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説明ベタなものでなかなか上手い説明ができません。分かりやすい説明をお願いします

A 回答 (6件)

安政の大獄



江戸幕府のお偉いさん方々が他の人の意見も聞かないで勝手に政治や外交を行ったもんだから、当然それに反発する者が出た。その反発した人間達を、今で言う総理大臣の次に偉い「いいなおすけ」という人物が、自分一人の意思で次々に死刑だとか、無理矢理、牢屋に入れたりとかしてしまった。それが「安政の大獄」。結局ひどい目に合わされたのは100人以上にもなった。


こんなん如何でしょう。
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江戸時代末期。



江戸時代は基本的に海外との国交を絶っていた時代(鎖国)ですが、
ペリーの来航など、西洋列強(アメリカやロシアなど)の開国要求が激しく、
開国か攘夷かが激しく国内で議論がされていました。

そんな中、大老(幕府のNO2みたいなもの)である井伊直弼が攘夷派の人間を
その身分にかかわらず、投獄、処刑したのが、
安政の大獄です。

開国・・・諸外国と貿易し、西洋の文物思想を取り入れる。
攘夷・・・諸外国を排斥し、鎖国を守る。そのためには戦争も辞さず。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>分かりやすい説明をお願いします

安政5年(1858)~安政6年(1859)に行った幕府の弾圧。
大老の井伊直弼と老中の間部詮勝は、朝廷の勅許(ちょっきょ=許可)なくアメリカと日米通称条約に調印をしてしまいました。
またこの頃、13代将軍家定が病弱であり、その補佐をするためと、実子がなく早々に後継者を決める必要がありました。
その候補として上がっていたのが一橋慶喜(よしのぶ)と紀伊徳川慶福(よしとみ)でした。
水戸徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永らは水戸徳川斉昭の七男で一橋家の跡を継いだ一橋慶喜を推挙していましたが、井伊は独断で紀伊徳川慶福を次期将軍とすることを決定した。

それに怒った水戸徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永ら雄藩大名らが一斉に登城して井伊直弼を吊るし上げました。これを「一斉不時登城」(いっせいふじとじょう)と呼び、用事もないのにただ単に井伊直弼を吊るし上げるだけの登城だったのです。

井伊は初めは黙っていましたが、ついに井伊の怒りが爆発し、「一斉不時登城」の罰として、一橋慶喜には隠居と謹慎、徳川斉昭には水戸に永蟄居、徳川慶篤(水戸藩主)には隠居と謹慎などの処罰を申し渡しました。

これらの恨みから、井伊直弼は安政7年(1860)3月3日水戸の浪士などから襲撃を受け、桜田門外で暗殺されてしまいました。

簡単に言うと・・・こんなところでしょうか。
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この当時の登場人物の説明



天皇(てんのう)
日本では「地上に降りてきた神様の子孫」といわれている
日本で本来は一番身分の高い人 京都に住んでいる
ただ、この時代は政治を全く行う力がなく、名ばかりの存在

将軍(しょうぐん)
日本の政治、軍事などの最高の権限を受け持つ 実際にこの時代
一番偉かった人 江戸(昔の東京のこと)のお城に住んでいる
その地位には将軍の子供や子孫にしか継げない

領主(大名と日本ではいう)
将軍の家来で各々自分の領地を持ち、その土地を治めている人

領主のリーダー
将軍が病気だったりまだ子供だったりした場合に代わりにこの人が
日本の政治をとる 領主同士の話し合いで選ばれる人

井伊直弼
安政の大獄を起こした当時の日本の政治のリーダー

これら前置きをした上で 話を進めさせていただきます

まず、今から150年ほど前まで、日本は、200年以上外国との付き
合いをずっと断り続けてきました
今までは、日本の国に外国の船が近づいたら、大砲で追っ払って
いたのです
ところが、150年前のその日だけは違っていました 日本の力では
とても追い払えない 強そうなアメリカの軍船が 日本を脅して外国と
付き合うよう迫ってきたので とりあえず港だけ開ける約束をして帰って
もらったのです
ところが、二年後 今度は別のアメリカ人がやってきて日本の総領事に
なる、と 下田に居座りました
さらに そのアメリカ人は 今度は 日本が自分で関税をかけられなく
なるような貿易、外国人の居留、外国人を外国人の手で裁かせること
などを求める 日本にとって不利になるような 不平等条約を結ぶよう
迫ってきたのです
当時、将軍様は病気がちでしたので、領主がみんなで話し合いました
もちろん日本としては断りたかったのですが、もしアメリカと戦争したら
負ける事は明らかだったので 多くの領主たちは仕方がないだろう、
と考えました
しかし一部の領主の中には あくまで条約に反対する人もおりました
ので 当時の領主のリーダーは その人たちに納得してもらうために 
は 天皇からお許しをもらって 条約を結んだ事にすれば まるくおさ
まるのではないか と考え、天皇にお許しをもらいに行ったのです
しかし、ここで誤算が生じてしまいました 当時の天皇は 大の外国
嫌いだったのです いくら領主のリーダーが説得しても 条約を結ぶ
お許しはもらえませんでした それで結局その人はリーダーを辞めさせ
られ、代わりに別の人がリーダーになる事になりました
それが彦根という所の領主をしていた井伊直弼という人だったのです

さて、当時領主たちは大まかに2つの考えをする人たちに分かれて
おりました
外国の事情に詳しい領主たちは、このまま戦っても勝ち目はないので
これからは外国と付き合っていきながら 日本の武力を強くしていきた
いと思いました
リーダーの井伊直弼はそういう考えで他の領主たちを引っ張っていこう
としました
しかし外国の事情に詳しくない領主たちはそうは考えませんでした。
今の日本が 外国に対して弱腰なのは、今の政治のあり方が悪い
からだ もっと有能な人に将軍になってもらい、政治を改革して、外国
嫌いの天皇と一緒に外国と戦うべきだ と考えたのです
それで天皇の住んでいる京都にたくさんの家来を送り込み、天皇の
お傍についている人たちに 自分たちと同じ考えをするよう働きかけ
ようとしました 
そうして天皇のまわりの人はほとんど「外国と今すぐ戦おう」と考える人
たちで多くを占めるようになりました
そんな悪いときに将軍様が重い病気にかかりました それぞれの領主
たちのグループは 次の将軍候補に それぞれ別の人を押し立てました
この大変なときに政治が二派にわかれてしまったのです

そんな時、海の向こうで事件が起こりました 中国を戦争で破った
ばかりの イギリスとフランスが そのまま日本を占領しに攻めてくる 
といううわさが アメリカ人の耳に入ったのです 条約の交渉がめちゃ
めちゃになる事を恐れた アメリカの総領事は、大急ぎで条約を日本に
結ばせるために 神奈川沖に軍艦で日本を脅しに来ました
当時のリーダー井伊直弼はそれに逆らう事が出来ず 天皇のお許しを
待たずに 独断で仮の条約を結んでしまったのです 当然反対する
グループの領主たちは 井伊のいる城に乗り込み 井伊に猛抗議
しました 
その場は何とか納めたのですが これ以上抗議されても困りますから 
城に乗り込んできた領主たちにはそれぞれ罰を与えもう城に来れない
ようにして 次の将軍には井伊たちのグループの推す将軍を またもや
独断で決めたのです
 
また、まだお許しを得ていない天皇には 手紙を飛脚に持たせて
「条約を結んだよ」 とだけ知らせただけでしたので 当然天皇も
かんかんになり、しまいには天皇を辞めるとまで言い出しました 
それで天皇のお傍にいた人たちは 井伊本人に説明をするよう
京都に来るように求めたのですが ちょうどその時 将軍が遂に
亡くなって 井伊は城を離れる事が出来なくなったので 自分は
説明に行かずに 代わりに 別の人を行かせることに決めたのです 
これには天皇のお傍にいた人たちもかんかんになって、こともあろうに
京都にいた 井伊に反対する領主の家来の人たちと手を結んで
かつて井伊に猛抗議した領主へ 条約を結んだ政治のやり方を 
他の領主たちと協力して改めさせるよう 秘密の天皇の文書として
送ってしまったのです
ところが文書を送られた当の領主は 謹慎処分で屋敷から出られなく
なっていたので その領主の家来の人が井伊と一緒に政治をしている
別の領主にそれを見せました 
あわてた井伊はその文書を秘密にして 天皇の所に説得に人を向かわ
せる事にしたのですが すでに天皇の住んでいる京都は 井伊のやり
方に反対する領主が送り込んだ人ばかりになっていて 説得に向かわ
せた人を天皇に会わせようとしないばかりか 途中で襲撃する事を企
でている人達もいる事が井伊の耳に伝わりました。 
ついに井伊はやむなく 京都にいた井伊のやり方に反対する人たちを
始めとして 百人ほど捕らえて しばらく後に次々牢に入れたり 
死刑にしたりしてしまいました
さらには井伊に一番反対し猛抗議した領主を 一生屋敷から出られ
ないよう閉じ込めてしまったのです これを安政の大獄といいます

一応文章を作ってみましたが
説明に少々無理があるかもしれません 
こんな長い回答でもうしわけありません  


 
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幕府の派閥の一つで政権を握っていた一橋派が、自信満々だった日米修好通商条約調印の勅許(天皇の許し)を得ることに失敗。

一橋派の政治威信が低下します。
これにより、敵対する南紀派のやり手井伊直弼が大老に就任(政権交代)。直弼は、アメリカの駐日公使ハリスが「アロー戦争に勝ったイギリスが軍を送ってくると」条約調印を迫ったため、勅許を得ずに調印。
一橋派は、それまで自分たちが条約調印を求めていたにもかかわらず「勅許を得ずに条約を調印するとはどういうことだ」と直弼を批判して、巻き返しを図りますが、当然のように直弼に論破(ブーメランアタック)されてしまい、一橋派大名は隠居や蟄居させられ失脚します。
さらに直弼は、一橋派の藩士や浪士、公家、幕臣を次々に処分します。この中で一橋派のブレーンだった橋本左内や老中暗殺を計画した吉田松陰などは処刑されました。

条約問題が絡んでいますが、基本的には次の将軍候補をめぐる幕府内部の派閥抗争で、政権を掌握した側が負けた側ををこれでもかと粛正した事件です。
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まず幕末の日本の内政と外交をわかってもらわないとなりませんが、たいへんですね。



私は「今のアフガンのようなものだ」と説明するのがいいのではと思います.

アフガンは外圧にしたがって行動する政権があり、それを嫌いイスラム原理主義でテロを頻発するタリバン勢力があります。幕末の日本も、徳川幕府・井伊大老体制は急いで外圧に従い開国しようと動き、神州(神の国日本)に夷狄を入れるなという反幕府勢力がありました。危機管理特命老中の井伊が、現アフガン政権がタリバンを取り締まるように、反幕府勢力を取り締まったのが安政の大獄だと説明するのが、よいかと思います。

むろん、将軍位継承問題や朝廷の密勅問題などもありますが、それは付属的課題ではないかと私は思います。
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