つまり根っからの悪人ということになる。
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No.20の意見は面白い。



私も、例えば街中を楽しそうに歩くカップルがいて、そいつらを何も気にしないでいると、「なぜこいつは平常心でいられるのだろう、なぜオレたちを気にしないのだろう」という思いを持つケースがあります。そして、そういった雰囲気に私が気づくと、引っ込んで防御するか、攻撃をするかしかなくなります。なんとも忌まわしく、迷惑なことです。

 自分の存在の本質を自覚させられるのが嫌で、逆に意識的に責めてきます。

 だから、あるところまでいったら戦う姿勢を維持するしかないと言えます。
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悪意を私に向ける実質的犯罪行為に対し私はあくまでも善良なる人間としてその犯罪者を見ない接します。


犯罪者の人間性に接した結果、犯罪の病根は悪の下僕と化した家畜人状態であると気が付きました。
彼らは悪から解放されるべきです。
私自身の存在と行いは常に愛であり、同情と言う形で犯罪者の悪に感化されてしまう事をを避けながら冷静に犯罪に対処する限り、犯罪者の人間性が家畜のごときである事を正直に表してしまします。
同情をしない私に接している限り、悪意をもって他者に接する犯罪者は、犯罪者自らが家畜人である事を自覚してしまうのです。
私は犯罪者に復讐しません。
しかし犯罪者は家畜人に過ぎない自らに気が付いてしまうのです。
そうして犯罪者は私を逆恨みします。

悪に悪をもって接しないとこのようにダメージを受けます。
しかし私はその痛みを恐れません。
何故なら生きることは愛であり、私は愛そのものであるからです。
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>そういうものにはどう対処すべきだと思いますか?



 相手が悪意であるという判断すると、復讐、報復したくなります。

 悪意を受けたというフラストレーションは、復讐のカタルシスによって解放されます。
 復讐のカタルシスほど甘味でエクスタティックなものはありません。

 直接行動するのも悪くはありませんが、あまりに程度が度を超した場合は告発すべきでしょうね。

 個人が特定されないことをいいことに、ネット上で誹謗中傷する卑怯な輩は、
 見つけ出して、責任を負わせる必要があるのですよ。法律が遅れているにすぎません。
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悪意に悪意で返すと、必ず自分にはね返ってきます。


そういうものに対しては、「赦し」で対抗するといいでしょう。

相手に悪意があることを認めた上で、一つ大人になって「この人はこういう人だから仕方ないな」という目線をもつことが大事だと思います。

なかなか難しいですが・・・。
僕もそうなれたらいいな、とは思います。
ですが強烈なものには、反応して悪意で返してしまいます。
まだまだ未熟です・・・。

ですが、少しずつ良くなってきているのを感じています。

前述のような対応を踏まえたうえでの意見というもので、対処していくのがベストだとは思いますね。
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>「何を屁理屈こねやがって」みたいに思う人が多いんですよね。



なんか屁理屈をこねているようにしか表現出来ないっちゅうことは、本人でも何言っている判らないんじゃないんかね。哲学も学問だ。だから哲学やる本人も自分で何言ってるか判んないから学問をやってる。判ってたらそんな物やるほど人間暇じゃないもんね。だから、わけも判らずに物を言っているのは当たり前って言えば当たり前だ。でも、判んないながらも、何か本質を捕まえているらしいと本人が感じることができている時には、その人の表現の中に異様なオーラが出ているもんだ。オーラって理屈で相手に伝わるもんじゃない。だから、くだくだ理屈をこねくり回しているような表現きり出来ない奴は、こいつは自分の見付けて来た直感を本気で何とかしようとしていないな、ただ言葉の遊びで恍惚としているだけなんだなと素人が見ても判っちゃうんだね。

自然科学の中で最も単純な現象だけを選択的に対象にしている物理学だって、未だに公理論的は方法、すなわち、論理の局所的な精密性に基づいて、言葉を厳密に使いながら現象を理解しようと言う方法が成功した試しがないんだ。必ずどこかに神懸かった論理の飛躍なくちゃ人を説得出来ない。その神懸かりが新しい世界との遭遇の契機となって人々を説得して来たんだ。くだくだ理屈を捏ねているだけでどこにもキラっと不思議な光打出て来ない論文なんて、誰も相手にしてくれない。いわんや、哲学なんて物理学より桁違いに複雑な人間を対象にした学問だ。だから、くだくだ理屈ばかり捏ねて、オーラが全然こちらに伝わって来ないような表現しか出来ない奴らの言っていることが哲学だなんて、そんなことある筈がないと言うことを、素人さん達はすぐ分かっちゃうんだね。

ところが、物理でも同じなんだがその学問をやり始めた連中の多くは、初心のうちはいろいろ深い疑問を持っていたんだが、その学問を始めて見ると先人達の死体累々とした遺物を目の前に見せられて、「そうかこう言うことも判らなくてはこの学問は出来ないのか」と怖じ気付いてしまい、その死体を一枚一枚めくっているうちに、初心の深い疑問をすっかり忘れてしまって、細かな論理だ理屈が大切なことだと思うように洗脳されてしまうようだ。

本当に説得力のある哲学的な主張だったら、素人さんに「何を屁理屈こねやがって」みたいに思わせない表現が出来ると思うよ。
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 さて、ではどのようにその問題を解決することが出来るでしょうか。

快楽犯的な相手を槍で突けない変わりに、愛と憎しみ混ぜこぜになった情動で女を突き、女を喜ばせ、コドモを生ませ(生ませられ)、そうやって家庭は形成され、社会は作られ、人口は増えてきました。良くも悪くも、法の効果もあり、そうなってきました。人口が増えて良いこと、良い時代もあったでしょう。

泣いている赤ん坊を見て悲しむのではなく、笑って抱き寄せる人間になりたくなければ、

愛憎ごちゃまぜにした下衆になりたくなければ、完全に社会を捨て、一人で生きれば良いのでしょう。

一人で生きることが可能であったとしても、しかしそれではわざわざ生まれてきた、あるいは存在している意味がないと言えます。

もし、その中間があるとしたらなんでしょうか。

一人で100kgの荷物を背負ったら、潰れてしまうでしょう。

十人であればなんとか背負って生きていけるかもしれません。

百人であれば、程よい重さが身心を強くし、浮き草・根無し草の人間は地に足をつけて生きることにもなるでしょう。


もちろんこれは誰かを募って集団ですることではなく、個々の人間がそれぞれ対処していくことでしょう。
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訂正



×抑圧した人間と根本的な問題を解決していれば、そのような人間は目に入らないか、黙って見過ごすことが出来るでしょう。

○自分を抑圧した(と感じる)人間に対して根本的に問題を解決していれば、そのような人間は目に入らないか、黙って見過ごすことが出来るでしょう。
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