【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

平清盛は博多で止まっていた宋船を都(京都)近くまで入らせ貿易の円滑拡大を計るため大輪田を開発したと聞きましたがなぜ淀川河口(現大阪港)に作らなかったのでしょうか。
神戸と大阪では30Km程離れており、都により近くまで大型船を接岸させることができれば運搬費用や時間の点で有利だと思いますが。

A 回答 (3件)

その土地を毛嫌いしていたのだと認識しています。


と、言うより寛容(むしろ大甘)な人物だったのでしょう。

歴史的には源満仲は住吉大社に参籠しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89% …

ここは源氏の本拠地ですので、何が起きても不思議ではありません。
(近代以前参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA% …


その西に湊を起こせば河内源氏の支配する住吉津には積荷が無くなるので良しとしますが、
本拠地を徹底的に粉砕しなかった事は、後々の大失敗の要因のひとつになります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

単に貿易港としての機能を考慮したわけではないんですね。
改めて歴史のおもしろさを知った思いです。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/26 21:23

清盛は早い時期から播磨の守に任官しており、平家にとって播磨は拠点中の拠点です。


ここに貿易港を作ったり天皇を移すのは、それらを自分の手中に収めることを意味しています。
港としても堺より神戸が優れていますが、そういう問題ではないでしょうね。

また都落ちして福原に落ちるのは1183年木曽義仲が攻めてきたときで、1180年の福原行幸はまだまだ平家が絶頂と思われていた時期です。
この行幸が反感を買い以仁王の令旨とつながるわけですが、まだまだ平家が強力な時代です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

貿易港を作るのにベターではないが清盛の拠点で有ることから諸条件を鑑み実践したと言うことですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/26 21:32

大阪には堺がありました また源氏の攻撃を防ぐには背後が山の神戸がよかったと思います



そもそも都落ちして福原に行ったのに都に近い大阪に港を作ったら すぐに攻め落とされちゃいます
    • good
    • 1
この回答へのお礼

なるほど!

お礼日時:2012/08/26 20:19

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!