10秒目をつむったら…

答えが明確に提議することはできないと
考えているため、アンケート的要素が濃い質問です。

人のミスする要因とはなんでしょう。
努力が足りないことが要因でしょうか。

とある人曰く
『「すいません」、「申し訳ございません」を多用する人は、
心では全く申し訳ないと思っていない人です。』

と提議する人がいますが、
それは本当でしょうか。

これは、ミスするひとが努力してないからミスをするという
前提で話しているので、そうなっていると思いますが、
いかがでしょうか。

数多くのご意見が欲しい為、
締めやお礼が遅くなる場合がございますが
ご容赦をお願いいたします。

また、アンケート的要素がある性質上、
私からの反対意見などがある場合も
ございますが、ご了承願います。

A 回答 (12件中1~10件)

このミスをするという定義には『前提が在ります』それは人間がものを認識をすると言う定義です。

もっと詳しくその認識をするという場合の定義を先に書いてみます。

人間がものを認識する場合では、一番初めに五官から入る情報が在ります。その情報を『人間の場合では、二つの意識が、一つの物を見ています。』

その科学的な証拠です。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

五官から入る情報を、『右脳では言葉以外の情報として』脳梁を通じて、『左脳に存在する自我意識に』送っています。

この情報を貰ってから、『左脳の自我意識は』言葉に翻訳をして感情にして、言葉にして感じています。

簡単な言い方をするなら『感情が湧き上がるシステム』と言う言い方です。高い所にいる事を『自我意識に言葉以外の情報で送っているシステムです。』そのシステムが働くために、人間は『今どの位の高さのところにいるか?』を瞬時に認識出来ます。

狭い所にいる場合でも、広い所にいる場合でも、人に会う場合でも働くシステムです。このシステムの情報を直接的に怖がる場合を『恐怖症』と呼んでいます。

高いところの情報を嫌う場合を『高所恐怖症』狭いところの情報を嫌う場合が『閉所恐怖症』と言う具合です。人に対する印象を教えるシステムを嫌う場合を『対人恐怖症』と言っています。

自我意識という『心が』湧き上がる感情そのものを拒否している場合ですので、物事を認識する事を『拒否している場合です。』

この場合では、当然ミスをする事が多くなります。『前を見ているようでいながら、前が見えていない場合が多くなります。』思い込みで見ている場合が多くなるというミスの仕方です。

『心此処に在らず』と云う事になっているからです。

そういう場合では『自分の心と心が争っています。』本来では、一つになって働く事によって『外部との関係』=『仕事』等がスムーズに行く事を意味しますので、自分の心のエネルギーが『内部抗争に使われているために』神経症等では『ぼんくら』に見える場合があります。

この回答への補足

なるほど、左脳と右脳は独立して事象の認識が可能なのですね。
人間って不思議ですね。どうしてこんな複雑に進化することができたのしょうか。

高所恐怖症はいわゆる自己防衛本能なのですね。
誰でも、崖の端に立てば恐怖を覚えます。
こちらは極端な例なのでしょうか。
しかし、それだけではないような気がします。
生命の危機とは別になにかトラウマになって
その恐怖症がうめこまれたのかな。
それとも、自己防衛に関する感受性が高いのか。

子供のころが吠える犬が怖いと感じる子もいますが、
これは動物が威嚇しているのをわかっているんでしょうね。
不思議ですよね。動物という他種と人間の関係を脳は生まれながらに
意識しているのでしょうか。

まあ、大人になっても威嚇する犬が
怖いですが、これは噛む姿勢をとっている犬と
認識するからであって知識や経験からだとは思いますが、
経験の無い子供の事象についてはわからないです。

いわゆる恐怖症と呼ばれるものは認識する前段階の
ことなんですね。たべずぎらいに似ている現象?

じつはうまいのに食べてない。
なにかのきっかっけで食べてみてうまいと認識して、

ああ、いままでこれを覚えなかったなんで
なんとどれだけいままで失敗(ミス)をしたのだろう。

と、個人のミスを認識する場合もあると思います。

また、
右脳と左脳の連携問題でもミスするということですね。
なるほど。

補足日時:2012/04/16 12:22
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『申し訳ございません』と謝罪の意を形式的に表明しているのであって



そもそも絶対に心から申し訳ないと思う必要性はないかと思います

もちろんミスの度合いや責任の度合いにもよると思いますが

自責の念に駆られるようなミスを普段から想定して

『謝罪』というものを行なっていないかと思います。

この回答への補足

必要の有無はそのとおりなのかもしれませんね。
逆にいちいち、申し訳ございません、といわずに
訂正する要項だけ述べればいいのかもしれませんね。
仕事ですし。訂正も仕事の一つと考えれば、
謝罪はいらない。と逆説も唱えられますね。

それで内容はわかるものだし。

相手を選んで言葉を選ばなくてはなりませんね。

補足日時:2012/04/16 12:13
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んー、なるほど




「そんなこと言われたって!」

ということも、・・・世の中には、ありますわね





それはたぶん、言うほうがバカ

この回答への補足

お見事です。
おっしゃるとおり、
そんなこといわれたって
起きてしまったことを
あやまる以外にどうしろと?

逆にあやまる気持ちがないものは成長しないという
評価もあります。

人間言葉にしなければ伝わらないこともあります。
他人なのですから。
また、言葉というものは不思議で
声に出したとき、それは生きてくると
思います。いわゆる言霊ですか。

また、
うっかりさんはミスも多いかもしれません。
それは性格なのだからしょうがないともいえます。
おっちょこちょいっていうのはなかなか治らない。
むしろ、回りで気を使うことにより、
改善する場合もあります。

あまり、責めない、重く思わせない。
これら簡単なことから始めると
意外と改善したりする場合もあります。

怒るられることによって
人間は緊張します。

まぁ、緊張しない人間もいるかもしれませんが、
それはそれで対処しなければならないでしょう。

緊張すれば、心が固く、せまくなります。
つまり視野がせまくなり、
新たなミスを引き起こす場合もあります。

視野がせまくなるというと
漠然としていてわからないですが、
つまり、そのことに考えがいっぱいになり、
人間の考える許容を満たしてしまうと考えられます。

ということは
つまり、

「いう方もバカ」これは正解に遠からずだと思います。

補足日時:2012/04/16 12:15
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謝る行為は、心とは無関係です。



相手の考えを、過去へのとらわれから、
これからの対策へチェンジシフトさせるためのコストパフォーマンス
性の高い効果的な演技だと思います。

人間の行動にミスがないことがありえませんから、
あらかじめ考えられうる範囲のミスをあらいだしておいて
チェック表なりで防いだとしても、範囲外はあたりまえの
ようにおこるという前提とチェックミスもあたりまえと
思って、そこにリスクのコストを見積もっておかなければ
ならないのではないでしょうか。

この回答への補足

ミスの度合いもコスト対パフォーマンスのトレードオフ
があり、相手はトレードオフを望まないということから、
謝罪に対し納得がいかないのでしょう。

実際、どうでもいいミスに対して、
相手はおこっているのですが。
おざなりにされたくないのでしょう。

というか、どうでもいい、という言葉には
語弊もありますが、
そのミスを補完できる状態であるということです。

たとえば、日付を伝える記載のミスがあるとして
その日付があり得ない値であり、かつ間違ったとしても
とくに影響はないような性質のものである場合です。

結果、申し訳なく思っていない人である。と評価するということは
つまり、評価者自体もどうでもいい事と認識しているという証拠なのかもしれませんね。

その一方で、謝罪する人は謝罪の通り、相手に対する仕事(つまりレビューという仕事)
を発生させた謝罪の気持ちがあるからこそ、謝罪しているはずです。

ミスはミスですね。そこに対処の見積もりをつけて
影響を減らすわけですね。

補足日時:2012/04/16 12:36
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企業に関して、従業員がミスをする原因。



その第一位は、「相手に誤った指示が伝わっている」が最も多く、
指示そのものが間違っている。あるいは指示の仕方が悪い、それによってミスをする事が大半らしいです。


努力が足りないや、相手その者がやる気が無い、いい加減と言う理由でミスを誘発する場合はあるでしょうが、ミスの原因としては少ないほうです(そもそもそんな人は、すぐにクビになるから統計で蓄積されにくいのかもしれません)
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>人のミスする要因とはなんでしょう。


 努力が足りないことが要因でしょうか。

十分努力をしていればミスは起こらないのではないか?とおっしゃるのでしょうか。
一般的にいってそんなことはない、と思います。人間はミスをする生き物です。なぜならば、あることを決定する時には常に、それが100%成功するための必要な情報が決定的に不足しているからです。

よほどのポカミスを除き、人間は普通に努力をしています。にもかかわらず事故や不肖事は日常のようにおきています。最近の原子力保安院の2006年の提言ミスについても、彼らの確固たる学術的技術力への自信がそうさせたので、彼らは今でも心中では絶対ミスだったとは思っていないと思います。世間へは出さないけれど、彼らなりのゆるぎない理論的構築のもとに見事な弁明が出来るはずです。

無謬の提督東郷平八郎も「神」になったあとはミスというしかない提言をする海軍の厄介な黒幕になったといいます。
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「アンケート的要素」について、この場のルール的には微妙ですがテーマに興味がありますので了解しました。


「マイクロスリップ」という言葉をご存知でしょうか。
思考や、知的行動は、小さなミスが淘汰されることによって生じているのだと思います。ミスを犯さない「機械」は、思考することができないのだと思います。時間スケールを非常に大きくして考えれば、生命の進化の原動力が、小さなミスの淘汰であるのと似ていると思います。生物の機能の高度な進化を目の当たりにすると神様の心があるように感じてしまうのは、私たちの日常の思考や行動に心があると感じることと似ていて、時間軸の大きさが違うだけなのではないでしょうか。
このように、小さなミスは、むしろ必須なものだと思います。しかし大きなミスは、避けたいものです。大きなミスは小さなミスが淘汰されないまま膨らんでしまった状態なのではないかと思います。大きなミスを避けるには適度なタイミングで淘汰を受けるようにする、という、即ちチェック頻度の問題なのではないかと思います。
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 先ず最初に“人のミスに対して、『要因』や『提議』が使われてることに少し違和感を持ちました。


原因では無いからです。さらに定義でもない。その辺で、少し見方が違ってくると思います。

多くのミスは原因があると思います。見間違った、聞き違えた、言い間違えたなど。操作ミスもありますね。滑った為に、老朽化してた為、無理をした、寝不足だった、準備不足だったなど。

 私は2週間くらい前に、バイクで新聞配達中に転倒しました。路面が凍ってバランスを崩して転んだためでした。そして足首を痛めて最近良くなりました。ミスはバランスを崩して転倒しました。でもそれは路面が凍結という要因があった。バランスを保てなかった運転技術も要因。結果として怪我をした。最近まで痛みがありましたが、代わりの人も居ないので配達は続けました。こうしたミスは、冬季間の新聞配達では100%回避することは無理ですが、スピードを抑えれば危険は少なくなります。それを気にしないでいると、同じミスや事故を繰り返します。そして大きな事故を招く事にも繋がって行きます。ですから、(1)スピードは出さない (2)凍結路面は避ける (3)バランスよい運転を心掛ける。など要因をピックアップして、常に意識しないといけません。改善ですね。周りの人も気付いたら指摘してあげる事は大事です。改善提案ですね。

原子力発電所や飛行機の離着陸などでは、大事故に繋がりますから、原因を調査して改善してゆくことは大事な事でしょう。

以上、感想・意見など。
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>考えているため、アンケート的要素が濃い質問です。



失敗する原因は各人で様々でしょうから、アンケート的に経験を集めるというのもひとつの手段ですが、ご本人の失敗を減らしたいということでしたら、具体的な実例を挙げて質問された方が有意義かと思います。

>人のミスする要因とはなんでしょう。

先日、病院で忘れ物に気づきまして、一旦取りに帰ったのですが
帰ったついでにやっておこうと思っていた別の用事をし忘れて病院に再度行ってしまったことがありました。

ふたつの用事に気づいたのは時間的に間隔があいていましたから
脳の中の「帰ったらやること」リストが、やることの追加更新ではなく
上書き更新されたのではないかと思います。

ただ、焦っていなければ、いつもは途中で違和感を感じて気づくわけですから
正確に言えば、上書き更新というよりも違和感の探知に失敗したとなるのかもしれません。

単刀直入に言えば、焦りという妄想で「自家中毒」( 自らの生成した有毒な物質によって引き起こされる中毒症状)を起こしたといえましょうか。

>努力が足りないことが要因でしょうか。

正しい努力という前提が付きますが。

>『「すいません」、「申し訳ございません」を多用する人は、
心では全く申し訳ないと思っていない人です。』

申し訳ないと思っているとは、謝ることなのか、同じ失敗を繰り返さないよう注意することなのか・・・
ここの定義の相違から生まれる言葉の綾でしょう。

あと似たものに、「がんばれ」も成果をあげろという意味なのに、文字通りがんばって
評価が下がる悪循環もありますね。

「成果をあげろ」というと具体的なデータを基に話し合わないといけませんから
命令する側も相応の準備を求められます。
逆に「がんばれ」は実負担のない空手形ですからお気軽です。

ということは、「すいません」も実負担のないものといえるかもしれません。
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一般には、次になにが起こるかを予想できなかったからです。


その為の努力を怠ったということにもなるでしょう。

実体はミスを望んだからです。
ミスした自分、ミスしなかった自分のどちらも存在しているわけで、ミスした方がいいと決めていたんです。
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