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こんにちは。^^

ぼく:「命の尊厳を考えると 命の価値は誰が何時決めるの?」

生命保険:「命の価値は その人が生まれて死ぬまでの間に稼ぐお金のことです。働かない人は 命に価値は無いから死んでも保険は支払われません。」

ぼく:「え~命の価値は 一生で幾ら稼ぐかなの?」

生命保険:「そう 支払額は残りの人生で幾ら稼げるかで決まります。命の価値を増やしたいなら保険額を増やしなさい。」

ぼく:「命の価値はそんなものかな?」

メディア:「命の価値は その人の経済効果の大きさです。他人にどれだけ儲けさせたり、倫理的な影響があったかで決まるのです。」

進化論者:「命の価値は 環境にどれだけ適応できたかで決まります。子孫を多く残せた者が命の価値が多いのです。環境が決めます。」

哲学者:「命の価値は 後世にどれだけ影響を与える真実、善、美を残せたかで決まる。」

お金持ち:「命の価値は 死んだ人の遺族に納得いくお金を払えばいいのさ。命の価値は権力者やお金持ちが決めるのだよ。」

ぼく:「命の価値は 生きている時死んだ時のどちらにあるの? 命の価値は 他人の評価なの? 命の価値は 一生でお金を稼ぐ量なの? 命の価値は 自然淘汰での生存率なの?」
ぼく:「命の価値について教えてください。よろしくお願いします。」

A 回答 (15件中1~10件)

No.5、13です。


>>> No.13 お礼欄
個人のプライバシーに関することなので何人も個人の命を犯してはならない命は尊重されなければならないと思います。今の時代 メディアが命の価値を付けるなら恐ろしいことだと思います。
<<<
分かっておられるようですが、私にとっては、少し引っかかる点です。

「個人のプライバシーに関することなので」

ということすら、「命の交換不可能性、失われたら二度と戻らない」からすれば、別問題になります。

「メディアが命の価値を付けるなら恐ろしいことだと思います」

ですが、メディアは個々の人々の言動・行為にて成り立っています。おなじ命をもつものたちから発せられた(情動・思いが含まれていた)「言葉」が、それぞれの思いから切り離されて受け取られがちだということに問題が潜んでいます。

当初、それぞれに発した「言葉」には、それぞれの「思い(情・意)」が含まれています。
しかしながら、「言葉」として発せられた途端、受け手が「情報」ではなく「状報」として「知的・論理的」なものとして切り取ってしまいがちだということです。だからこそ、個人レベルのアイデンティティすら失われて、メディアを流れる「総括的・統合的な全体の意見」として、皆が認識可能なわけです。

例えば、大津市のいじめ問題では、皆の怒りといった情動が背景にあって、プライバシーなどどこ吹く風のごとくに個人名などがネット上へと投稿されました。

投稿した個人レベルの思いとは無関係に「状報」はネットを流れ、ネットを含むメディアの状報を受け取った人々が、それぞれの「情動」に基づいて再解釈を行い、一部は否定的、一部は肯定的な「状報」をネット・メディアに再送するということがくり返されました。明らかに誤った「状報」にて傷ついた方々もおられます。

命に関わるものごと(交換不可能なものごと)について、何かを語るとき、語られるべき言葉すら本質的に「交換不可能な」ものだという認識が大切でしょう。

安易にネットへと流すことの意味を深く考えるべきなのに、そういったことの重要性を分からないまま「交換可能な状報」として流してしまいうる人々の感性の低下こそが、嘆かれるべきなのかも知れません。そこで形成された「価値」は、多数意見の「価値」だからこそ正しいというものではありません。
「交換不可能な命」について、多数の意見を集約すればするほど、意見を発する人々のアイデンティティすら消え去り、「交換可能なもの」として誤認されてしまうからです。
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この回答へのお礼

こんにちは。

ぼく:「詳しいご回答ありがとうございます。にゃんこがカワイイですね。」

お礼日時:2012/09/09 16:08

>>:「ぼくがもし自分で物事を判断できない(自我が確定していない)4歳までに死んだらどうなるの?命の価値は無かったということなの?」


>>:「また ぼくが寝たきりで何も判断できなくなったら。命の価値はないの?(´;ω;`)ウッ…」


貴方に関わる誰かが勝手に貴方の価値を付けてます。その価値がどの程度かは人それぞれです。
ある人は貴方のほうが全世界より大切な存在と考えているかもしれません。別の人は貴方のことを道端の石ころより無価値と考えているかもしれません。
貴方に関わる人がいなくなれば貴方の命の価値を付ける人もいなくなります。
しかしそれがなんだというのでしょうか?
しょせん価値というのは人間が作った判断基準の一種に過ぎません。そんなものに惑わされるのは馬鹿らしいと思いませんか?
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この回答へのお礼

ぼく:「ご回答ありがとうございます。」
  :「命の価値には 自分で決める価値と、他人が決める価値があるようです。いずれにしても 個人のプライバシーに関することなので何人も個人の命を犯してはならない命は尊重されなければならないと思います。今の時代 メディアが命の価値を付けるなら恐ろしいことだと思います。命は個人であり 誰にも犯す権利などありません。ぼくの命は両親から頂いたのであり 命ある者からしか命は繋がりません。ぼくたちの体は 常に新陳代謝により命を繋げています。そして 他の命を頂くことにより新陳代謝が可能になるのです。命ある者は命を繋げることが使命なのです。ぼくは他の命により生かされている命は 誰もが尊いものだと考えて生きていく必要があると思いました。ぼくたちが命を維持できる豊かな環境を造れば そこに理想の命の楽園ができると ぼくは信じたいと思います。」

お礼日時:2012/09/06 22:35

No.5です


>>> お礼欄
:「予期せぬ事故で死亡した時の損害賠償は お金で払ってもらっても絶対納得してはいけないの?関係者が死ぬまで恨み続ければいいの?」
<<<

お金をもらって納得できる人がいれば、本当に幸せな人なのかもしれませんね。。。
関係者が死ぬまで恨み続けることのできる人は、強靱な心を持っておられるのかも知れませんね。。。

「交換不可能」というのは、お金とかの問題や、恨む・恨まないとかいった問題とは別の話ということです。「もう戻ってこない命」という話です。

よろしければ、下記を参照してください。。。

宮崎アニメに重ね見る、極刑を越える情。。。
http://jinen.exblog.jp/8562886

人の命の(知的)切断。。。国家による大量殺戮と個人による無差別殺人と。。。
http://jinen.exblog.jp/8240876/

脳を知りたいという欲望と不老不死の欲望と。。。
http://jinen.exblog.jp/6226762
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この回答へのお礼

ぼく:「ご回答ありがとうございます。」
  :「楽しいブログのご紹介ありがとうございます。(笑)」
  :「命の価値には 自分で決める価値と、他人が決める価値があるようです。いずれにしても 個人のプライバシーに関することなので何人も個人の命を犯してはならない命は尊重されなければならないと思います。今の時代 メディアが命の価値を付けるなら恐ろしいことだと思います。命は個人であり 誰にも犯す権利などありません。ぼくの命は両親から頂いたのであり 命ある者からしか命は繋がりません。ぼくたちの体は 常に新陳代謝により命を繋げています。そして 他の命を頂くことにより新陳代謝が可能になるのです。命ある者は命を繋げることが使命なのです。ぼくは他の命により生かされている命は 誰もが尊いものだと考えて生きていく必要があると思いました。ぼくたちが命を維持できる豊かな環境を造れば そこに理想の命の楽園ができると ぼくは信じたいと思います。」

お礼日時:2012/09/06 22:33

No.6です。

お礼ありがとうございます。

>自分と相手を同時に尊重

この認識には自他の区別があります。

「自他区別なく」と言ったのは、自分の命の営みと相手の命の営みを区別することなくと言うことです。
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この回答へのお礼

ぼく:「ご回答ありがとうございます。」
  :「自他の区別は分かりました。」
  :「命の価値には 自分で決める価値と、他人が決める価値があるようです。いずれにしても 個人のプライバシーに関することなので何人も個人の命を犯してはならない命は尊重されなければならないと思います。今の時代 メディアが命の価値を付けるなら恐ろしいことだと思います。命は個人であり 誰にも犯す権利などありません。ぼくの命は両親から頂いたのであり 命ある者からしか命は繋がりません。ぼくたちの体は 常に新陳代謝により命を繋げています。そして 他の命を頂くことにより新陳代謝が可能になるのです。命ある者は命を繋げることが使命なのです。ぼくは他の命により生かされている命は 誰もが尊いものだと考えて生きていく必要があると思いました。ぼくたちが命を維持できる豊かな環境を造れば そこに理想の命の楽園ができると ぼくは信じたいと思います。」

お礼日時:2012/09/06 22:31

近年ではマスコミが決めるようになった。



今後は、マスコミの影響力が鈍化してゆき、インターネット上のサイトでの投稿(の量)で決まるようになるのかな。
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この回答へのお礼

ぼく:「ご回答ありがとうございます。」
  :「>近年ではマスコミが決めるようになった。<情報量 またマスメディアの背後では、大企業や資本家などが操っている(ポリティカル・エコノミー理論)という説もある。」
  :「命の価値は人の数と一部の大企業や資本家が決めている?」
  :「これからは 愚民政治になるの?」

お礼日時:2012/09/03 05:54

人類は、もはや社会生命であり、着ている物も食べて


いる物も、世界中の人々の営為によってできています。
人体において、日々刻々細胞が死滅していますが、
それを嘆いたり価値を見出す事はありません。
生命の価値は、そのパーツの立派さではなく、トータル
なバランスと循環における“1つの命”としてです。
社会を構成する人々の価値は、その結果である社会
全体の生命活動の生産性(物心共の)として、全ての
人が等しく有します(社会への寄与の意思の限り)。
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この回答へのお礼

ぼく:「ご回答ありがとうございます。」
  :「>人体において、日々刻々細胞が死滅していますが、それを嘆いたり価値を見出す事はありません。<死んでいく者の価値など考えるな 社会生命に価値がある。」
  :「個人の命の尊厳はどうなるの?」

お礼日時:2012/09/03 05:54

ぼく:「命の価値について教えてください。

よろしくお願いします。」

教わるものじゃなくって、あなたが価値付けてるもの。

あなたは、幾らならその人に死んで欲しくない?

 Aさん、Bさん、Cさん  100円? 1000円? 100万円?
 いやいや100万円で殺して欲しい人がいるかもね・・・

誰であるなら自分の死を代償にその人を生かすことができる?

お国のために死ねるのか?みんなの命のために自分が死ねるか。その価値付けができるか・・・・

ぼく:「命の価値について教えてください。よろしくお願いします。」

命の尊厳?きれい事はきれい事で紙に書いておけばいいし、
一般的になんて話なら損害賠償の判例でも見れば書いてあるさ。

本音は、あなたが既に無意識に決めているんだよ。
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この回答へのお礼

ぼく:「ご回答ありがとうございます。」
  :「え~ぼくは4歳までの無意識の領域で自分の大部分の命の価値を決めていたの?自分で自分の命の価値は確認できないの?」

お礼日時:2012/09/03 05:53

 いろんな答えがあるとすればそれは“視点”の違いから。



 質問文にある「生命保険、メディア、進化論者、哲学者、お金持ち」等は、それぞれの視点での価値観を表わしたものであって、私なんかにはどれもが正しいように思えてしまいます。

 でもこれらの価値観に疑問を感じるという事は、他の視点から“命の価値”を探ろうとしているからだと思います。
 そうすると、他の視点となるとやっぱり思いつくのは、宗教的精神世界から見る“命の価値”ではないでしょうか。

 ただ、宗教も人それぞれに捉えられているモノなので価値観なるモノも一概に表現するのは難しいと思います。
 また、「生命」も“肉体・或いは身体”に重きを置くか“精神”に重きを置くかでも違いが出てきそうで、結構難問かも知れません。

 現在の私は、
 “神様・仏様”の立場なら、人の心の働きの好ましい世界(優しさとか向上心とか)を育てるような“生き方”をすることにこそ価値がある、と言うのではないかと思っています。

 私は“老人”の部類に入りますが体は至って健康で、だから最近思うのですが、この健康な体があるから心も病むこともなく生きていられると思うようになり、肉体の大切さも感じるようになりました。
 それは、健康でなければこの自分の体を恨んで、そして心も病んでいるかもしれないと思うからです。

 そう思うと「自分の体」に左右されないような精神力を通して“神仏”の思いに適う“生き方”をすることが、宗教的価値観として「価値有り」と言ってみたいと思います。

 

 
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この回答へのお礼

ぼく:「ご回答ありがとうございます。」
:「>現在の私は、“神様・仏様”の立場なら、人の心の働きの好ましい世界(優しさとか向上心とか)を育てるような“生き方”をすることにこそ価値がある、と言うのではないかと思っています。<」
  :「神様・仏様を信じて 精神修行をすることが命の価値なの?」

お礼日時:2012/09/03 05:52

価値という概念は、他の概念と関係づけられることによって


始めてその内容が明らかになる関係概念です。
だから、ただ「価値」というだけでは意味を有しません。
質問者さんの疑問の原因はここにあると思われます。

生命保険における価値:生命保険における価値のことです。
           ここでは生涯賃金でその価値の大小が決まります。

経済効果における価値:経済的影響の大小で価値が決まります。

生物的価値:残した子孫の数により価値が決まります。

哲学的価値:影響を与えた人の数で価値が決まります。



”命の価値は誰が何時決めるの?”
    ↑
価値は関係概念ですから、その関係で決められます。
アナタが極道息子であれば、生きている間は親兄弟
などがその価値を決めます。
勿論生きている価値など無い、という評価になるでしょう。
死んだら、やっと死んでくれた、ということで価値が上がる
でしょう。

自分が決めるときは、命は何よりも大切なものとなる
場合が多くなるでしょう。
世界の偉人百人の命より、極道息子である自分の命の方が
価値がある、ということになると思われます。
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この回答へのお礼

ぼく:「ご回答ありがとうございます。」
:「>価値という概念は、他の概念と関係づけられることによって始めてその内容が明らかになる関係概念です。<」
  :「ぼくとAさん ぼくとBさん ぼくとCさんでぼくの命の価値が変わるの?じゃぁ ぼくとA.B.Cさんが同じ所にいたらまた変わるの?命の価値は諸行無常なの?」

お礼日時:2012/09/03 05:51

命は価値をつけられるものではありません。

命の営みに価値をつけましょう。命を生み、守り、育む営みに価値があるのです。その営みの質に価値があるのです。

たとえば、食物や、その生産・摂食行為、それら自体にも価値はつけるものではないのです。食物を生産したり摂食する行為が、命を生み、守り、育む営みだから、肯定的価値がつけられるのです。命を滅し脅かすような行為には、食物や、その生産・摂食行為がかかわっていても否定的価値がつけられます。

同様に、お金自体に価値はありません。他人を儲けさせること自体にも価値はありません。経済効果も倫理も真・善・美も、それ自体何の価値はありません。

命のある限りにおいて、命を生み、守り、育むという価値ある営みがなされるのです。命の尊厳とは、価値ある営みをするのは命の他はないとして、自他区別することなく尊重することです。
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この回答へのお礼

ぼく:「ご回答ありがとうございます。」
:「>命の尊厳とは、価値ある営みをするのは命の他はないとして、自他区別することなく尊重することです。<」
  :「人は自他を区別できないと病気になります。それに人は 自分を鏡でしか観れないように自分そのものを観れないようにできています。反対に意識は自分のことしか分からなく 他人の意識は分かりようもない。どうすれば自分と相手を同時に尊重できるの?(´(・)`)クマッタ・・」

お礼日時:2012/09/03 05:50

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