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貫之が土佐守になりて、下りてありける程に、任果の年、七つ八つばかりの子の、えもいはず・・・・・

という部分に出てくる
「七つ八つばかりの子」というのは
貫之の実子なのか、そうではないのかで
悩んでおります。

ちなみに
この子が亡くなったために、任期満了で
都へ戻ることが つらくなくなったという話です。

A 回答 (2件)

宇治拾遺物語の12巻13の貫之歌のことのところですね。


都へと思ふにつけて悲しきは帰らぬ人の□なりけり   
紀貫之の経歴を調べますと、868年頃の生まれですね。
彼は内御書所預として図書の整理や歌集の編纂をしておりました。
この間に先妻の間に長男の時文、次男の是持をもうけています。
その後、新しく妻をめとり子をもうけています。
930 年 (延長 8) に土佐守に任じられます。
935 年 (承平 5) 任終わって帰京します。
土佐を去る時に、7歳でこの世を去った子の事が
忘れられず、つらくなったことが今昔物語に書かれています。
それゆえ実子でしょう。
下記の今昔物語の解説のサイトは息子になっています。
亡くなった子供は貫之が大変可愛がっていたので娘かもしれません。
なお宇治拾遺物語は1220年ごろ説話集としてまとめられました。
今昔物語は平安末期の説話集です。

参考URL:http://www5d.biglobe.ne.jp/~katakori/q3/qm24d43. …
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『土佐日記』の中に「かくあるうちに、京にてうまれたりし女子、国にてにはかに亡(う)せにしかば」という記述があることから、亡くなったのは貫之の実子だとされているようです。


 なお、参考とした『新編日本古典文学全集 宇治拾遺物語』(小学館)には、
◆貫之の娘は、帰京の1~2ヶ月前に亡くなった
◆愛児を任地で失って云々
 といった内容の頭注がつけられています。
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