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親の愛情不足で適応能力が育たないというのは一種の洗脳ですよね。
心理学を信奉する連中が「親の愛情」を過大評価する現象に疑問を感じています。

親の愛情の定義をまず考えるべきでしょう。
その定義は哲学的・文学的・教育的なものであるべきで、心理学が簡単に規定できるようなものではないと思うのです。ここで議論を尽くさずに、「親の愛情不足」の状態が云々と導き出せるのは自分自身納得できません。青少年が、カウンセラーや臨床心理士に愚弄されているように思えてならないのです。

漠然とそう考えるようになったのは、宗教・哲学のアプローチが他の学問と全く異なることを知ってからです。社会的通念や文化的背景も一種の思い込みで、我々は刷り込み概念をまず疑ってみることが必要だと思うのです。プラトンは「国家」において、自分の子供ではなく他人の子供を育てるというシステムを理想の国家として提唱していました。仏教は子育ては執着であり我欲であると説きます。
親の愛情どころか、すべて欲となってしますのですから驚きです。

哲学者が心理主義を批判している現象も、この発想を後押ししました。(河野哲也等)
心というもの自体、学問分野によって認識の仕方が随分異なります。

【質問】

臨床心理学ってネガティブな刷り込みだと思うのですが、一種の洗脳ではないでしょうか。

だた青少年が自分に都合の良いように利用して、親の愛情不足で親子喧嘩に陥って自信喪失し、最終的には心理学者から搾取されてしまうと感じるのですが、どう思われますか?

A 回答 (8件)

言ってることは1理ありますが、だからといって、



>親の愛情不足で親子喧嘩に陥って自信喪失し、最終的には心理学者から搾取されてしまうと感じるのです
は、ちょっと極論だと思います。

心理学のその理論には確かに抜けてる点も多いですが、有益ですし、ある面正しいです。
ただとても不完全だと思うし、その意味では言われるとおりですが。
まして理論を使うのが生身の人間ならなおさらです。

でもそれ自体は間違っていません。ただ、一面的であり、子育ては執着である、というのもまた正しい訳ですから。
事実は多面的です。
事実、というより、脳が作り出す概念は、という意味です。
だから、哲学者の方でも、多分ですが、批判はできても否定はできないはずです。
親の愛情理論にもそれなりの筋があり、根っこから否定できるものではないですし。もしそうだったら、すでに心理学は消えてますが、そういう事は起こってませんし。


臨床心理学が、愛情理論がひとつの切り口であり、概念であるから、だからそれが刷り込みでもある、というのなら理解できます。
でもネガティブかポジティブかは、受け取る人の性格次第です。
ネガティブに受け取るというのなら、子育ては執着だというのも洗脳とも言えますし、ネガティブにも取れますし、プラトンの話も人によっては同じことを言うはずです。



心理学者から搾取、というのもわかりますが、
質問で言われるような極限の考え方には、どこを視点にして論理を構築するからで、話は全く色を変えます。
その意味では、質問者の方は、単に心理学でなく、仏教哲学などのそりの合うものを選べばいいのであって、心理学を否定する必要はないのでは?と思います。
搾取される場合もあるかもしれませんが、命が助かる場合もあるんですから。


まとめると、
理論が不完全だ、という批判なら理解できますが、真っ向否定は間違ってる、と思います。
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この回答へのお礼

>理論が不完全だ、という批判なら理解できますが、真っ向否定は間違ってる、と思います。

ご尤もなご回答ありがとうございました。
心理学者は親の愛情不足を熱く強調するので、私も熱くなって否定していたかもしれません(-_-;)

>どこを視点にして論理を構築するからで、話は全く色を変えます。
学問を冷静に分析する視点を鍛えていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。

お礼日時:2011/05/22 19:00

#4の続きで再度の御邪魔を致します。



真の【慈愛】は『無心』で提供されるものです。

つまり、『無心』なのですから、
【喜怒哀楽】の中の「楽」さえもが失念されていなければならないのです。

難しいですね。代身受苦によっても叶えられえましょうか?

因みに、親子関係の問題と心理学との関係性についての解説は、既に他の皆様が詳しく説明して下さっていますので、私は「愛情」についての見解を申し上げました。
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この回答へのお礼

>真の【慈愛】は『無心』で提供されるものです。
つまり、『無心』なのですから、
【喜怒哀楽】の中の「楽」さえもが失念されていなければならないのです

仏教の見地からのご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/23 19:54

両親がいない場合も世界では多く見受けられます。

心理学自体で人間の全体像は掴み難い例かもしれません。精神分析でも人間の全体像は掴み難いと思います。

今の精神医学も精神疾患の原因を特定で来ていない事を認めています。

従って、心理学にはその守るべき領域があって、その領域からはみ出した場合でも、その領域の限界を感じながら、答えを探していると感じます。その答えは『明日にもひっくり返る可能性』を秘めていると感じます。

ですので、親の愛情不足かどうかではなくて、その人自身が自分を磨く以外に、その人の人生を前に進めてゆくことは出来ないと感じます

。医師の判断は医師が仕事として下したかも知れませんが、『今の精神医学も精神疾患の原因を特定で来ていない事を認めています。』と言う事なので今は『絶対に正しい』と言うことを確信できる医師はいないと思います。
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この回答へのお礼

>今の精神医学も精神疾患の原因を特定で来ていない事を認めています。

心理学信奉主義が、今日の日本で青少年を混乱させていると考えています。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/22 19:02

私は親の愛は大事だと思います。

親から愛されていない人は、他人の愛し方を知りません。また、小さい頃に愛されなかった子供は、心の安定を得られません。

ただ、とぴ主様のおっしゃる通り、心理学が都合よく利用されることもあると思います。

あくまで私の意見です^^
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この回答へのお礼

momma373様、ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/05/21 23:10

「親からの愛情もが【物欲】に属す」、と見做されるのは、無意識の裡に身内全体への良い影響が期待されているからなのではないでしょうか?


つまり、「情けは他人の為ならず」と申します通りなのだろう、と思われます。

そして、たとえ自分の親と違う人達が育ててくれたとしましても、
他の方からの御話にも出ています通りに、
愛情を受けられる可能性は御座います。

従いまして、親からの愛情は非常に重要で、
特に経済的な不運とか遺伝的な不運とかの責任を、
本人に押し付けてはいけないでしょう。
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この回答へのお礼

>「親からの愛情もが【物欲】に属す」、と見做されるのは、無意識の裡に身内全体への良い影響が期待されているからなのではないでしょうか?

なるほど.....考えた事ありませんでした。ご指摘ありがとうございます。
良い影響であり、煩悩でもある、考えれば考える程、真理はないと感じます。

経済的な不運・遺伝的な不運は、ある意味自分に(天から)与えられた命題であり、「他人の責任」と考えたから大きな不幸を生んできたと最近確信しています。最初から自分で引き受けてきたら、もっと違った運命が開けていたでしょう。
宗教的には自分の使命と自覚していれば、大きな運も呼び込む(与えられる)ことができたかもしれない....

親に過剰な期待をよせる現在の状況が、親子を混乱させ、少子化を生みだしていると思います。
神でもない親に愛情を期待する....所詮無理というものではないでしょうか?

お礼日時:2011/05/21 12:47

マズロの発達の段階



http://blog.goo.ne.jp/mk1_1978/e/8deef2f4d71632b …



エリクソンの発達課題

http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nobu-nisi/soudan/kyou …


まず親という一番自分に身近な人を信頼するということを獲得すると、その後社会に出て他人に対しても信頼ができるようになる。
それに失敗すると、親に対して不信するし、他人に対しても信頼することができなくなる。

そんな感じで、自分以外とのかかわりを通して、共同体の一員として溶け込めるよう発達していくのですが、獲得に失敗をすると、不信 自分に対して低い評価をする  など 社会の成員になれず、孤立していき 絶望を抱くにまで至るまでになる って考えがあるんです。


子供の頃 他人に愛されていると思うと、他人を信頼できるようになり、親からほめられると自信もつき自分を愛せますよね。


あくまで説ですが、その説明を聞くと 納得してしまい、社会不適合に陥っている人をみると、はじめの過程で失敗したのが尾を引いているように思える。

親との信頼関係ができていれば、親に怒られても親を不信するようにはならない。
「なんだよ」とスネたとしても、自分が悪いから親は怒ったとわかり、親の判断は間違えていないはず と親を信頼しているから思い、怒られたからといって親を嫌いになったりしないわけです。

怒ったあと しばらくして 愛情を注げば、何故怒られたのかわからなくても、大丈夫だ いてもいいんだ って安心するわけです。
いつまでも クドクド批判しつづけると、痛いので、親と距離をとらざるをえなくなる。
それが何度も起こると せっかく他人を信頼する 頼る ということができたのに、できなくなる。


ただし、親が獲得していなければ、子供に接するときもできませんから、子供に愛情をかけるってことができないわけです。

結婚して家庭を築いても、夫婦お互いが利用する・搾取するということをしたりするしかなく、その両親の間に生まれた子は、その両親の環境で生きるので、伝えてもらえず、社会不適合になるリスクが高くなる。

そうなる系統の人は、子孫を残しづらくなる。
他人を信頼しないので、他人と一緒に家庭を作るってことに興味が無く子供を育てる巣を作ろうとしないから。
さらに集団に所属するというこによるメリットも獲得していないので、集団に溶け込むこと興味を示さない。
孤立が進み、生きづらくなり、社会に絶望し、生きることに絶望をする。

高齢意なっても、自分が今までやてきたことに満足できず、くだらない人生だったと自分の人生を否定し苦しむ。

これもひとえに人生のスタートの段階で愛による信頼を獲得できなかったから、次も失敗し、と何度が高くなるものも前のものを獲得していれば容易だったのに、獲得できていないので困難さがアップし、、、

とまあ そんな内容を読んだことがあります。
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この回答へのお礼

エリクソンの発達段階のリンク部分に

>彼自身、「このような図表は、これを一応用いて『そして』棄て去ることも自由にできるような人々がまじめな注意を向ける場合にだけおすすめしたいと思う」と書いている。エリクソンの理論を正しく理解しうまく利用するには、柔軟でとらわれない考え方が必要である。

と書いてありました。柔軟でとらわれない考え方って、半分信じ半分疑うに近いのでしょうかね。
こういう箇所を最初に強調するべきだと思います。
理論にも、逃げ場所がつくってあるってことでしょうか・・・・・

詳しいご回答ありがとうございました。感謝いたします。

お礼日時:2011/05/21 12:35

こんにちは。



一見哲学的なご質問かとも思ったのですが、どうも人生相談のように思えます。
決して貴方の考えを否定する意図はありません。

が。

やっぱり「親なんか関係ねえ!俺は俺なんだよ!」と聞こえてしまうんです。

母性や帰属すべき集合への否定感情は、自分は独立した人格を持つ唯一無二の
存在であり、自分を無価値化してしまいかねない巨大なもの、例えば、そう
象のようなイメージに対する反逆心理に見えるのです。

つまり、「俺をなめんじゃねえ!」と要約できてしまいそうな。

それらは全て、自我に閉じ込められているイノセンスの標榜です。

洗脳という言葉を選んだ段階で既に、自分と言う限定領域から一歩も踏み出せずに
閉じ込められてしまった感じです。

多分、あなたに必要なのは、確かめることだと思うのです。

知らないものを知ったふりをして、それは全く価値の無いものだ、と断言したく
なるのは、未体験による無知以外の何ものでもありません。

それが親の愛、であれ、それを認めない子供には理解さえ叶わないものです。

もし貴方が、例えばとんでもない虐待親にいつ死んでも不思議は無い幼少期を
過ごされたのだとすれば、こういう思考は出てこないはずなのです。

もっと虚偽と代償行為、思考以前の混沌・・・壊れてどうしようもない破片を
集めて見よう見まねで再構成しようとして、モデルとなるものを知らないが
ゆえに、デッサンが奇妙に狂った不安定な継ぎはぎ状の、思考というか心と
いうか、そういう独特の肌触りを示す、それを何度か見たことがあります。

あなたは、ちゃんとしています。 筋道がきちんとあり、文章を推敲した
形跡が自然な形で感じられます。

そのことが逆に、言われたい事の矮小化を感じさせる原因に感じるのです。

ストレートに言えばやや失礼な言い回しになるのですが、単なる健常な方の
青春の悩みのように思えてしまうのです。

純粋に思考を広げ、深めるということは、もっともっと自由なものだと
私は寝転びながら思うのです。
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この回答へのお礼

cadiaworks様、ご回答ありがとうございます。

洗脳という言葉は問題があったかもしれません。よく宗教の教義を洗脳だという意見があり、
私は時たま洗脳と感じる時もあるのですが、洗脳というより教義に対する個人の解釈だと考えて探求中です。
よって、宗教を洗脳だとは思っていません。
宗教も様々な解釈・教派がありますし。

しかし「親の愛情不足」に関しては、反対意見を一つしかしりません。愛情の様々な測定方法を複数提示している例や、愛情そのものに疑問を呈している例を知らないのです。

  例)親の愛情不足で問題をおこす ⇒ 親の育て方と子供の性格は無関係である・・・・「子育ての大誤解」の中でシュディス・リッチ・ハリスはそう書いています。
哲学や宗教は一つの事象に対して、結構いろいろな解釈があると思います。
その点、特に臨床心理学は決め付け=洗脳的な意図を感じます。                          

>やっぱり「親なんか関係ねえ!俺は俺なんだよ!」と聞こえてしまうんです。
私はそう思っています。すべて自分の責任だ、親なんてまったく別物だと思うんですが。

まあ、心理学分野で反対論を更に貪欲に探せばよいのかもしれません。
虐待を受けたという方は、なぜ私のように探さずに、簡単に信じてしまうのでしょうか。
やはり、他人に責任転嫁することは自分に都合がいいからでしょうか?

お礼日時:2011/05/20 23:35

 んー、心理学は専攻していませんでしたが


概ね仰る通りだと思います(酔汗)

その論を展開した先生が一体どれだけのサンプルからそう
断じたのかは知りませんが・・・例え欠損家庭に生を受けたと
しても、地域のまるで血縁とは無関係な大人達に愛情をもらって
特にグレるでも警察沙汰になるでもなく人並みに育つ方も居ますし。

単に、そういった症例を抱えて相談に来る方々に限って
たまたま一定の傾向が見られたという事なのだと思います。
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この回答へのお礼

>例え欠損家庭に生を受けたと
しても、地域のまるで血縁とは無関係な大人達に愛情をもらって
特にグレるでも警察沙汰になるでもなく人並みに育つ方も居ますし

ご回答ありがとうございます。
最終的には親子喧嘩と自己否定に繋がっていると思えてなりません。
子ども ⇒ 親の責任 その親 ⇒ 祖父母の責任と延々とやっているようで
とても人類のためになっているとは考えられず大変疑問視しています。

お礼日時:2011/05/20 20:47

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