アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

歴史学上、実在したことが確実で、実質的な初代天皇とお呼びできる方を教えて下さい。

「天皇」と称した最初の天皇は天武天皇だ、と高校の日本史の授業で習いましたので、天武帝より前の方でよろしくお願いします。

A 回答 (6件)

あらためましてNo.3です。

なるほど、たしかに血筋ということでいえば、確実性があるのは継体天皇までですね。まあ、DNA鑑定でもしないかぎり、本当に確実とはいえませんが、そんなことは不可能ですし、日本書記を全面否定しても不毛ですから、継体天皇というのが妥当な線だと思います。

ただ、継体天皇の時代より前に、巨大古墳を造ったり、中国と外交したりした人たちがいたことは確実ですし、その人たちとの血のつながりを主張する歴史書がつくられていることや、その歴史書で見る限りでは、継体天皇の前と後とで、中国の王朝交代のような支配構造の変化があった形跡がないことなどから、本当に血のつながりがあるかどうかは別として、血がつながっているという触れ込みで迎えられて継体天皇は即位したんだろうから、王朝の交代にはあたらないという見方が、最近の歴史学では主流です。越前あたりの地方豪族が天下をとったのなら、越前系の豪族がいろいろ中央に進出してたりしないとおかしいですから。

なお「天皇」という称号を最初に使ったのは天武天皇で、それ以前の称号は「大王」だと断言されている方が多いようですが、いささか理解に苦しみます。最初に使ったことを証明するには、それ以前に使われていないことを証明しなければなりません。そしてそれは、論理的に不可能です。「ある」という証明は事例が一つでもあれば足りますが、事例が一つも見つからなかったとしても、「ない」という証明にはなりません。何万回もの再現実験を行って確かめることのできる自然科学分野ならともかく、収集可能な事例自体が極端に少ない古代史において、そのような証明が不可能なことは自明といえます。

それでも、天智天皇や推古天皇などを「大王」と呼んだ実例がたくさんあるなら、天武天皇が最初の「天皇」である可能性は高いといえるでしょうが、そのような実例は今のところ一つも見つかっていません。江田船山古墳出土大刀銘など、5世紀ごろの古い用例がわずかにあるだけです。現状で確実にいえるのは、発見された確実な「天皇」の初例が天武天皇の時代だということだけです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

再度ありがとうございました。所謂「悪魔の証明」ですね。現在確かなことは、血筋では継体天皇、天皇を称したことが史料で確認できる最古の天皇が天武天皇ということですか。
宮内庁も皇室をいつまでも菊のカーテンで覆い隠さず、天皇陵とされる古墳の発掘調査は認めて欲しいものです。

お礼日時:2012/04/03 18:46

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

結論から先に述べると、「天皇」という称号を使ったのは、「天武天皇」で正解です。

それ以前は、どなたかがおっしゃる通り、「大王」(おおきみ)と呼ばれていました。

奈良県の飛鳥池工房遺跡から「天皇」と記された「木簡」(もっかん)が出土しています。

天武天皇は、幼少期には摂津国の豪族・凡満氏(おおしあま し)に養育され、名の「大海人」(おおあま)もそれにちなむとされています。従って、天智大王は兄にあたりますが、傍流の系譜だったと言われています。

しかし、天智朝では皇太弟として、よく兄を助けて執務を行っていました。家臣や豪族からの信用も厚く、次期大王のお声めでたしでしたが、天智大王には何人かの皇子がおり、中でも大友皇子(第39代・弘文大王)が大王の位を狙っていました。

そこで、天武天皇は無用な争いを避けるために、天智朝の後年に吉野に隠遁(いんとん)しました。

兄の天智大王が崩御し、第39代弘文大王が後を継ぎましたが、弘文大王は周囲からあまり信頼を受けていませんでした。人々はことあるごとに大海皇子を惜しんでいたため、弘文大王は吉野を攻めて大海皇子を殺そうとしました。

大海皇子は、その動きをいち早く知ると、ついには吉野で挙兵をしました。
この戦いは古代史最大の内戦と言われ「壬申の乱」(じんしんのらん)と呼ばれました。

隠遁生活では数十人の家臣しか従えていませんでしたが、吉野で挙兵したときには、たちまち数万の兵がはせ参じ弘文大王を包囲し、ついには弘文大王を位から退け、第40代天武大王となりました。

これには、天武大王が幼少の頃、民間の中で育ったための人心掌握術にたけていたからだとも言われています。
また、兄の第38代天智大王を良く助けた実績もあり、宮廷内や豪族たちの信頼を一身に集めました。

そして、先に述べた木簡にあるように、初めて「天皇」と呼ばれるようになりました。

天武天皇は、正統な天皇の血筋を伝える「日本書紀」や「古事記」の編纂も行いました。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

ありがとうございます。
天智・天武の両天皇は両親を同じくする兄弟とされていますが、実は天武帝が年長で、高句麗からの渡来人が父親、という異説もあるみたいです。謎が多い方です。弘文天皇は明治になるまで歴代天皇に数えられていなかったですね。明治天皇は天武帝の子孫ではなく、天智帝の子孫、そこが鍵かな。天武帝の本当の父君はどなたなんでしょうか?

お礼日時:2012/04/01 21:44

>実在したことが確実で、実質的な初代天皇とお呼びできる方を教えて下さい。



初代天皇は、質問者さまが理解している通り「天武天皇」ですね。
それまでは、天皇でなく「大王(オオキミ)」でした。
つまり、各地方を治めている王の連合体の長としての大王です。

>天武帝より前の方でよろしくお願いします。

敬称を不問に考えると、継体ですかね。
大和国大王家(天皇家)が跡絶えた時に、越前国(福井県)から遠い血筋である皇子を探し出して即位させた事になっていますね。
戦後、皇室は「この継体天皇を、現皇室の祖(初代)」としています。
「万世一系・男子が継ぐ」は、明治維新以降の話に過ぎません。
それまでは「親子兄弟」「祖父・孫」など親族間で、即位に関して戦闘を繰り広げていますよ。
まぁ、この事は置いといて・・・。
継体は「大和国の大王家が(滅亡)滅んだ時に、天下を狙って侵略してきた地方豪族」との説も多いです。
実際、大王に即位してから大和国に入るのに19年も要していますからね。
戦国時代の群雄割拠と同じで、有力豪族が覇を争ったのでしようか?

ただ、これも推測に過ぎません。
皇室・宮内庁は、真実を明らかにする事を頑なに拒んでいますから・・・。
幕末から明治期にかけて、多くの円墳・方墳が「前方後円墳」に変身!
(幕末、尊王の意を表す為に多くの藩が大きな古墳を増改築しています)
○○天皇陵となり、一切の研究を禁じています。
堺市にある最大級の前方後円墳の、度々名称が変わっていますよね。
仁徳天皇陵⇒伝仁徳天皇陵⇒大仙古墳。
誰の墓なのか、確認する事も必要だと思いますがね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。私と同じ見解、継体天皇ですか。

私は萬世一系と言うなら、天皇の父親は必ず天皇でなければそう言えないと思っています。その意味で、今の皇室の初代は光格天皇だと思います。明治天皇替え玉説もありますね。

古墳時代の天皇陵の発掘調査は切望しています。

お礼日時:2012/04/01 19:58

わたしとしては「実質的な初代天皇」という表現に、いささか釈然としないものを感じるのですが…



こういう表現を使うと、それ以前の天皇は実在しない、架空の人物ということになってしまうのではありませんか?

非実在を証明できる人物ならともかく、実在した可能性はあるけど確実ではない人物を、すべて実在しないものとして扱うのは、いくらなんでも乱暴過ぎます。

歴史学では自然科学と違って、確実な証明が不可能な部分が非常に大きく、推測に推測を重ねて最も可能性が高いと思われることを「たぶん、こうだったはず」というのが限界だったりします。「天皇」を称した最初の天皇が天武天皇だ、というのも、あくまで推測の域を出ません。明日香の遺跡から出た木簡のなかに「天皇」ということばが書かれたものがあり、同じところから天武天皇の代にあたる年号が書かれた木簡も出ているので、天武天皇の時代に「天皇」ということばが使われたことは確実とされていますが、それ以前の時代に使われていなかったという確実な証拠はなく、天武天皇が最初というのは、最有力の説だから教科書に書かれているに過ぎません。

実在が確実なのは誰からか、という議論は有意義だと思いますが、それを「実質的な初代」と位置づけるのは、ちょっと飛躍していると思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございました。
「実質的な初代」というのは、近上天皇から父方の血筋を遡っていって、実在したことが確実な最初の天皇、の意味で使いました。不適切な表現で申し訳ありませんでした。

同時代での天皇称号には拘っていません。ヤマト王権では、有力豪族の首長が「大王」と呼ばれていて、後世に天皇号を追謚されたことも知っています。

改めて、実在が確実な天皇はどなただと、ご回答者様はお考えになりますか?

お礼日時:2012/04/01 19:37

崇神天皇ですかねぇ・・・



神武・応神の両天皇が怪しい話が多いので、継体天皇以降はおそらく史実的には大丈夫でしょう
    • good
    • 1
この回答へのお礼

祟神天皇ですか、第10代ですね。神武天皇と同じ「ハツク二シラススメラミコト」の名でしたね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/04/01 19:43

そう言われましても我々が知っている古代史のよりどころとなっている


日本書紀も古事記も天武天皇の影響力の中で編纂されているので
それ以前の歴史が書き換えられた可能性は否定できません。
記紀以外の考古学的遺物で唯一天皇称号を用いたことが立証されて
いるのが天武天皇です。単に存在がほぼ確認されていると推察される
国王クラスの支配者層と言われるのが和の五王で、それにしても
その第1を応神天皇とするか、仁徳天皇とするかも議論の対象です。
また応神天皇らは河内は支配していたが、ヤマトは葛城王朝が
支配していたという説もあります。雄略天皇が葛城氏の神である
一言主神と葛城山中で出会ったという件が記紀には出てきますので、
その辺りに融合があったのではないかという想像もあります。
雄略天皇が覇王であったことは推測できますが、その皇統が
そこで断絶したこともまた推察されます。
桓武天皇が天武天皇の血統を継ぐ奈良時代の各天皇とは異なり、
天智天皇の血統を受け継いでいることから言えば天智天皇は
確実と言っていいかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早々にありがとうございました。私のあやふやな日本史の知識では、現皇室の父方のご先祖は継体天皇である、と思っていました。

仰る通り、天智帝が確実なのかもしれません。

お礼日時:2012/04/01 13:01

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!