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「15世紀末から17世紀初頭にかけての「大航海時代」におけるヨーロッパとアジアの交易に関して、かつてのヨーロッパ中心の歴史観は、現在では修正されつつある」
ということに関してのレポートが課されたのですがどのような感じでアプローチし、どのような点を注意して論文を構成していけばいいのでしょうか。
ご教授ください。

A 回答 (3件)

 >ご教授ください。



 そのままです。
 「かつてのヨーロッパ中心の世界観」をソースを交えて紹介し、「修正されつつある現在の世界観」をソースを交えて紹介し、それについて自分の考察を書けばいいです。取り上げるソースによって、アプローチが逆になったりすることがありますが、それはそれでいいのです。どのソースを取り上げるか、というところから既にあなたの実力が試されているわけですから。
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インド洋交易圏とか東アジア交易圏が成立していたところに、「やぁこんにちわ」と新参者がちょこっと増えただけ。


というのが、修正された意見だと。

※ ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達できたのは、東アフリカで「いい、イスラム教徒の水先案内人」を雇うことができたから。
※ 日本に火縄銃を持ってきたポルトガル人は「中国のジャンクに乗っていた」というような
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1点目が、16世紀の初頭にスペイン・ポルトガルは東アジアに進出しますが、当時の東アジアは中国明が海禁政策をとって私貿易を禁止していましたが、その中国を含め、日本・琉球・朝鮮・安南などでは政府ではなく貿易商などが国家の枠を超えて中継貿易を行っており、西欧人は世界貿易の一環としてこの中継貿易に参入してきたものであること。

ポルトガル人の日本との交易を見ても、中国から生糸を日本に運ぶことが最大の利益をもたらしていたことからもうかがえます(日本からは下記の銀が最大の輸出品であった)。また、沖縄に万国津梁という言葉がありますが、まさにこの時代に琉球が東アジア中継貿易の中心として栄えていたことを象徴する言葉です。
2番目に、16世紀の中期に日本の銀の産出量が飛躍的に伸び、メキシコ銀と並ぶかそれを凌駕する勢いを持ったことです。東アジアのみならず世界経済にも大きな影響を与えたとされます。
3番目に17世紀初頭までは日本人の海外進出が盛んで、朱印船による貿易。日本人町等の日本人の居住地の拡大など、西欧人凌駕する勢いを見せたこと。
また、豊臣政権は明の衰退もあり東アジアの新秩序をつくることを目指し、ポルトガルのゴア、スペインのマニラ、台湾などに服属と朝貢を求めた事実もあります。

以上、参考まで。
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