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 日本語は 論理表現にふさわしくないか?

 ( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。

 ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく 
  (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは
  (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。
 といった要因があるのか。

 ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。
 それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。
 ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?

 ( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道も仏教も 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?
 すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?

 ☆ どうお考えになりますか?
 上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?

  

A 回答 (25件中1~10件)

ましゅまろです。


削除済みの「常識のない高齢者」の拙文宛てのコメント「印象批判はたましいがごりんじゅう」につき、自重自省すべく退会して暫く自問自答してはみたものの、自身では殆ど理解に至れなかったため、その真意を伺うために先の「審美眼」に投稿した次第です(No.119)。
しかしながら、その際にもご説明頂けなかったので、再度このようにID取得の上であらためてご説明願います。

そして1点、
>☆ 《飛躍する必要などどこにもない》 これが聞けてよかったわけですが 専門家のあいだでは 《論理でしか分からない》という見解を持つのだと思います。素人の声がしっかりと聞けるようになることを まづはのぞみます。

はい、先の拙文はあなたの仮説(=提案)の意を最大限に汲み沿った寄稿でしたから、これをふまえ、20世紀の抽象絵画と言ってもそれはもう多種多彩であり、それらの「美をわかる」ためには美が美的快楽をもたらすものなのか云々はさておき、神智学なりユダヤやプロテスタントなどといった宗教性の考慮欠かして自ずと限界があるとだけは最低限申し上げておきますね。

ところであなたは過去に幾度か大野晋に言及なさっていましたね。
以下に掲載の骨子も既にご承知のはずです。
今回のご質問はこれとは異なる問題提起をなさっているのでしょうか。
日本語の論理性を問題とする背景には異文化理解や比較が当然絡んでおりましょう。
www.magokoro.ed.jp/umegaoka-e/original/book/nihongonokyositu.pdf
(上記サイトが繋がらなければ、以下の「『日本語の教室』大野晋 岩波新書」をクリックして下さい)
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclien …

この回答への補足

 ましゅまろさん No.10は どうですか?

 みなさんに問いかけたいので とりあえず あなたにうかがってみます。

 質問者じしんはすでに答えていると言いたいところですが それがNo.10には効かないみたいです。











 アッキの道をひた走りにすすんで 引き返して来たのではなかったのですか?
 ☆☆ 吹っ切れましたか? まだですか?
 ☆ の内容です。

補足日時:2011/02/22 07:06
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この回答へのお礼

 ましゅまろ・まるめろさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 仮説(=提案)・・・をふまえ、20世紀の抽象絵画と言ってもそれはもう多種多彩であり、それらの「美をわかる」ためには・・・神智学なりユダヤやプロテスタントなどといった宗教性の考慮欠かして自ずと限界があるとだけは最低限申し上げておきますね。
 ☆ たぶんそれらの論理や知識が欠かすべからざるものかどうか 欠かしたとき理解に限界があってどうしてわるいのか そのあたりで見方は分かれるのではないでしょうか?

 美の鑑賞としては その情報は要らない。それくらいの美が表わされていなくては だめだ。そして評論としては必要として読む場合がある。――これらの分かれ目がどこにあるか? だと思います。
 聖書の物語から題材を採った場合でも その物語を知らなければその絵のよさが分からないということであれば それは美術としての絵がつたない。という見方も成り立つのではないか。こう考えております。

 お聞きしますが けっきょく何が問題なのですか?



 大野晋を紹介してくだすってありがとうございます。わたしの日本語の先生(私淑)ですが たしかに日本語の原語だけでは (1)抽象的な語彙が足りない (2)長ったらしくなるという事由で だめな部分があると確認しました。忘れていました。

 まづ大前提としての心構えのようなこととして:
 ◆(大野晋:『日本語の教室』)~~~~~~~
 www.magokoro.ed.jp/umegaoka-e/original/book/nihongonokyositu.pdf

 p.227  人間は母語によって思考する。母語の習得の精密化,深化をはかることなくして,何で文明に立ち向かうことができよう。(中略)母語によって客観的世界を出来る限り精しく理解し,母語によって的確明晰に表現できる力を養わないで,外国語をうまく使おうとしても,可能であるはずはない。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを踏まえて 上の(1)ないし(2)ですが:

 ◆(大野) ~~~~~~~~~~
 p.129  ヤマトコトバだけの体系は,漢語や英語の精確な意味区別を一語としては把握し確立することができない体系なのです。
 ヤマトコトバは,それだけでは,生活の複雑化・多様化に伴って発達し精密化して行く物事を一語一語で表現することができない。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかにたとえば:

 ▲ 第五子:いつはしらにあたりたまふみこ
 ☆ と読まなければならなかったりします。
 次は 時代が経ってから読めなくなっていたらしい。

 ▲ (万葉集 一・48) ~~~~
 東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
 ひむかしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりはぎゃくに 漢文の簡潔さだけでは 簡単すぎるということにもなるようです。あるいは:

 ▲ (日本書紀・崇神天皇) ~~~
 識性聡敏。 幼好雄略。
 みたましひ さかし。わかくして ををしきことを好みたまふ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように原文の漢文を 読み下しているようです。


 ◆(大野) p.180  現在の日本人が事実を的確に,正確に把握する力に欠けて来た,事実とか真実に対する誠意が足りない,因習として虚偽と隠蔽が優先する
 ☆ このような心構えの 今度は 展開の問題になると (β)や(δ)の主体の側の表現の力や態度にかかわって来るようです。



 まだわたしの答責性はのこっていますか?


 今回の質問は (あ)このところ論理性に欠ける文章ややり取りを見るにつけ どれだけ傲慢と受け取られたとしても 見過ごすことができないという心つもりを振る舞いに表わしたかったこと そして(い) 少しづつ探究していきたい言語の構文という主題 これをからめたいと思ったこと からのものです。

 直球で文句を表わし得ますか?

お礼日時:2011/02/21 16:22

どうも。

ピックスです。 少し時間が空いたので、おじゃまします。

いろいろ検証してみたので、中間報告みたいなものと思って、
軽~く、聞き流してください。

君子とか仁とか古い言語についてなんですが、難解すぎるので、誤解釈されるくらいなら、
むしろ、使わないほうが良いという結論が出ました。
テツガクを論じる場合に、必然性が無い限り、用いるべきでない
ということになりました。言語は、あくまで共通であるべきです。

あと、アマテラスについて、ある特徴がわかりました。
それは、自分で掘った穴に、自分が落ちる、といった現象です。
一度ならず、二度までも。。。。。

ろくに働きもしないで、高給を得てしまうと、人間が馬鹿になってしまうという
あはれな現実を見ました。

これぢゃ~日本も救われないはずですね。是非、一石と言わず、
二石でも三石でも、投じてあげてください。

私は忙しいので、このへんで。では、いずれまた。。。
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この回答へのお礼

 ぴっくすさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 君子とか仁とか古い言語についてなんですが、難解すぎるので、誤解釈されるくらいなら、 / むしろ、使わないほうが良いという結論が出ました。
 ☆ 語彙の問題のようです。互いに同じ語を遣っていても それぞれ違う意味を思っていたりしたら 何にもならない。そのちんぷんかんぷんが しばらく続くということもなきにしも非ず。
 君子とか仁とかふるい言葉もそうでしょうし 学術語や専門用語でも誤解が多いようです。

 あるいは逆に 学術語の場合には げんみつに規定して用いているというのですが その規定には何らかの条件がつけられているということも多いようです。そうすると その条件づけの内容によって話が規定され制約を受けるという場合も少なくないのではないでしょうか?
 つまり その条件づけや最初の規定についてさらに説明をつづけて与えるという場合なら だいじゅぶなのでしょうが 途中でほっぽり出してしまって 説明をしなくなるというときには 困った結果になります。では何のために 話を始めたのかと問わなければならないことが出て来ますから。


 ★ アマテラス公民ないし公務員
 ☆ の問題が取り上げられていますね。
 ★ ~~~~~~~~~~
 ・・・ある特徴がわかりました。
 それは、自分で掘った穴に、自分が落ちる、といった現象です。
 一度ならず、二度までも。。。。。

 ろくに働きもしないで、高給を得てしまうと、人間が馬鹿になってしまうという
 あはれな現実を見ました。

 これぢゃ~日本も救われないはずですね。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 昔は――ひょっとして今もまだ(?)―― 官僚には無謬性というオ―ラがかかっていると思われていました。官僚じしんも そういうつもりで 一方では人一倍勉強もし仕事もばりばりやり 他方ではそのあたまの良さや仕事の公共性(そのとうとさ)に時にはあぐらを掻いてしまうということもあったのでしょうね。
 とにかく自分たちがあやまつということなどはあり得ないと固く信じていたようですし 一般市民もそれに 或る程度は信頼していたようですから。

 これからは ムラ(市町村)の公共の仕事で いい役割をいろいろになって活躍して欲しいものです。スサノヲ市民らと同じ次元でともに手を携えてあゆんで行って欲しいと思います。

 ありがとうございました。お仕事 ゆっくりしっかりとどうぞ。

お礼日時:2011/02/27 15:23

日本人は空気を読む民族だから、言い回しが曖昧な、直接的な表現を避けるための表現・文法が多い。


そのため論理構造がよくわからない。
故に日本語は論理表現にふさわしくない。

やっぱ英語ですよ英語。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 (β)系列の 主体の問題(β-1)と社会環境のそれ(β-2)からさらに 総合的にしかもあたかもさだめとして(β-3)のごとく 日本語はその歴史的な成り立ちとして・ただし社会現象としてだけの事情からだけれども 論理表現には不向きである。
 こうなりましょうか?

 そうですね。でも このご回答のように 論理表現として内容が伝わっているということもありますね。

 けっきょく《空気を読む》場合の用法と《論理表現》としての用法とをどちらをも使い分けすることができればよいかも知れません。
 つまりもしそうであれば じつは日本語は奥行きが深い言語であるとさえ言えるかも知れません。
 その点 英語は 奥が浅い。ように思われますが どうでしょうかねぇ。

お礼日時:2011/02/26 21:51

ANo.13ですが改めて回答させて下さい。

論理の記述に必要な言葉の一群(かつ、でない、または、ならば、等しい等)が日本語に備わっている以上、日本語で十分に論理を記述することが出来るはずです。ご質問の趣旨は日本語で論理的かつ明瞭で美しい文章が遭遇し難いことへのご不満のようだと想像してお応えします。
 先ず、論理的であるとは明瞭で発展の可能性がありそうだとの「価値」があるからだとしましょう。一般市民の欲する「価値」には利得の向上・安全の保証などが大きいでしょう。権力者の欲する「価値」は権力基盤の維持と発展でしょう。国民全体の求める「価値」が立場ごとに異なります。論理的であることに広く優越的な価値があるとは認められていません。国会論戦でも野党はより理論的で与党ははぐらかしでの対決が多いし、審判の議長はこのことに知らん振りです。日本国内での論議の多くがあまり理論的でない背景は理論的であることの「価値」が一般的に大きくないからだとお応え申し上げます。
 論理的な日本語がしばしば語られている領域とは、生活者の乏しい(利害の衝突しない)領域でしょう。学問分野や純粋の宗教の教義論争が挙げられましょう。なお、国語教育の主眼は「感覚の表現」であって「論理性」に関心が乏しいようです。
 政治的であることよりも、明瞭で発展性のある論理に楽しく期待するためには何がしかの「胆力」が必要かも知れません。
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この回答へのお礼

 おとめさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 文面をそのまま受け取ってお応えするとしたら 次のようになります。

 ★ 論理の記述に必要な言葉の一群(かつ、でない、または、ならば、等しい等)が日本語に備わっている以上、日本語で十分に論理を記述することが出来るはずです。
 ☆ いきなり質問者の主観を出しますが:
 ○ 言語はそれがいやしくも言語であるならば 人びとのそれぞれの思いや考えが その社会的な交通の中で練られて現われ己れもさらにそこで考えを深め広めるというときの――情緒をも交えたところの――論理思考を 表わし得るようにつくられているし そこで語彙が足りなければどこかから借りてでも何とかする。
 ○ 論理性は 人間の社会的ないとなみに沿って・必要に応えて持たれつくられていく。言語もそのコトに出来るかぎり答えるはずである。
 ☆ すなわち どんな言語でも 論理表現は可能である。と考えますが どうでしょう?

 ★ ご質問の趣旨は日本語で論理的かつ明瞭で美しい文章が遭遇し難いことへのご不満のようだと想像してお応えします。
 ☆ 《日本語は 論理表現にはふさわしくない》という声をちらほらか あるいはけっこうかまびすしく聞くようですから 挙げました。
 差し迫った事情も同時にありました。この質疑応答の場そして哲学カテにおいて見られるいちばんの典型例は 《輪廻転生および因果応報》の説 これを主張するあるいは擁護する議論を聞いていると 赤ん坊のあわあわとか ふにゃふにゃとか発声する音と違わないと思った経験からです。

 ★ 先ず、論理的であるとは明瞭で発展の可能性がありそうだとの「価値」があるからだとしましょう。
 ☆ 一足飛びにそうであるのではなく おそらく互いの思想(生活態度)を伝え合うことだと考えます。互いに誤解のないようにというその最低の次元での意思疎通が 論理表現のよさだと見ます。
 明晰性が求められ さらにはもし将来へ向けての生活態度すなわち思想であろうとしているならば その互いの社会的ないとなみにおいてよりよき進展がのぞまれるでしょう。経済としては安定成長がのぞまれましょう。

 ★ 一般市民の欲する「価値」には利得の向上・安全の保証などが大きいでしょう。権力者の欲する「価値」は権力基盤の維持と発展でしょう。国民全体の求める「価値」が立場ごとに異なります。
 ☆(あ) ですから 論理表現の効き目は このあと発揮されるのでしょうね。そういう社会的な交通(まじわり)における意思疎通のためだと思われますから。
 そのような趣旨は じつは 次に述べられています。

 ★ ここまでは初めの《論理的であることの価値》の内容が論理的であることに広く優越的な価値があるとは認められていません。国会論戦でも野党はより理論的で与党ははぐらかしでの対決が多いし、審判の議長はこのことに知らん振りです。日本国内での論議の多くがあまり理論的でない背景は理論的であることの「価値」が一般的に大きくないからだとお応え申し上げます。
 ☆ おそらく上の(あ)の命題について大方の賛成が得られるものと考えるのですが つまりはそのような《広く普遍的で優越的な価値》がとうぜんのごとく認められていると考えてよいはずですが これが実践されている事例は少なく ひょっとしたらその気配も一般には乏しいということになっているでしょうか 現実は。

 ★ 理論的であることの「価値」が一般的に大きくないからだとお応え申し上げます。
 ☆ この部分は 主題が 論理表現の必要とややずれていましょうか? 生活態度としての思想に そのまま論理表現が互いに求められることと その思想内容が《理論的であること》との微妙な差だと見られます。後者は けっきょく学問による科学的な裏づけの問題であるように思います。そこで:
 
 ★ ~~~~~~~~~~
 論理的な日本語がしばしば語られている領域とは、生活者の乏しい(利害の衝突しない)領域でしょう。学問分野や純粋の宗教の教義論争が挙げられましょう。なお、国語教育の主眼は「感覚の表現」であって「論理性」に関心が乏しいようです。
 政治的であることよりも、明瞭で発展性のある論理に楽しく期待するためには何がしかの「胆力」が必要かも知れません。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。こでっくすさんの《主体の自覚》というところを《胆力をきたえること》ととらえなさったわけですね。一般的に論理表現が行きわたるようになるにはだと思います。
 わたしは その裏側に《ウソをつくことが馴れっこになっている》事態を見たいです。
 《人をあざむくためのウソをつくことができない》という人間能力のとうとさとその見直しを 胆力に添えたい。

お礼日時:2011/02/25 10:41

> 1.高校卒業後すぐにK市のT自動車に入社,営業部門に配属されたAは,


>   O市のT自動車にこれも高卒直後に入社して経理を手つだい,2年前,
>   一家のK市転居にともなってK市のT自動車に転勤してきたBと知り合って,やがて結婚した.

> 2.AとBとは職場結婚である.Aは,高校卒業後すぐにK市のT自動車に入社し,
>   営業部門に配属された.Bは,これも高卒直後に,O市のT自動車に入社して
>   経理を手つだっていた.ところが,Bの一家は2年前にK市に転居したので,
>   BもK市のT自動車に転勤した.そこで二人は知り合い,やがて結婚した.

1.の文は内容を伝えることの分かりにくさに問題がある訳ですが、
2.は分かりやすい。

そこで1.の文などを決して作れない言語体系にするとそれはそれなりに
問題があるのです。

「分かりづらい文でしゃべらないで分かりやすく、しゃべってよ。ようするに、
 AとBがいて結婚したわけねそこはわかったけど、どういうタイミングで
 知り合ったががよくわからないのよ。」

とこのような文が展開される余地がなくなるということになるわけです。
だからゲームなのです。

もっと問題なのは、詩的表現が排除される可能性が出ることです。

「雨にもまけず・・・・・・・」

とただ、ある朴訥な人間の日々の生活の映像が映し出されてしみじみした気分
になって、

「そういうひとに私はなりたい。」

で、人間や自然にたいする作者の愛情に感動させられるのです。
ただ作者の理想像を言い伝える文ではなく、名もなき人間によせる作者の愛情
に心を打たれるのです。それが計算でない率直で素朴な文であるから余計に。
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この回答へのお礼

 ここは 《日本語は 論理表現にふさわしくないわけがない》という主題について 回答を求めています。
 その趣旨を踏まえて――ほかの関連する主題に触れてもよろしいわけですから―― 発言して欲しいところです。
 焦点をそらすことなく 重心を別のところに持っていくことなく。

 しっかりとした回答を寄せるという気持ちがあるなら 別の方向へ逸れて行くような《ケチをつける》ことはしなくなるはずです。

 詩的表現が たとえ害われたとしても いまは論理表現を目指すという主題を考えています。それによっては 情緒を醸し出すというようなほかの表現がそこなわれるということは ほんとうには ないはずです。むしろ互いに照らし合わすようにして どちらも上手になることでしょう。

 不協和音は どちらかと言えばわたしはむしろ歓迎ですが そういう発言ばかりを同じ人から聞いていると ちょっと・・・ということにもなります。

お礼日時:2011/02/24 13:32

No.20です。



>ここは表題について問い求めるところです。審美眼については あなたの継続する質疑応答につきあっているだけです。

了解です。

あなたに対して本質問における拙文回答としては、No.9の大野晋の引用で事足り、ご納得済みのはずと心得ております。

またこのたび、あなたが連続して放言した「印象批評云々」についても、その意が漸く理解できました。
大した意味は無かったのですね。ホッとしております。

<この対立の構図にもとづき 議論を継いでください。

いえ、終わりに致しましょう。

実際、具象絵画のみならず、前衛現代アートの作家の方々の作家生活や創作に対する日頃の苦労につき、私は少なからず見知って聞き及んでおります。

また、拙問「余白」の際には、日本初の作品を海外に紹介する仕事に携わっておりました。

それにしても、批判批評する側というのは何て気楽なのだろう、新たに創り出す作業というのは、そりゃあもう並大抵ではないというのになあ、といったところが、一連のご質問を通じての率直な実感です。

まあ言うなれば、あなたの攻撃対象の側からの幾許かのエールだったと思っていただけたら幸いです。
石っころ程度と、あなたにさんざん揶揄されまくりでしたけれどもね、苦笑。

まだ充分お若いのですから、これを機会に足を運んでみて下さい。
皆様におかれましても、お読み下さってどうもありがとうございました。

お元気で。
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この回答へのお礼

 ★ それにしても、批判批評する側というのは何て気楽なのだろう、新たに創り出す作業というのは、そりゃあもう並大抵ではないというのになあ、といったところが、一連のご質問を通じての率直な実感です。
 ☆ いえ。批判という作業をほんとうにするなら そこから創作が生まれるのだと理解しています。

 まっ これはそれこそ印象批評です。感じです。ほかの場合もあるかも知れません。ですが 批判と創作が互いに別の作業だとも思えません。

 ただし その批判を つねに措定としての現状に対する反措定として提出するのだという捉え方のなかに――つまり弁証法過程のもとに――置いて考えるというのは 見方が浅いとも思います。
 ともかくヒラメキがすでに批判の作業をするときに その反措定を超えたあとの総合の状態を何らかのかたちで直感しているからです。
 もっと言えば すでにヒラメキは精神=身体において作用していて その作用のもとに反措定なり批判なりが表出して来る。と見ます。
 これも 《見たまま感じたまま》の方程式に即したコトです。直感が思考に先行するという方程式のことです。

 直感ないしイメージ あるいはヒラメキないし直観が――たとえ知らず知らずのうちにでも――先行していて そのあとコギトなる論理思考が得られて来る。
 その内容が あたらしいものであれば ふるいものに対して批判するものになっており そのような批判としての創作につながっていくことでしょう。

 その創作の結果としての作品について鑑賞するというときにも 同じ方程式がはたらくはずです。
 すでにその鑑賞者にさらに大きなあたらしいヒラメキが生まれていたなら 創作のときのその作家に起きたヒラメキを超えるイメージないし思惟の内容までをも表出させて来るでしょう。
 そのようにして大きくそれぞれの主体の自己表現――それは 過程であり 試行錯誤をまぬかれないところの動態である――がいとなまれて行くことと理解します。


 コギトないし論理による理解 この作業を自己表現という全体の過程に位置づけするとしたら そういう図式になると考えます。

 お元気で。
 

お礼日時:2011/02/24 05:04

No.12です。


>結論をいちばんに言ってください。

結論ですか? 
削除された「常識のない~」の最初に私は述べていますよ。
《あなたが何ら具体的な個々の美術作品にふれることなく、スサノオ/アマテラスなどといったご自身独特の思想世界観に沿わせるのが「審美眼」質問の狙いではないか》という主旨でした。

その一環として批評や評論と趣味についても今回私はふれています。
アマテラス的権威ともとれる批評評論に対し抗い覆するべく、スサノオの心意気、つまり素人個人の心のおもむくままに《美は見たまま感じたまま》を優位に位置付けたい、そして「非思考の場としてのクレドについて イメージやヒラメキそしてコギト云々」と定義したいというのが仮説の狙いですよね。

>★ゼードルマイヤが想いを馳せる源流や横たわっている時間や空間など私の保有するものとは異質に感じられました。
>☆ならば それに依拠してかあるいはそれを援用して 現代美術についての《中心の喪失》論をいまただちに述べればいいわけです。
>持って回った言い回しでは いらいらして来ます。

え? 
先の拙文No.11において《都合よく理解せず、根拠となる具体的作品をご自身の力で見い出して下さい》と私は申し上げました。
ところが、これに対してあなたは
>☆ もし《無根拠の――見えざる――復活》を言っているなら 世間は放っておかないと思うのです。

でした。なので、意味を尋ねるついでに★=「ゼードルマイヤの著書内容と私に身近な現代美術やアートの世界とではやはり異質で隔たりがあるなあ」と感想を述べたまでです。
ご指摘の「河合隼雄の《中空構造》」は存じません。
幼少より通った学校が風呂敷を多用していたこと、こどものお弁当の小風呂敷、エルメスがスカーフを風呂敷代りに援用する発想など、実に他愛も無い実感に過ぎません。
ですから、あなたのこだわる「《空洞》というのが《観念の場》云々」すらも想像がつきませんでしたよ。

でもあなたにとっては、拙文が「持って回った言い回し」となり、さらには「あなたのいらいらの原因」になったとこの期に及んで言いたいのですか?

なおかつ、あなたは逆に私に向かって☆=「依拠か援用してただちに現代美術についての《中心の喪失》論を述べろ」と述べていますが、
どうしてあなたは自身の仮説の進捗を私に対して丸投げしようとするのですか? 
理解に苦しみます。
 
多少なりともゼードルマイヤの説にインスパイアされた仮説(趣味の提案)を主張するのであれば、実際にその著書を読み「現代美術についての《中心の喪失》論をいまただちに述べる」側というのは【私ではなくあなた】の方ですよね?

この箇所は私の印象批評となるのでお断りしておきますが、あなたの仮説であるにもかかわらず、肝心のあなた自身が受け身に徹してあまりに他人の回答任せだから、回答内容に一喜一憂し過ぎになり、回答者の好き嫌いや誹謗中傷に繋がるのではないでしょうか?

以上はさておき、繰り返しますが《美は見たまま感じたまま》の観賞姿勢やゼードルマイヤの直截的な援用だけでは、あなたの射程する現代美術のみならず、現代アートの領域においては全く太刀打ち出来ないのが現状なのです。
たとえば五感を駆使し《能動的に作品を体感し作家と観客が共に創造生成に関わり》、作品を変化ないし変容させる一手法「ワーク・イン・プログレス」につき、あなたはどのように作品と対峙なさるのでしょう。

これはあなたの「良い絵一枚を描けばそれで済む」、つまりそれで現代の芸術の言説化に一矢報いることができるわけでもないという意味なのです。
しかも私たちに身近な存在と化した近現代の芸術美術ときたら、元々が《輸入》されたものなのに、私たち自身に安易に都合良く取り込んでいたり、わかったつもりで外国の思想潮流に乗っかっていやしませんかと申し上げているのです。

具体的作品を欠かしてなおかつ自分自身で見知らぬ現代美術の風潮批判を展開するというのは、壮大なシャドーボクシングの試みにも映ります。
大風呂敷を広げずに、ご自身の良く知る具体的な作品、あるいは評論一本に絞ったほうが、相手に掠ったという満足感をより得やすいはずです。

なお、今世紀に入って見受けられる潮流として「民芸」の再考、再評価が挙げられることにもふれておきますね。
かつてわが国で興ったこの文化運動で重視されたのは、柳の「直感」でした。
西洋絵画の分野でもないですし、その「直感」自体が大変主観的でとても曖昧な定義ではありながらも、いわゆる作品に対する権威付けやレッテルを排除しおのれの目利きの良し悪しにこだわったという点においては、多少は重なる部分が見い出せるかもしれません。

素人で無教養で育ちの悪いましゅまろの手札も尽きたようです。この辺で。
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この回答へのお礼

 これぢゃ いちゃもんです。

 ここは表題について問い求めるところです。審美眼については あなたの継続する質疑応答につきあっているだけです。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~
 ★ 「新しい感性学を~」
 ☆ 感性ですから 何もしなくても 持ち前のものでしょう。感性学だとか美学だとかそういった思考や論理を いちど全部この身と心から篩い落としましょうという提案になるかと考えます。
 《美は見たまま感じたまま》なのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この仮説が
 ★ 現代アートの領域においては全く太刀打ち出来ない
 ☆ と見るのは その《思考や論理》にしがみついているからだという定理からの判断になります。
 それにわたし〔とひどっちさん〕は 定理を立てるまでゼ―ドルマイアはいっさい知らなかったのです。ええ加減なまとめや受け取り方をしてはいけません。

 ★ シャドーボクシングの試みにも映ります。
 ☆ われわれの定理を知らないからです。

 ★ たとえば五感を駆使し《能動的に作品を体感し作家と観客が共に創造生成に関わり》、作品を変化ないし変容させる一手法「ワーク・イン・プログレス」につき、あなたはどのように作品と対峙なさるのでしょう。
 ☆ そんな美術のあり方は 二の次だと見ると言っています。

 この大前提としての全体観・その見方で《対峙している》のです。
 むろんそのどちらが 人間性にもとづき共同主観の座を勝ち取るかは これからのことです。それでよいということです。このあたらしい見方を得ることができそれを明らかなかたちで述べるところまで行って 質問は目的を達したのです。

 あとは おまけとして さらなる投稿に対しておつきあいをしているだけです。
 だから おまえたちの定理はだめだと言われても その批判の仕方からして批判には成っていないということです。根本的に見方を変えると こちらは言っているのですから そうではなく現代の風潮に多少は見方を合わせろと言われても それは思想が違うと答えるのみです。
 それでも なんとかしろと言うのは ただのいちゃもんです。

 ゼ―ドルマイアに多少とも関心があるのは それは近現代芸術のあり方について 中心の――それは神のですが 人間性のと言いかえれば一般的な議論になるでしょう その中心の――喪失という批判をしているというとき それは われわれの定理にもとづき 現代美術の関係者たちは審美眼が劣化して来ていると見る見方と 重なるかも知れないからです。
 言いかえると ゼ―ドルマイアのほうが先なのですから もし同じであれば われわれのは二番煎じということになるからです。先人の業績については しっかりと知って たしかにすでに言われているとすれば そのように事割らなければならないのですから。

 ですから 要望したことは:
 1. もしわれわれの定理に賛同する場合なら (あ)ゼ―ドルマイアは すでにこう言っている 敬意をはらうべきだとおしえてくださるか。(い)たしかに批判の趣旨はすでに先行する内容がある。が その根拠をどこにもとめるかとなると 中心=神 と言っているが その内容についてはまだあいまいだとおしえてくれるか。
 
 2. (う)ゼ―ドルマイアを援用して わたしはこれこれの理論を立て あらたな議論を現代美術について起こし得ると見た。などなどの提案をするか。

 3. あるいは われわれの定理に反対である場合なら (え)これこれの理由によりそんな定理はだめだとさらに論陣を張るか。ただしそのときのひどっち=ぶらじゅろんぬの定理に対する批判は その定理が批判する現代美術界の《論理による理解》説の中にわれわれの定理を含ませてしまって ああだこうだと言われても それは批判ではなくすでにいちゃもんになっていると指摘します。まったく別の見方にもとづきあたらしい定理を立てているのですから。

 最初に引用として掲げたように 《論理や思考をわが身からそぎ落としましょう》 そこから美の感覚が もともとの直感や感性として 起ち上がりますと。
 この対立の構図にもとづき 議論を継いでください。

お礼日時:2011/02/24 00:43

ブラジュロンヌさんの論理構成力の低さって、ようするにこの程度だな、ということが、


わたしとのやりとりで露呈されていると思いますよ。

といったこと、これがバツ印であると?
否、実証的で論理の積み重ねに基づいた批判です。

ダニなんて罵る言葉、どこで覚えたのですか?

こういうのが感情的な非論理的なバツ印なのです。


> ○ 質問者が回答者に対してそのお礼欄等で 《無用でしょう》と書いてはいけません。
> ☆ 情報を与えることになるからです。バカも休み休み言いたまえ。

《無用でしょう》と書いて(質問者が)情報を与えるとは意味が不明です。
メタ情報ですか? メタ情報は情報についての情報で、情報交換ではないですしねえ。。。
質問者は情報を得られなかったか、情報とみなさなかったということになりましょう。
無用は、用を為さないという意味の言葉ですから。
【遊戯とは】におけるそれは、えらくもったいぶった幾つかの前置きや人を見下した切口上の繰り返しに導かれてやってきた回答が、無用でしょう、ととうとう突き返された脈絡ですよ。交換の情報を与えてはいないでしょう。

> どっちにしても 自業自得。弁解の余地がなくなってしまった。ごしゅうしょうさまです。

自己乖離例というわけですね。

ところでわたしは、ぶら-ひどっち定理というのを、読んだことがないのです。
興味がありませんでしたから。
木村の説明をしてほしいという点に答えるためにしかわたしは参加しておらず、
山の向こうで何の遊びが行われていても、直接は木村と関係なさそうなのはわかりますし、わたしには関心のないことでした。

美術史を勘違いしているという切り口であなたに話しかけてきてはいないわけです。
たとえば現象学という言葉がマネの時代にないにせよ、その視点としくみをマネに見出そうとする人は好きにすればよいのです。
即自という言葉がヘーゲル以前にないにせよ、その現象を古代に見ようとするというのは好き勝手にすればよいことなのです。
こうしたときにわたしは、現象学とは何かを伝えるし、即自とは何かを伝えるのであって、マネが現象学だろうとアルメニア美術が即自だろうと勘違いしているとは言いやしないのです。
(ama.> デュシャンのシュルレアリスムより前の美術で、即自の美術だのオブジェ化だの問題圏そのものが存在しないですよ。ないとわかったら、ないならないで、あなたの考えは考えとして好きにすればよろしいではないですか。わたしはあなたを勘違い者扱いしたことはないのだから。)

★★で一所懸命引用してくれた文のどれも、美術史の勘違い者扱いではないではありませんか。3つまではあなたから先に提示された言説に対する論理的で明快な批判ですし、4つめは自己乖離が主観を客観との齟齬に苛む仕組みを説明しています。

> 世の中にこんなあほうがいたとは。縄文人もびーーーーっくり。
> お引き取り願っても(その後に例証・論証せよと言ったはずだけど) 食いついてくるダニ。
> これ以上 みなさんの前で醜態を見せなくてもよいものを。
>
> さぁ みなさん。どうしましょうか? どうするのがよいと思いますか?

みなさん、ごめん。職業倫理でなく、育ちと教養が邪魔をして、いまここに4段落前と同じことを書き込むのがせつない。それに、メタ情報として言えば、すでにその言葉は無用でしょう。
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この回答へのお礼

 ★★ 無用でしょう。
 ☆ ここには 価値判断が入っています。それを伝えるということは 相手がどう受け取るかの前に 意図として《おしえる》という要素が含まれることになる。質問者は それをしてはいけないという解釈であった。

お礼日時:2011/02/23 23:49

私がおばちゃんじゃないかと思ったのは、



第二次の評論に保身的立場がのさばっているために、それが審美眼の
劣化をまねいたのだ間違いない

という感情的で慎重さを欠く仮説をあまりにも強く主張されていた
のが印象的だった為です。

勿論、そういう裸の王様の側面がまったくないともいえないけど、
それよりも現代美術の問題として、学者が指摘している様な、
歴史の必然において、自閉的になりすぎた面などを掘り下げて、
では、現代にあった美術とは、という風に展開してってくれると
いいなあと個人的に思っていたものですから。

それが、あまりにも独自の狭い宗教感にとらわれて、
こういう作品が好きで、他のは嫌い、えばりんぼうの評論家も嫌い
で終わっちゃったから、ああなんだそうかって思ったんだけど。

国語の問題は分かりましたが、詩的表現のプライオリティーが重要
な場合は、「そういう人に私はなりたい」が最後にくると、
ジーンと心にしみる表現になります。
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この回答へのお礼

 つづいてですが。

 ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理を見てください。
 《見たまま感じたまま》で行きましょうと言っています。これだけです。

 評論は それじたいとして出してもよいが その評論の内容で美を理解すると言い その美学のみが現代美術にはあてはまるのだという主張 これに真っ向から異を唱えています。それだけです。

 ★ 第二次の評論に保身的立場がのさばっているために、それが審美眼の劣化をまねいたのだ間違いない
 ☆ 《保身的立ち場》は それがあろうがなかろうが 何も言っていません。第二次の評論が第一次の美の鑑賞に取って代わったという見方をすれば それが間違いだと言っています。

 ★ という感情的で慎重さを欠く仮説をあまりにも強く主張されていたのが印象的だった為です。
 ☆ という無理解が横行すれば こちらはどうしようもありません。

 ★ それが、あまりにも独自の狭い宗教感にとらわれて、
 ☆ 《宗教》ないし《宗教感》を述べた覚えはいっさいありません。
 非思考の場としてのクレドについて イメージやヒラメキそしてコギト あるいは言いかえるなら ロゴスやインスピレーション これらの――人間の《精神=身体》における――位置づけをしたまでです。
 それが《狭い》と言うのであればその旨を論証して批判し代わりの考えを出して初めて 回答となります。

 
 ★ こういう作品が好きで、他のは嫌い、
 ☆ それは 《第一次の美の鑑賞》に耐えうる作品の例として出したまでです。ええ加減なことをいいなさんな。

 ★ えばりんぼうの評論家も嫌いで終わっちゃったから、ああなんだそうかって思ったんだけど。
 ☆ とだけしか理解できないのなら もう放っておきます。好きなようにしなさい。

 理解の足りないところを何とかおぎなって返答をしてきたが もう放っておく。

お礼日時:2011/02/23 15:13

(β-1)性格の問題ということでしょうか、


「そんなことどうだっていいじゃん」みたいな超越した理論を飛躍的に
展開できる、気のいい近所のおばちゃん的な

(β-2)気のいいおばちゃんが幅を利かせている場合ということでしょうか。

(β-3)詩的表現がそれにあたるかもしれません。
    文法をわざと無視したつたない表現や、リズム感や韻を踏んだりする
    歌の側面を重視した文学的表現

いづれにしてもコミュニケーションをより豊かにするものだったら問題ないかと、
言語の目的はやはり、まずはコミュニケーションですから。
それによって論理が阻害されることは勿論かんがえられますが、
その会話内容のプライオリティーで考えればいいことですから。

厳格な論理に近づけたいのならば、客観的なデータを根拠に話を進めること
がいいんじゃないかと思いますが。

ブロジェロンヌさんの場合は何だか、(β-1)、(β-2)の要素がある気が
します。ひょっとしておじさんじゃなくて、自閉気味のおばちゃんですか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 日本語をめぐって その言語そのものによるというよりも その使用される社会環境あるいは主体つまりわれわれ一人ひとりに問題があるというのが(β)の1・2・3です。(3)は総合です。

 これについて すでに良回答を得ています。確認しておきましょう。
 ▼(回答No.5=こでっくす_れぎうすさん) ~~~~~~
 仰る通りだと思います。
 日本語における論理性の欠如は日本語を用いる主体に内包される問題である、ということですよね。
 〔=(β‐1)〕
 日本語という言語の限界ではなく、日本社会の習慣性が語り得ることにもあえて口を閉ざさせるのだとすれば、確かにそれは社会力学の問題だろうと思います。
 〔=(β‐2)〕

 更に言えば、日本語は難易度も高い言語なのだと思います。日本人は曖昧を是とする価値観を持ちますから、曖昧における微妙な差異に対応する類義語、類似表現が非常に多いです。どれを用いるべきかの選択を誤ると、それこそ論理性を著しく損なうことにもなってくる。
 〔:これは 言語じたいの特徴として 論理表現をむつかしくしている要素を挙げたものですが 決定的な要因だとは言っていません〕

 その難易度ゆえに日本語を論理的表現として自在に使いこなせる主体は非常に少ないのかもしれません。使いこなせない主体はそれを言語のせいにする、とも言えそうですね(笑)
 常に自戒し、言語のせいにしない主体でありたいものです。
 〔:すなわち 《主体》の問題だという意味は そうするつもりがない。あっても 怠る。つまりはどうでもよいと見なしてしまう。《言語のせいにする》かあるいは《相手がうまく理解してくれないと言って 相手の所為にする》かだと考えられます〕。

 ◆(回答No.4=まささん) ~~~~~~~~~
 
 ○ 2つ以上の意味に解釈可能な文

   ・青い目のきれいな女の子

 目が青いのか、女の子が青い(青い服)なのか、 目がきれいなのか、女の子自体がきれいなのか。


 ○ 非論理の典型文に、逆茂木(さかもぎ)文があります。
  以下のどちらの文が読みやすいか?

  1.高校卒業後すぐにK市のT自動車に入社,営業部門に配属されたAは,O市のT自動車にこれも高卒直後に入社して経理を手つだい,2年前,一家のK市転居にともなってK市のT自動車に転勤してきたBと知り合って,やがて結婚した.

  2.AとBとは職場結婚である.Aは,高校卒業後すぐにK市のT自動車に入社し,営業部門に配属された.Bは,これも高卒直後に,O市のT自動車に入社して経理を手つだっていた.ところが,Bの一家は2年前にK市に転居したので,BもK市のT自動車に転勤した.そこで二人は知り合い,やがて結婚した.

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 気のいいおばちゃんもおっちゃんも問題ではありません。あるいはまた コミュニケーションを豊かにするかどうか どこまでゆたかにするか という見方とは別の問題です。
 互いに思想(表現内容)を伝え合う心という意味での気持ちのもんだいです。内容がまづしくても きちんと伝えあいましょう。

お礼日時:2011/02/23 14:10

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