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現在の日本人って宗教に対して無関心ですよね?
って僕もそのうちの1人ですけれど、学校では、日本人の宗教に対する無関心さは、江戸時代、明治時代の政策のせいだと習いました。
その細かいことは省きますが、日本人特有の「あいまいさ」も今の日本の宗教に対する態度について関係してはいないでしょうか?

日本人の宗教への態度 と あいまいさ
これについて皆さんの意見を聞いていみたいです。

A 回答 (15件中1~10件)

柔軟って意味合いで、あいまいでもいいと思います。



ただ、その人が生きる上での主軸となる確固たる正しい徳や思想を持っていればの話です。その正しい徳や思想を植えつけてくれるものが宗教や哲学であると考えます。

その辺をあまり深く考えないで、生きる目的が金銭や物質、周りからの評価になってしまったり、ニヒリズム化して宙ぶらりんで生活している無知な日本人って多いんじゃないのかなと思います。

自分も人にどうこう言える立場ではありませんが・・・
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あいまいで良いのではないでしょうか?


どの宗教にも固執せず、自分のやりたいことを各宗教から取り入れるので良いと私は思います。
 なぜそう思うかというと、私はある宗教を熱心に信じていたけど、本当の意味で幸せ”ではなかったからです。
この宗教ではお茶、コーヒー、お酒を一切口にしてはいけません。又、神社で絵馬を書くことも私の両親に禁じられました。他のキリスト教ではお寺参りに行くこと自体を禁止している所もありますし、ハロウィーンを祝ってはいけないとか、クリスマスを祝ってはいけないとか、いろいろ禁止事項がありますよね。ユダヤ教の一派では豚肉を食べてはいけないとか、私の息子の友達にヒンズー教の子がいましたが、この子は”僕、ヒンズーが大嫌いだ、肉が食べたい”とぼやいていたらしいです。ヒンズー教にもいろいろありますが、この子の宗教では肉、魚、卵に至るまで全て摂取禁止、すごい所では一年中、太陽が昇っている時間は食べ物を口にしてはいけないんです。
 私も私の入っている宗教のみが唯一真実なので、他の教えを聞くこと、他の宗教の出版物を読むこと、他の宗教の集会に行くことはいけないことだと教わって育ちました。
 でも、それっておかしくない?と思うようになりました。他の宗教の教えでとてもわかり易く、自分の宗教になかった価値観を教えてくれたり、平安を与えてくれたりするものがあることをわかりました。
 それに、宗教をやると他の人に迷惑をかけることが多いことも気づきました。あれが食べれない、これが食べれない、でみんなに迷惑かけたり、日曜日しかみんなで集まる日がないというのに、自分は日曜日は教会へ行くんだ!と言って参加を拒んだり、他にもいろいろです。
 他人の気持ちを害することなく、自分の気持ちを高めてくれるものだけを取り入れていく方が一つに固執するより、良いのではと思います。私のやっていた宗教の教えで一夫多妻は神が命じた教えだ、と習いましたが、私はどうしてもそれが納得出来なくて、でも信じなくてはいけなくて、本当に辛かったですから。宗教をまじめにやっている人で、私と同じ悩みを抱えている人は多いと思います。もう、私はそれを今は信じていませんが。こう思えるようになうまで本当に辛かったです。
 新年に神社でお参りして、お寺で座禅を組んで、大好きな人とクリスマスを祝う、あるお坊さんの子が大きなクリスマスツリーを本堂に飾り、学校の友達を呼んでクリスマス会をしたそうですが、結構なことだと思います。宗教に対してあいまいである方が、争いのない、平和な国でいられるのかもしれません。実際、日本ではあまり宗教の争いってないですよね?これってすごいことだと思いますよ。
 あいまい=柔軟である、ということ でどうでしょうか?
 

 
 
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ブロードキャストの対象性は重要ですよね。

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私も日本人はホント無関心で残念です。

人の目ばかり気にして…
クリスマスだの神社だの何でも拝めばいいってものではないと思います。自分の信念というか哲学があればこんな日本にはならなかったと思う。私もそんな偉そうなことは言えないけれど、素晴らしい哲学に出会えてホント幸せです。現実は厳しいですが…(^^);
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私も無宗教ですが、家業の関係で幼いころから数々の宗教書や教えを学んできました。


ちなみに、家業とは特定の宗教と結びつくものでは全くありません。

日本人は宗教に対して無関心
という考えは、当たりでもあるし間違ってもいるような気がします。

私も独自の宗教観念は持っています。
それは自然への畏怖感とか人を超越した存在みたいなものへの憧れです。
そういうものは「信仰」といって、「宗教」とは違うものです。
「宗教」というのは、そういった個々人の心の自由な信仰ではなく
建物、偶像、団体、お金が絡んでいるものを指すのではないでしょうか。

昔から多くの日本人は、どんなものにも神(魂)が宿っていると考えてきました。
道端に落ちている石にも、小川に流れる水にさえも。
一粒の米ですら無駄にはしまいという慎ましさを持っていたのも
農業中心であった昔の日本人の暮らしが貧しかったからだけではないと思います。
そういった個々人で持つ自然崇拝という信仰心は、宗教とは結びつきません。

現代の日本人が、同様の信仰を忘れてしまったと言いますか
特に意識しなくなったことが無関心と言えるのかもしれません。

曖昧さと結びつけて考えたことがなかったので、以下は自信がありませんが
曖昧さが露呈したのは、他と比べる機会が多くなったからでしょう。
特に言語が関係していると思います。
日本語では、否定するにしても先に枕詞を多く付ける言い方になります。
「まことに恐縮ではございますが…(遠慮させて頂きます)」の様な。
感情よりも、その場の空気を読むことが美徳とされてきた風潮もあると思います。
英語では、先に否定語句が並びますよね。
使い分けは必要ですが、曖昧さは日本人の美徳だと考えます。

むしろ曖昧さをうまく使えなくなってきている今が何となく恐ろしいです。
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家族という視点から、参考文献から一部を借用したいと思います。



小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、日本の家族に対して、
「死者を、その死後でも相変わらず一家の生活の一部になっていると考え、また死者の方でもその子供や縁者の愛情を求めていると考えている日本の家庭の礼拝ほどの誠実な宗教はどこにもないし、またこれほどいじらしい信仰はどこの国にも見られない」
と述べています[ラフカディオ・ハーン, 神国日本]。

マルクス主義の基づくGHQ施政下の民法改正によってもたらされた、相続税法が、日本の家族財産にまつわる歴史、伝統を破壊しました。

日本の家族の崩壊と、最近特に顕著化している個と公の問題は、家族財産が相続税法により守られていないことから起こる、家族の分解、絆の消滅がもたらす道徳の腐敗に他ならない。と私も感じます。

参考文献
中川八洋著、 正統の哲学 異端の思想、徳間書店
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日本人は宗教に対して無関心ですが、それは「既成の、伝統的な宗教に対して知識が乏しい」というだけで、全体としてみれば非常に「宗教的である」と言えるでしょう。

そのことについてはこれまで様々な方が(七五三などの)伝統的な儀礼をもとに述べてこられたところです。それをどれだけ「自覚」しているかは問題ですが。

個人的な意見を述べれば日本人はそういう既成宗教の知識には乏しいが、宗教的なもの、特にオカルト的なものには大変興味がある人々だ、と言えると思います。

たとえば民放の朝のニュース番組には「今日の占い」のコーナーがありますが、「占い」はニュースでしょうか? 子供が生まれるとなると親がいきなり姓名判断に凝り出す、ということもあります。そうでなくてもとにかく「占い」は大好きで、さらには「風水」の本やグッズが売れ、「心理テスト」(これには科学的裏付けはありません)が流行り、という現状はとても「無関心」どころではありません。「霊感」などという言葉が平気で通用するのも「宗教的」でしょう。

どなたかが仰っていましたが、「宗教」というと組織として確立された伝統的なものを思い浮かべるものですが、それだけで現実を語ろうとするとどうしても無理があります。

また、「曖昧さ」についてですが、日本人のみが曖昧ではないと思います。
たとえばキリスト教は建前としては一神教であるわけですが、にもかかわらずマリアやキリスト自身、さらに多様な聖者が信仰の対象となっています。厳格な一神教ならばこういうことはあり得ません。クリスマスももともとは冬至の祭りをベースにして作られてきたものです。つまりキリスト教以外の宗教が基礎部分にあるわけです。そういう意味では、キリスト教も、そして欧米人も充分に「多神教的」で「曖昧」なのです。
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多神教の影響は今なお深いと思いますよ。

山の神・海の神なんて考えがあるじゃないですか。

また、神道の精神もある種の宗教心として日本人に根付いています。レストランでフォーク・ナイフは使えるのに、お箸が出てきたら「汚い」気がする。コップは皆で使っているのに湯飲みは自分のものがある。こんな風習も日本人の宗教心から生まれ根付いたものといえるでしょう。お父さんと自分のお箸を使い分けているでしょう?

「あいまいさ」はむしろ高度に文化が成熟した結果だと思います。伝えることよりも感じ取ることを重視した文化であり、茶道などもこうした流れの一つです。
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井沢元彦の逆説の日本史から引用させていただきます。



信長が宗教と政治のかかわりを排除したために、日本では宗教戦争がなくなったといいます。

信長は、武装宗教団体(比叡山や本願寺)を攻撃し、武装解除を行いました。
秀吉も、宗教勢力の抗争をとめるために、高野山金剛峰寺(真言宗の総本山)の武装解除を行ったそうです。

日本人では、宗教的あいまいさが、なぜ通用するのか。
他の国では、あいまいであることが許されない状況が多い気がします。
諸外国の宗教は、守らなければならないドグマがたくさんあります。
また、日本人以外の国では、神を否定する言葉は口に出しにくい雰囲気があるそうです。

アメリカでは、公職に就くとき、バイブルを手において宣誓する必要があります。
ローマ法王は、EUに対して、宗教的圧力をかけ、EU内のイスラム教徒などに不安を与えています。
イスラム教のトルコが、警戒するのも無理ありません。

人間は明るさに飽きたとき、果てしない闇を求める生き物なのかもしれません。
テロも神の思し召し、終末思想待望論は、英雄待望論のように見果てぬ悪夢。
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ご質問者の方、お呼び多くの回答者の方には「宗教」について誤解があるように思えます。



日本人は宗教に無関心なのではなく、自分が信仰を持っていることについて無自覚であるのです。というのはほとんどの日本人が日本教徒とでもいうべきだからです。

一般にこのような質問で問われる「宗教」は#4の方の言われるように、開祖が居て、教団や教派が存在し、その教義や信仰内容が明確なものと考えますし、その具体例としてキリスト教やイスラムを考えることが多いようですが、世界に存在する宗教を見て行くとき、必ずしも宗教には教団が存在するわけでもないし、教義がはっきりしている訳でもありません。

そのような宗教として一番分かり易いのはインド人の持つ信仰と宗教です。普通、ヒンドゥー教と呼ばれるインド土着の宗教はさまざまな神が存在するものの明確な教義はありません。もちろん開祖が居る訳でもなく、あるのはただ神を祭る寺院とそこにお参りする人々だけです。しかし、そのような宗教であるにもかかわらず、インド人を無宗教であると言う人は居ないでしょうし、インドの民族宗教としてヒンドゥー教は認知されています。つまり、「宗教」というものの形態には様々な物があり、一つの型に押し込めてはならないのです。

さて、元に戻りますと日本には神道と仏教(本来の仏教を日本的に変容しています)とをごちゃまぜにしたような信仰があり、それは仮に「日本教」とでも名付けられるものです。その内容については#4や#5の回答者の方が漠然とながら書いておられます。

ここにおける問題は、これを信仰であり、宗教であると自覚的に捉えられる人が少ないことにあります。
宗教とは教義だけのものではなく、一つの世界観を示す物であり、生活規範でもあるということを考えますと、日本にも明確に宗教が存在しています。積極的にそれを布教するような人はまずいませんし、教義も信仰対象もあいまいなまま存在しているのですが。

自然と人間とが一体化した世界観、そして、彼我の区別を明確にしない(仲間内の)和を尊ぶ態度・・これがkorochinさんのいう「あいまいさ」に繋がりますが・・七五三などにみられるお宮参りの習慣、彼岸や盆・正月に見られる宗教行事など日本人の信仰を示す証拠はたくさん見つかります。

また、同時に日本教にはもともと他者の宗教に対して寛容な傾向があり、なんでも受け入れていくという柔軟さと受容性があります。特に第二次大戦後憲法により「信仰の自由」が明確に保障されるようになってからは、多種多様な宗教が仏教系・神道系・一神教的なものを問わず成立してきています。

逆に言うと、そのような状況の中で、自分は「××教」を信じるという人は自覚的にそれを選んでいるはずです。

長くなりますので、これ以上の論及を控えますが日本人に宗教はないという認識は誤りであると私は考えております。また、無関心なのではなく、無自覚なのです。
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