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まず、自分は神様については非常に曖昧です。
居ると信じる人には確かに存在していますし、自分のように曖昧な奴には曖昧で、信じない人には居ない。そういう存在だと思っています。
次に、前に友人が輪廻転生を信じているという話を聴き、ついつい熱くなってしまい、自分が情けなくなりました。そういう考えだって、在ってもいいはずなのに。申し訳ない。
というのも、自分はそういうのって、「ずるくないか」と思ってしまうんです。本当に個人的な考えに偏りますが、人はただの生命体だし、意識なんてPCのメモリが切れちまうのと同じ感じで、意味も価値も何も無い。そういうのは人が定めたもんだし、真実ではないだろう。
けれど、そういうものだからこそ、大切だし、大事にしていけるのではないか?みたいに思ってしまうんです。ただの「人」だから、人生を己や周りに影響し、されて、息を引き取る。そこに確かに自分は「ここ」で生きていたか。それに対して満足したか。どうせ死んで意識も何も無くなるんだ。始めから自分の意思なんて関係無い。親がたまたま性交し、結果が俺だ。意味も価値も無い。それは確かに周囲の誰かには有るのかもしれないけど、結果としては俺にはなんでもない。憂鬱になるか?いやいや、だからこそ確り生きるべきなんだろう。そういう儚いものだから、人を殺してはいけないんだろう。それは身勝手だし、脆い者同士で潰しあっても意味が無い。だから人は不足を満たそうとするんだ。俺はそうなんだ。って考えています。友人に話した所、友人は「無味無臭になるからイヤ」と言っていましたが。これっておかしいですか?無味無臭ですか?そんな価値の無い生き方ですか?まだ二十歳にもなっていませんが、お願いいたします。

A 回答 (5件)

問題は二つあるようですね。

まずお考えの是非の問題があります。それから他人とのコミットの仕方についての問題があります。

有限だとわかるからこそ、今が大切だと思える――ということに質問者さんの意見をまとめればなるでしょう。失われると知ってこそ、大切なものに気付くという考え方は論理的です。「PCのメモリが切れるように」人の生が有限だということが分からないのなら、今目の前にあるものを大切にする気になどならないでしょう。
逆に大上段に、永遠だ、普遍だと議論を振り回す人の方が、限りあるということを甘く見ていて、身近な人を大切にできないということさえ起きます。私は個人的に、質問者の方の考えはまったく正しいと思います。

ただこの意見は質問者の方が周囲と話す時に、齟齬をきたすのが辛いというのが第二の問題のようです。おそらく神などいないという時、結論は短絡的なエゴイズムに終始すると先入観で判断されたのではないでしょうか。「神などいない。だから俺は好き勝手に生きる」的な議論だと危惧されたのではないでしょうか。
でも質問者の方の論点は別のものを含んでいると私は考えます。それは上に述べたように、有限を認めるとは自分についてだけではなく他に対してでもあって、これによって限りある相手の存在の貴重さも認められるということです。

無味乾燥でもないし、おかしくもないから、自信をもって、自分の考えを生きてみることが必要だと考えます。「そういうものだからこそ、大切だし、大事にしていけるのではないか?みたいに思ってしまうんです」という言葉の中身を示すように生きてみたらどうですか。たとえば、その友人のこともどう大切にできるか考えてみても、よい経験にはなるでしょう。就職したり、先を考えると誰かと友人であったり話相手でいられるのは、ほんの一時のものです。その方との付き合いも限られたものでしょう。
今は他人を論破して自分の正しさを確認したい、他人に認めてもらいたい、という欲求がもしかしたらあるかもしれません。しかし質問者の方との交流が豊かになれば、相手は自ずと質問者の方の生き方を認めるだろうと思います。

神などいないと言って有限を認める時、すべてのお付き合いは一期一会です。無限がないということは、有神論よりも緊張感をもって毎日に臨むということになります。相手に甘えてだらだら時間を費やしたり、配慮しないということは許されなくなるでしょう。
ラディカルな他者への配慮という点で有限性を捉えられるのなら、それは一つの愛情をもった生き方であり、価値あるものだと私は考えます。ただ配慮の問題は生活習慣にも振る舞いにも関わるものですから、理屈だけではなく、若いころから積み重ねていくものであるでしょうね。それが今問われている第一歩というところなのでしょうけれど……。

頑張ってください。
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この回答へのお礼

とても嬉しいです。
大変ありがとうございました。
そうですね。「今」を無駄にしないように生きていきます。
次に、自分を磨いて、悔いの無い生き方をしていけるように経験値を積んで行こうと思いました。ありがとうございました。

お礼日時:2010/12/23 14:19

 こんにちは。



 《神》あるいは《信じる》ということについてあいまいである――ここから思案が始まっている。のではないでしょうか。

 そもそも 同じ DNA の人間はいません。つまり《輪廻転生》をめぐってのことですが それはまんが以外では成り立ちません。

 神については
 ★ ~~~~~~~~~~
 まず、自分は神様については非常に曖昧です。
 居ると信じる人には確かに存在していますし、自分のように曖昧な奴には曖昧で、信じない人には居ない。そういう存在だと思っています。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ほぼそういうことだと思うんですが 最後の一触れがまだなおあいまいであるようだと思います。
 すなわち《信じる》という人間の行為は その対象が有るか無いか分からないから成る行為だということです。
 《居る・居ない》というのは 《その対象が分からない つまり 分かるか分からないかが分からない》ので 仮りに《有る》もしくは《無い》とそれぞれ自由に想定してそのあと――言語習慣として――有るならその対象を信じるとなりますし 無いなら信じないとなります。言いかえると 有神論と無神論とは 互いにまったく同等の《信じる》という行為なのです。
 つまり無神論は 《無い神を信じる》と言うのと同じことです。仮りの想定から始まっていますが それが言語習慣としてなら 人間の現実であるのです。しかもむろん 信教・良心の自由という公理において その自由がみとめられています。

 ということは とどのつまりに
 ★ 〔神について〕自分のように曖昧な奴には曖昧で、
 ☆ という第三の立ち場があるか? こういうもんだいになります。
 これはまづはっきり言えることは 《神について 有るとも無いとも自分の見方を明確には決めない》という立ち場であることです。
 言いかえると 《考える》という行為ではなくそれを超えたところにおこなわれる人間の行為 つまり《信じる》とはどういうことか? これについてあいまいであるということではないでしょうか?
 神ないし信じるということは 非思考だということになります。非思考の場が 人の心にはあって しかも《考える〔結果としての判断〕》を超えて あたかも賭けのごとくに 《われは神を信じる》かあるいは《われは神はないと信じる。われは無い神を信じる》かいづれかを人はえらぶということになるようです。
 
 もっとはっきり言えば 神は《無根拠》です。《なぞ》です。《人間のおこなう一切の経験思考を超えている》そのような心の非思考の場のもんだいです。
 ですから 《無根拠》であるゆえに たとえばあなたなら《信じない》と言ってしまえば 友だちらからもあいまいさは消えることでしょう。無根拠ゆえに信じるという立ち場もある こう認め合っていれば もう問題は起こりません。
 ちなみに 神は有るという立ち場の人びとが さらにこの神を何と呼ぶかで 世界にはいろんな有神論のかたちがあるようです。ですが ヤハヱーと言おうがキリストと言おうが アッラーフと言おうが ブラフマンと言おうがアミタ―ユス(阿弥陀仏)と言おうが・・・ すべて互いにまったく――そしてさらに無神論の《無神》とも――同じひとつの《信じるの対象(もしくは非対象)》だということになります。《ひとつの》というのは《全体として本質として同じ》という意味です。
 どうでしょう。
 あとは この原点から出発して行かれることでしょう。
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この回答へのお礼

脳たりんな自分でも、なんとか理解できた様に思います。
認め合い、尊重し、自分でできる最大限で理解しようと努めます。

先走りの思考をしてしまった事を悔やみます。
そして、ありがとうございました。頑張ります。

お礼日時:2010/12/23 14:26

この質問は、とても答えにくい。

なぜなら、対象としている宗教は、一応仏教と言うことにしておきますと、仏教が言っている生命感って、死んだら終わり、と言うような薄っぺらい教えではありません。だから、話がかみ合わないのです。信じなくても良いので、少しは仏教を学んでからでないと、質問も的確になりませんし、お友達の意見も理解できないと、結局、正しい反論ができず、頭ごなしの否定だけになってしまいます。
質問者さんの質問も過去にいろんな人が疑問を感じ、それに対して仏法に詳しい人がきちんと説明しています。
納得するかどうかは別にしても、仏法のイロハぐらいは、知ってないと、お友達の言っている「無味無臭になる」という意味も伝わってないのではないかと思います。同様に「価値」という言葉を用いておりますが、価値、価値観だけでも本が一冊書けるくらいの知識がないと、本当に理解されているか疑問です。

例えを変えますと、ここは、哲学カテゴリーですが、私は哲学は知りません。恐らく日本人のほとんどは、学んだことがないか、身に付いていないか、役立たせていないかのいずれかで、はっきり言って一部の研究者や特別な人だけにしか意味のない学問で、大きくの人には、役立っていません。だから哲学は意味のない学問で、価値がありませんから、存在しなくてもいいわけです。
これ、正しいですか?
輪廻転生は意味がない、と言うことと50歩100歩の質問だと思いますが。
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この回答へのお礼

確りと物の理解を深めるべきだと思いました。
・・・もうしわけありません。
しかし、ご指摘頂いた事と、回答して頂いた事に大変感謝しています。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/01/05 12:48

あなたはまず、【自分が存在する意味】を求めようとしています。


「死ねば無くなる」‥‥そうかも知れません。
しかしそこに逃げ込んで、「自分の勝手」、「他人の自由」レベルで思考停止したのでは、【『自分』以外(世界)が存在する意味】を知る事はないでしょう。
そこ(自我仮説と相補的に対発生する時空仮説)にこそ、「存在する意味」を超えた「生きる意味(他我性=愛)」があるのに。
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この回答へのお礼

そうです。俺は自分の価値が欲しいんです。
しかし、伸び白も薄く、何より判断能力が低いのです。
そして、俺は結局、なんと言われようとそういったものへ寄り添うという事は出来ません。信用するというよりも、一種のトラウマがあります。
結果として、友人を否定し、彼の素晴らしい人格を否定してしまっている事になってしまいました。この点には今更ながら申し訳なく思います。
自分は、自分で律していこうと思います。神様を信じる人が居ても、輪廻転生を信じて日々を生きる人が居ても、批判も迫害も決してしないように生きていきます。そして、自分が自分で肯定出来るような日が、出来れば死ぬ前に、いや、殆ど無いでしょうが、それでも生きていこうと思います。回答して頂き、大変ありがとうございました。自分は愚か者なので、こういった素晴らしい回答は大変助かります。情報を知れるというのは、素晴らしいことなのですね。

お礼日時:2010/12/23 14:34

人も動物も,生まれて,食べて,動いて,育って,パートナーを見つけて,巣を作って,


子孫を残して,働いて,老いて,死んでゆく。
ただそれだけの同じような存在に思えますね。
果たしてその存在に何の意味があるのか。疑りたくもなります。

人間は高等動物といわれますが,何が高等なのか,考えたことがありますか。
人間と動物の違うところ? 一つは信仰心や宗教かな。
動物やペットが手を合わせたり祈ったりしているところは見たことがないからね。

進化論によれば,我々は偶然発生し,偶然存在し,偶然今のような生命活動をするようになった。
これからも適者が生存し,弱ければ淘汰されてゆく。
存在に理由や意義はなく,未来も偶然によって決まることになる。
進化論に疑問を持たない人は,すべてが偶然の産物だと考えて,
なるようにしかならないと考えるでしょうね。

でも信仰心のある人や神(キリスト教の聖書が説く創造者)を信じる人は,
自分を含む人間は単なる偶然の所産なのでなく,
目的をもって創造された人類の子孫のひとりであると考えるようです。
だから人生には目的があるはずだ!というわけです。

何が真実かは,何を信じるかによって決まるようにも思えます。
でも相反する考えのどちらも真実だというのは考えにくいので,
それを考え抜くことで,あなたも答えを見つけることができるかもしれませんよ。
前述の相反する考え,それは人の存在は進化(偶然)によるものか,
それとも創造(意図的な設計)によるか,ですから,
それを考えてみると良いかも,と思いました。

私なりの考えはありますが,自分で探求することに意味があると思います。
若い方のようですから,焦らずに考え続けてゆかれると良いと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
どれも決して100%ではない。
けれど、それを責めるのはいけない。
迫害も否定もいけない。みんな違って良い。
ありがとうございました。
しっかり足を地に着けて上を向いて歩いていきます。

お礼日時:2010/12/23 14:36

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