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ブラジルの英雄・サッカーの神様であるジーコが

当時はサッカーの後進国であった日本、しかも一地方都市の鹿島に来た理由・経緯とは

どんなものなのでしょうか?

普通に考えると実績もプライドも有るあれほどの選手がかも

サッカーがプロになったばかりの日本にわざわざ来るとはどうしても考えにくいのですが・・。

あの頃はサッカー人気も絶頂に有ったから・・もしかして・・お金も一因でしょうか・・?

A 回答 (2件)

1990年2月6日、引退試合「フラメンゴ対世界選抜」で花道を飾ったジーコは、


その後、当時のコロール大統領の要請により大統領府体育局長の任に付いていました。

その職を辞したのが翌年4月。
後にこれは住金入りの布石であったことが判明します。

国内で「ジーコ住友金属加入」が報道されたのは、1991年5月10日。
5月20日、夫人とともにジーコが来日。翌21日に契約・記者会見。

この時、ジーコ38歳。
3年契約で、契約金・年棒合わせて総額3億円(推定。住金側は否定)。

以下は、その帝国ホテルで行われた記者会見の席上にて、各人が語ったコメント(要旨)です。

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《住友金属 新宮社長》
 鹿島のイメージアップ・地域振興の為にプロチームをつくった。
 その面、弱くてはイメージアップにならない。
 現状は、JSLの2部で4位であり、相当の強化が必要だ。
 そこで優秀な選手を、ということでジーコにオファーを出した。
 世界のジーコが鹿島でプレーするというイメージは、青少年に希望を与え、
 それが、鹿島が暮らし易い地域となっていく促進になる。
 ひいては日本サッカーの起爆剤になるでしょう。

【日本でプレーすることはいつから考えていたのか。カムバックの最大の理由は。】
《ジーコ》
 フラメンゴ在籍時に日本のチームからオファーがあったが、その際は適した時期では
 ないと思った。
 引退後、住金から申し出があり、日本のサッカー転換期にプレーできる事に意義を
 感じたし、それが自分の人生にも役に立つと考えた。

【もし日本からではない他国からのオファーなら受けていたか。】
《ジーコ》
 米国くらいならどうにかやったでしょうかね。
 欧州の様な過密スケジュールではないですし。

【オスカーから聞いた情報で興味が有ったことは。】
 (※オスカー……元ブラジル代表。日産自動車で選手、更には監督も勤めた)
《ジーコ》
 先にも述べたが、プロ化という転換期にプレーできること。それが最大の
 興味のポイントだった。
 その他、どういう形でプロリーグが推進されているか、等が興味深かった。

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また専門誌は、
「ジーコが住金に入ったのは、金の為ではない事は事実。
 そんなにべらぼうな額は出していない。」という住金関係者のコメントも紹介。

『新しく何かを始めようとする所に自らが参加する。
 しかもそれが、彼にとって興味のあった日本であったということが、
 心を動かされた要因なのかも知れない。』
 ……と締めくくっています。

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こんにちは。
このニュースを目にした当初の私は、あまりの絵空事にネタ記事だと思いこんで、
苦笑していた記憶があります。
「プロ化目前とはいえ、W杯に出た事もなく五輪も20年以上ご無沙汰な弱小国・日本。
 その実業団リーグの、しかも2部に引退したジーコが来る…?」
とても信じ難い内容でした。

その後のジーコの親日ぶりはご存知の通りで、鹿島そして日本にとっても
大きな財産を残してくれました。
いちサッカーファンとして感謝に堪えません。

ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/10/01 18:03

ジーコは鹿島に入団する前の1989年に一度引退してます。

その直後にブラジルのスポーツ担当大臣という閣僚になってます。当時JFLの2部だった住友金属からオファーを受けて大臣を辞任し日本に来たという事は知ってましたが、その経緯がwikiのジーコに詳しく載ってるので見てください。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/10/01 18:03

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