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事実について貴方の考えを教えて下さい。

(1)事実とは何ですか?

(2)貴方の事実とそうでないものの判定の基準を教えて下さい。

(3)事実と認識の関係、貴方にとって事実とは認識出来るものですか?
 
 新聞・テレビの報道は事実? 見たら事実、聞いたら事実、納得したら事実なのでしょうか?


※前回質問しましたが、問い方がまずかったので問い直しです。

 地球は丸い、地球は温暖化している、オゾン層破壊、卑弥呼と云う人物がいた、イラクに大量破壊兵器がある、小沢さんは無罪…?
 表現が下手ですが、色々な文字言葉、情報につつまれて生活しています。

 凡てを単純に事実と受け止めて混乱している人も多いのではないかと思っています。
情報にホンロウされない生き方を啓蒙する道を模索しています。
ご協力下さい。



関連→ http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6495984.html

A 回答 (12件中1~10件)

認識の際には、立場とか手段とかの相違が「事実」を歪めてしまいますが、


言語による拘束から解脱した「真実」を「真実」なる言葉に貶めますと、
それ等の語の境界線が崩壊し兼ねません。

従いまして、此処の質問への回答は難しいのですが、
『「本音」と「建て前」との関係もが絡んでくる』という事情には、注意なさるべきでしょう。
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『事実』という言葉によって認識させ得る範囲の虚構です。

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1.事実とは、自分の五感で確認した事項。



2.自分の五感を使い確認しているか否か、が基準。

3.認識できるものしか事実とは呼ばない。
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>情報にホンロウされない生き方を啓蒙する道を模索しています。



とても大切な事かと思います。その為には、真実・現実・事実・思い込みの4つを整理されると良いかと思います。真実と現実と事実と思い込みの違いはご存知でしょうか?

真実に対して現実があります。
事実に対して思い込みがあります。

真実は、5次元のHITOTSUの動きだけがあります。
現実は、HITOTSUの動きを人間の五感覚脳の認識が4次元化させた事によって生まれた意識画面の事です。

事実は、個人一人ひとりの現実(意識画面)に対して人間共通の解析が入ります。
思い込みは、人間共通の解析ではなくて、個人一人ひとりの自分勝手で独特な解析です。

如何でございましょうか?

5次元とか4次元というものについて、少し書き足します。

次元とは運動の方向性を示す概念で、物理学的な観点から4次元というのは縦・横・高さの空間軸3つに時間軸1つを合わせた4次元だと言います。その観点から、脳の認識は4次元認識ですね。

そして、宇宙自然の真実とは5次元のHITOTSUの動きだけで成り立っています。

その5次元のHITOTSUの動きを、4次元化させてしまう人間の脳の認識が出会う事によって、縦・横・高さ・時間という存在やその存在の変化・運動・移動が観測されます。ですから、人間の脳の認識について理解を深める事で、現実・事実・思い込みについては相当数の事が理解・納得できます。

人間には、脳の認識のクセがあります。

1.部分だけを取る。
2.違いだけを取る。
3.過去のイメージと繋げて取る。

人間の五感覚脳の認識には、そうした認識のクセがある為に、真実とは出会えない様になっています。因みに、真実と出会う為には悟らねばなりませんが、悟りとは脳機能に固定された五感覚脳の認識が解除された状態の事です。

以下に紹介するYouTubeを観ると脳の認識のクセについて分かりやすく触れてあります。

『脳の認識のクセ(経営者のためのあり方講座) 1/2』


事実とは何か?
事実とそうでないものを分ける基準とは?
事実と認識の関係とは?

について応えました。

如何でございましょうか?
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私見、ご容赦を。



「事実」は「虚偽」とセットで用いられ、白黒や善悪同様に物事を
二つのどちらかに完全に分類しようとする場合に使われる概念です。

手のひらにコインを握って「この掌にコインを握っている」と言えば
それは事実です。

でも、それは事実と言う言葉を説明するためにわざわざ
事実以外あり得ない例を探して挙げたに過ぎません。

事実か否か、を問われる全ての問題はこの二つに
完全に分類することなど決して出来ません。
数学のように普遍的な定理は、純粋な「事実」に尤も
近いものでしょうけれど。

例えば、恐怖政治による大量虐殺事件があった、それが
事実か否かという問題では証拠の有無からその信憑性、
虐殺された人数が大量なのか違うのか、議論すればする程
混迷の度を深めるばかりです。

また、単純にオセロの黒面を指して「これは黒だ」と言っても、
議論しているのがプラズマディスプレイの開発現場であれば「いやいや、
まだ完全な黒とは言えない。色味が残っている。」と言う時もあります。

複雑な、多くは社会問題ですが、問題になればなるほど「事実」とは
「正義」の根拠とされ、批判や攻撃の正当化に使われます。
つまり、善か悪か、ではなくて事実か嘘か、であれば話は単純なので
多様な意見を議論させるような面倒を省いていきなり攻撃することを
正当化できるわけです。 問答無用、という訳です。

例えば裁判でも殺人か過失致死かを仕分けする際には
人の死という事実ではなくて必然的な故意、殺意の有無をもって
争われます。 殺された人や遺族にしてみれば一点の疑いもない
殺人でも、「殺す気は無かった」と被告が言い張れば、それが通って
偶発的事故死とされるケースもあります。

沖縄に核兵器が持ち込まれた、とすっぱ抜かれても政府は
米軍の艦船に積まれていただけだ、碇は下ろしていないから
運び込んだことにはならない、など誰も納得しない妄言じみた
言い訳でも臆面も無くいけしゃあしゃあと述べたりします。

このように、「事実」というのはそれが語られる場所・人・状況、背景など
様々な要素で同じ事象が正反対にも捉えられてしまう不確定な概念なのに、
この言葉は「揺ぎ無い、疑う余地のない唯一の正答」と言う「確定」を
意味する言葉なのです。 それ自体に根本的な矛盾を孕む言葉です。

しかし、人間の思考はいずれも事実を積み重ねることで成立するように
組み立てられています。 あることを事実と認定すれば、もはや
その是非を考えることを停止し、それを前提条件として次の考えに
進めるからです。 だからこそ、各々の思惑を抱えて尤もらしい不確定な
材料や個人的な見解を「事実認定」させようと血道を上げるわけです。

できるだけ「事実」に翻弄されない思考がしたいならば、事実というものを
それが語られている当事者の思惑の「成立要件」として捉えるのが
簡単な切り口ではないでしょうか。

でも、そのままではその誰かの思惑を測ることにしかなりません。
重要なのは、自分の行動の指針、理由、目的などを自分で信じるための支え、
裏づけとしての「事実」は何か、という視点を持つことでしょう。

事実を他者の言葉に探るという姿勢は、自ら深く考えることを放棄し
他人の意見を鵜呑みにしがちです。 それは意思を見知らぬ他人に
委ねる事です。

例えば南京大虐殺が事実か否かの議論があるとします。
あなたは自分で調べてみて、殺された人々の人数ではなく、戦時下の敵地という
狂気の場所で侵略者として憎悪されている日本兵が華人を蔑視し、ゆえに必ずや
暴行・略奪・虐殺があったと信じたとします。

これだけではあなたにとってさえ、事件は「事実」にはなっていません。
知らずにいるのは嫌だ、何かできることがしたい、あなたがそう考えて
海を渡り、災害救助などのボランティアに身を投じたとします。

そこで出会う沢山の中国人と、世界中から来ているボランティアと出会い、
様々な係わり合いを通じて知識と経験を重ね、あなたにとっての行動の
「真実」にまで、それは昇華されていきます。


社会の中で議論される「事実」は揺らぎ続けますが、あなたが
自分の意思と経験の中で培った「自分にとっての真実」はより強く、
あなたの生き方を揺ぎ無いものにしてくれるはずです。

言葉は、時に人の行動を抑制し、出口のない迷路に誘います。
でも、生きるコンパスとなる自分の「真実」は他の言葉で言い換える
必要もないし、尤もらしい理論にまとめる必要もありません。

何故ならその都度すぐに自分の中で答えが出るものが大半で、
それは為すか、為さぬかに集約されるシンプルなものです。
為し続けた後には、あなただけの足跡が延々と標された
あなた独自の人生が出来上がっていくのです。
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事実は、ないと思います。

私達が、話すには、言葉を使い、相手に伝わって、意味をなします。言葉は感覚機能を通して、経験してきた事を、行動や言動としてあらわします。表現をすることは、脳により、外界やものが、形として認識されます。事実という考えも、脳のつくりだしたもので、事実があるのではなく、言葉が存在しているにすぎないのではないでしょうか。
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予め申し添えておきますが、教える立場でない上に、「事実」に加えて「コレガ真実ダ」とか、「コレガ真理ダ」という言い方を嫌っている、と言いますか、そういう言い方には、私は鼻から眉に唾を付けるほうです。

で、ご質問の(1)~(3)にあてはまらないことを一つ思ったのですが。

「事実」という言葉が中心に据えられて居るようなのですが、
bjazzさんは「凡てを単純に事実と受け止めて混乱している人も多いのではないかと思っています。」と書かれて居るわけですから、
「凡てを単純に事実と受け止めて混乱している人が居る」という「事実」
を言って居られると解してよい訳ですね。私は、その事を疑わしいと考えます。「混乱している人が居る」という事には疑問の余地は無いと思いますが、「凡てを単純に事実と受け止め」る人は、居ないのではないか。まあ言葉尻を捉えての物言いですけれどもね。bjazzさんの例としてあげて居られる「事柄」を全て事実であると言う人は居られるかも知れませんが、そういう限定ではなく、文字通りの「凡てを単純に」ということは、そもそも他者が認定し得ることではないのだから、「居るとは言えない」と私は思います。

「情報にホンロウされない生き方を」という言葉ですが、これは、自分あるいは或る他者が「情報にホンロウ」されている、あるいは、されていたという「事実」の認定が先行されているのでしょうね。それは「或る情報」に関してでしょう。全ての情報についてという筈も無し云々、まあこれも言葉尻を捉えての物言いのようになりますがね。

情報一般について、事実とそうでないかを判定するリトマス試験紙のようなものが、現にあると言うのではないなら、あるかのごとくに考えるのではなく、地に着いた考察が必要ではないか。個々の情報というか、何等かの分類を施した上での整理に基づいて考察するべきではないのか。bjazzさんの関心の方向は、いわば空中戦のように見えます。偶には空中散歩もよいと思いますが、単なる空回りを、高みへの飛翔と誤解しないことも注意すべきことの一つではないか、と愚考します。
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例えば、


女性が子供を産んだ。
その時に、その女性が自分で子供を産んだんだと認識出来れば事実。

要するに自分の経験から疑う余地のないものが事実。

でも哲学的に考えればそれも事実じゃないかもしれない。
人間の脳は騙されやすいからね。

あんまり難しく考えない方がいいよ。
世の中のモノなんて疑う余地なんか、いっぱいあるし。
次々と真実は塗り替えられてくし。
それを楽しめばいいよ。
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事実とか真実。



人によって物事の捕らえ方が異なりますが、義務教育により、一定の共通了解を植えつけられますよね。

例えば、日本は戦時中にアジアに進出して、アジアの人たちを征服していた というもの。

東京裁判で犯罪者が裁かれ処刑され、独裁政治は排除され、国民主体の民主主義になった というもの。

マイケル・サンデル氏が、東京大学で「これからの正義」について講義をしたものを観たのですが、その中で、戦時中に日本が行ったことに対して、現代の日本人はアジアに対して謝罪すべきか、謝罪するとしたらいつまでか」というもおがあった。


議論するというために仮定の話で取り上げたことはわかっていますが、「なにか日本が悪いことをした? なにを?」って思いました。

西側諸国の人たちは、卑怯な日本がアジアを侵略し、頭にのってアメリカも攻撃したというのが共通了解らしい。

9.11が発生したとき、第二のパールハーバーだ」と言われたそうです。

で、マッカーサーは東京裁判は人類史上もっとひどい人間の愚考の極みであり裁判ではなくリンチだ」みたいなことを語ったそうです。

何故日本がアジアに進出しなければならなかったか、何故パールハーバーを攻撃したのか、その弁論を封じ込めてさせなかった。
だから口を封じてボコボコにしたので、裁判ではなく集団リンチとしたわけです。


で、諸外国の認識は日本が頭にのってアジアを支配して傲慢な態度をしていた なわけです。
あっちから見える日本は そういう風景図なんです。


でも、日本にしてみれば、アジアで独立していたのは、日本とタイぐらいのもので、他のアジアの国々は西側諸国の奴隷となっていた。
要するにプランテーションと同じです。
貴族が農奴を使っていろんなものを作り、農奴にほとんどを差し出させ、その商品を高値で売りさばき儲ける。
西側の人たちの奴隷となっていたアジアを奴隷から開放しようとしたのが日本。

どうしてそんなことをしたのかというと、西側諸国がアジアを支配しきったら、今度は日本が奴隷になる。
アジア諸国が押しよせてくる西側諸国を押し返して自立していれば、西側諸国が日本を植民地にすることは無い。
それで、アジアにがんばって欲しかったが、自立してくれず やられ放題だったので、日本から軍を派遣し、満州国という国を作り、そこの資金を投入して地域を活性化させ、中国にいる人々に技術を教え、やがて日本が撤退しても、自立してやっていけるようになるようにと、アジアに進出した。

独立していた日本が「ここは日本のもの 触るな」ということで、うかつに西側諸国は手を出せませんから。

ところが、そんな思いが日本にあるとは知らない、満州国の人は日本を裏切った。


西側諸国は生意気な日本に思い知らせてやることにした。

それで経済封鎖をしたわけです。 イラクも同じ目にあいましたよね。
海外にある日本の資産を凍結し、日系人は強制収容所に入れた。
資源に乏しい工業国日本が、資源の供給をすべて立たれてしまうと、物を作って売れません。
「欲しがりません 勝つまでは」という標語があったそうですが、経済封鎖されても原料が入ってこず、物資が不足した結果、庶民の生活が困窮していったわけです。

西側諸国はここまですれば日本は存亡の危機になり、戦争をせざるをえなくなるだろうとみた。
計画通り、日本軍はアメリカに戦線布告し、ハワイにあるアメリカの軍事基地を攻撃しに向かわせた。
オーストラリアも日本の艦隊がハワイに向かって航行しているとアメリカに知らせた。

ですが、日本に攻撃してもらわないと、アメリカ国民が怒って参戦に参加してくれないので、わざと日本にハワイの軍事基地を攻撃させるにまかした。
アメリカの予定通り、3000人以上の兵士がその攻撃で死に、いきなり日本が攻撃してきたと報道し、アメリカ国民は怒り狂って戦争にアメリカが参戦することを望んだ。


日本がハワイにある軍事基地を攻撃したのは<事実>です。

しかし、思い上がった日本が大国アメリカをも食い殺すつもりでやったのではない。
はめられて戦争するしかないところまで追い込まれたので、自国の存亡をかけて攻撃した。
これが<真実>

でも、世界の共通認識は 事実のみで真実は語られない。


WTCが崩壊したのは<事実>です。
しかし、目的は戦争を支持させるため。
第一次世界大戦も同じ。

しかし、真実は教科書には載らない。事実だけ載る。
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事実は二つ。


1っは。
諸行無常、という(古代インド哲学?)の言葉が伝え、また誰でも認識するであろうように。
 常なるものはない、すべては、世界も、我も、変化し転化してゆく過程として、今あるのみ。
 ということ。
もう一つは。
 今という世界は、物、と言われるような。有る、固定されていると捉えられる。対象、と
 物が変化する。という事象が。我がなくとも。貴方が居なくとも、存在している。ということです。

私の事実は、最近、光ファイバーに変える中継ぎとして、ソフトバンクモバイルに変えて。相談箱へのサインインが。出来ず、いつも、別のIDからのサインイン、とかになり。回答などを書いても、エラーになることが多く。久しぶりに、送れるかどうか、回答がてら試してみよう。と、今、キーボードを押したりしている。
いうことです。

事実と認識の問題は、古代ギリショ哲学の基本課題であったようです。
仏教の言葉に「群盲象を語る」というのがありますが。過去の体験や知識で、論じても。
事実には到達しない。知識はどこまでも、過去の人物の体験や認識の、表現、を、自己流に解釈あるいは誤解、したものなのです。
へーゲルが「ミノルベの梟は夜の帳が降りてから飛び始める」と表現しているように。過去は既に何処にも存在しない。痕跡から、過去の事実を、推測、想像、する事しか出来ない。事実は既に存在しないのです。
ソクラテスの「在るものを在るがままに見る者は、思惑愛好家、ではなく、愛知者、哲学者(もの)と呼ぶべきものではないかね。」に対抗して?プラトンは、在る者を在るがままに見る事は出来ない。
本当の事実、エイドス(実相)を知るには、エイドス=イデア の形態。実相と合致する知恵=考え方。
が必要となる。と考えたようですが。イデアは、英語のアイデアの語源となっているように。
閃き、とか、天才的発想、などと表現されるような形でしか、知恵は出てこないもの。になっているようです。
新聞テレビなどの報道は事実か。企業のコマーシャルと一体であれば、視聴率などの思惑、があり。
報道する者が、思惑愛好家、を超えていることはないでしょう。
私は。自分の理法、考え方を求めようと。30年ばかり前から。読書はしない、新聞は購読しない。と決めていた者です。もちろん、守れたとは言い難いし。最近、やらない、と決めていた、ネットも始めました。思惑もありますが。先はないのに時を無駄にしている感もあります。
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