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千日回峰行を達成した人の本を読んだのですが
どうもピンと来ませんでした。
ただ身体が丈夫に生まれて、行を行っただけなような感じがしました。
これでも偉いのでしょうか?

A 回答 (39件中21~30件)

#5です。



>もっと自然体な感じでした。

それは、きっとやり遂げたからそう書けたのでしょうね。それを淡々と語る人と、熱っぽく語る人は、夫々の個性ですので、他の人がとやかく言う問題では無さそうです。私は本を読んでいませんので、何とも言えませんが、千日回峰行をする決意をしたときとそれを実行している最中でも自然体としていられたのだったら、その方は凄い方だと思います。

また、他の方が既に述べておられますが、貴方の心の中に彼の決意や精神力に共鳴できる何かが出来ていなかったので、貴方の心の琴線が反応しなかった、と言うことですね。

宗教云々の問題としてではなく、またその行為をした人が何と考えていたかには無関係に、生きている証の一つの方法として自分に挑戦し、それをやり遂げた方として、私は、その方の幸運を賞賛致します。
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この回答へのお礼

とりあえず千日回峰行の本を読むことを
おすすめします。するすると読めますので。

お礼日時:2011/02/28 21:32

#18です。


質問内容を変更します。

誰が、偉い と評価しているのですか?
そして、それをなぜ信じるべきかもしれない、と思うのですか?
  
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この回答へのお礼

「千日回峰行」などの語句で検索してみてください。
また、わたしはこれを信じるべきなどとは一言も言ってません。

お礼日時:2011/02/28 21:18

偉い、となぜ思うのですか?

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>>ノムラ監督や清原みたいな人を人間的に偉いと思いますか?



野村監督は偉いとは思いませんね。
野球で修行をしたのでなく、貧困だった世界から抜け出すための手段として野球の世界に飛び込んだものであり、俗世間の見返りを求めない修行とは正反対の生き方ですから。

清原だって高い収入と世間から注目を浴びることが目的であり、修行僧とは違いますものね。
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この回答へのお礼

ということで、身体が丈夫で精神力があり記録を残すような野球選手でも、
尊敬できないようなのがいるということですよね。

お礼日時:2011/02/28 21:19

>スポーツ的な偉さがあるのはわかります。


宗教的な偉さはあるかがよくわからないのです。


数多いる宗教家のなかで、スポーツ的なエリートと考えれば良いではないですか。

もとより宗教的な偉大さは、肉体や精神が強いということとは別でしょう。
イエス・キリストも、お釈迦様(ゴーダマシッダールタ)も、肉体的にそれほどでもなかったでしょう。
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この回答へのお礼

> もとより宗教的な偉大さは、肉体や精神が強いということとは別でしょう。
これはその通りかもしれません。

お礼日時:2011/02/28 21:21

>これでも偉いのでしょうか?



特別に偉いと言う事でもないでしょう。

しかし、大変な精進をしたのも事実ですから、マラソンで2時間10分を切った人とか、大相撲で金星を取った人と同じくらいには評価し、称賛して差し上げても良いと思います。
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この回答へのお礼

スポーツ的な偉さがあるのはわかります。
宗教的な偉さはあるかがよくわからないのです。

お礼日時:2011/02/27 15:25

別の論法で考えてみると



私はNo.11のkrya1998さんの回答の前半を読んで
自分の経験と響きあうものがあると感じます。

ただし、後半部分はピンときません。

ピンとくるかどうかだけで偉いか決まるとするならば
krya1998さんは前半では偉かったが後半で偉く無くなった
ということになります。

やはり、ピンとくるかどうかだけで偉さは判断できないということでしょう。
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私はNo.11のkrya1998さんの回答を読んで


自分の経験と響きあうものがあると感じます。

一方、質問者さんは千日回峰行を達成した人の本を読んで
響きあうものを感じなかった。

また、私はブッダの経験の一部に響きあうものを感じません。

つまり、ただ自分の中に響きあうものがあったかどうかだけです。
偉いかどうかは別の話です。

「千日回峰行」や「ブッダ」という表現を隠すと・・・
体験記をよんだがピンとこなかったというよくある事実だけが残ります。
そこから偉いかどうかを導くのは論理の飛躍です。
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この回答へのお礼

> 体験記をよんだがピンとこなかったというよくある事実だけが残ります。
> そこから偉いかどうかを導くのは論理の飛躍です。
これは確かにそうかもしれませんね。

私の中では千日回峰行の書の読後感は
相田みつをの書を見た後に残った、
もやもや感に似ています。

お礼日時:2011/02/27 15:24

 No.1,8,9で言い尽くされています。


 私も、40年ほどヒンドゥの行を朝晩やってますが、朝二時半、暑さ寒さ、雨風。気分の変化。
 96歳で老母もその間におくり、子ども達ももう40になる。それぞれ医療関係等の職にいます。
 いろんなこと、気分、体の調子もあります。
 思考や観念の内容も変化する。
 しかしこれが自分勝手にならないようにする、托する、ためには必要です。
 一回休むと取り戻すのに三日掛かる。しかも一回が数回、数年となる事を経験しました。30年くらい前ですが。
 そうするとそんな毎日の行がなくなるだけではなく、全てが変移してしまう。
 そしてもう一度一番の最初からやる。
 続ける事は大変です。
 そして峰行は山また山。断食はあり、読経はあり。体力や意志だけでなく、信仰と大なる存在を見据えています。
 そういう思想性は行間を読み取れてこそ、読んでいけます。
 大いなるものはもう、一切が存在し、一切が大いなるもので奉仕します。
 そういうことであるか、できたのです。
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この回答へのお礼

インドだとヒンズー教の行者が、ずっと片足立ちや逆立ちなどの
苦行を行ってたりしますが、これらが本当に意味があるのか?
彼らは本当に宗教的に偉いのか?
苦行を見慣れぬ日本人にはいささか奇異に見えます。

お礼日時:2011/02/28 21:25

千日回峰行、身体が丈夫なら偉いのか?



○ 素朴な疑問ですが本質を突いていますね。結論を先に回答しますと、仏教的「悟りを得る。」という意味の偉さは全くありません。でも、長距離のマラソン選手が偉いといわれると同じく千日回峰行も偉いのですね。つまり強靭な肉体と精神を鍛え、実践するという意味での偉さはあるということですね。
つまり、強靭な肉体と精神を得るために長距離マラソンや千日回峰行をしているという意味ですね。
仏教的悟りは「苦楽の中道」でしか得られないと経験者としての釈尊が明言しておりますので、肉体的な過酷な試練のなかでは仏教的悟りは得られないものですからね。釈尊も悟りに至る過程で過酷な肉体的修行をしてやせ細り死にそうになりましたからね。ナーランジャ河のほとりで村娘のスジャータからミルク粥を布施され、それを呑んでそのことに気がついたと仏典には書かれていますね。
悟れない方法をいくら実践しても悟りにいたることはできませんからね。不思議なことには悟りを得ない千日回峰行者が仏教の高僧といわれることでしょうね。これは昔からの勘違いの積み重ねですから、哀れではありますがそのようなものと受け止めるしかないのでしょうね。
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この回答へのお礼

お釈迦さまの苦行とスジャータのおかゆ、そのあとに静かに瞑想して悟りを得たというのは
千日回峰行の本を読んでいて気にかかりました。

お礼日時:2011/02/28 21:37

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