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命が大事ならば
なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう。
この矛盾について解答があればお願いします。

なお、命が大事というのは人間の勘違いという解答は却下です。

A 回答 (58件中1~10件)

どちらかというと逆だろうと思います。


私たちは「他の命を奪わなければ生きていけない」ことから「命が大事」という発想が生まれてきたのだろうと思います。

例えば、の具体例ですが、
子供が、無意味に虫たちを遊びながら殺して育ったからこそ、大人になって命について関心を持つようになること。
あるいは、魚を釣り、魚の命をたくさん奪ったからこそ、川の汚染や環境問題に関心を持つようになること。
などが考えられます。
もちろん、そうでない場合もありますけれども。

この回答への補足

思うところがあるのですが、なかなか言葉にできません。
後ほどお礼を書かせていただきます。

補足日時:2008/08/27 23:01
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この回答へのお礼

順番については考えたことが無かったです。
この順番が何を意味するのか・・・
逆は無いということですか・・・
左右ではなく上下・・・
車輪の両輪にたとえたのは失敗・・・
殺すから命が大事なのが分かる。
ならば、
命が大事から何かを生めということかしら・・・

いいヒントをもらいました。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/02 21:09

資源が無限ではない地球上においては自分の生殖活動(恋


愛、家族等)、生命維持(職場、財産等)のためには他の
生命体を犠牲にしてまでも生き延びていくようなプログラ
ミングが組み込まれた生命体が生き残ってしまったのだと
思います。いわゆる生物の基本原理である本能部分です。
そのプログラミングが、欠如したり、欠陥があった生物は、
今、存在していないのではないかと思います。

そして、人間や他の動物の多くは、集団社会をつくって
生活していくことも、生殖活動、生命維持の有効な一つの
手段として取り入れたわけです。
その集団のなかで生きていくには協調性が重要になり、
自分だけではなく、生活共同体がひとつの生命体になって
いるわけです。
その共同体の中では、自分だけが生き延びるために、他人
のものをとってはいけないだとか、人を傷つけてはいけな
いだとか、結婚をした人は不倫をしてはいけない等の制約
を課すことで集団の秩序を保とうとしています。
これが理性といわれているものです。
その理性が働かず安易な短絡的な動機で、制約を破り、同
じ生活共同体に住んでいるある人と争いになった場合、当
人、その家族、親類までもがその集団のなかでは生活しに
くくなりますし、相手方の家族、縁者も巻き添えになり、
お互いの家系の将来、子孫継承に危機が迫ることになります。

多くの生物には、自分が生きていくためあるいは子孫継承に
有効な事象になったときには快楽が伝わるようなプログラミ
ングになっているようです。たとえば、食事、仕事が順調、
貯畜、恋愛、結婚、子孫誕生等。そして、また次の快楽物質
が伝達されるような事象を求め、延々と貪欲に子孫継承に有
効な行動を取り続けるような仕組みになっているようです。
反対に自分が生きていくため、あるいは子孫継承が困難な事象
になりそうな時には苦悩物質が伝達され、有効な事象になるよ
うな解決策を考えるようになっているようです。

この回答への補足

質問が難しかったのでしょうかね。

補足日時:2008/09/01 23:06
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この回答へのお礼

んーまいったな。

お礼日時:2008/09/01 23:06

56です


なら
命(生命全般)が大事だからそれを存続させる為の最適な手段が他の命を奪うこと、54で書いた事と同じ事なのですが個々の生命が大切と言う意味ではなく地球生命全体を考えれば存続の為に最も効率の良い方法を選ぶのは当然だと思いますけど。


そう考えた場合全く合理的な話で目的の為には手段を選ばずと言うのが自然界の意思なのでしょう。
実際他の惑星の生命達も同じでしょうね。
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この回答へのお礼

>存続の為に最も効率の良い方法を選ぶのは当然だと思いますけど

困ったな。
この質問を生物のカテや科学のカテでしていればその回答でOKです。
でもここは哲学のカテです。

目の前にいる牛を殺して食べたことがありますか?

お礼日時:2008/09/01 23:01

命が大事ならば・・・・これはある条件下での人間の価値観



なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう・・・・これは自然界の構造、絶対的な真理、法則に近いものだと思います。

この両者は比較の対象ではないと思いますが。

なぜ高所恐怖症の人が多いのに高い木や山があるのですか?
と聞かれて居るような気がします。
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この回答へのお礼

>なぜ生物は他の命を奪わなければ生きていけないのでしょう・・・・これは自然界の構造、絶対的な真理、法則に近いものだと思います。

ならば、

「命が大事」も絶対的な真理、法則に近いものだと思いませんか。

>この両者は比較の対象ではないと思いますが。
比較?比較はしていません。どちらも真実であり、一見矛盾する(矛盾という言葉が気になるなら不合理でも不条理でもいいです)この2つの真理をどう結びつけたらいいのかというのが質問です。

>なぜ高所恐怖症の人が多いのに高い木や山があるのですか?
と聞かれて居るような気がします。

必ずしも心理的なお話ではないのです。

お礼日時:2008/09/01 22:03

> この二つはどのように架け橋されるのですか。


架け橋ですか? 命が大事であることに矛盾を感じないことと、死の苦しみとの?
じつに神妙なバランスじゃないですか?
生きるという目的に向かって意思がはたらくのは大事なことだなあ、
そして、生きるという意思に背くことは、恐怖や苦しみがあるものなのだなあ、と。
ここも長くなりましたね。それでは、ごきげんよう。
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この回答へのお礼

またよろしくお願いします。

お礼日時:2008/09/01 19:13

まず


命が大事と言うのは自分や自分達の種の事を言っている訳で命全般を言っている訳では有りませんからね。

それと
他の命を奪わないで自分や自分達の種を存続させる方法が有るとすれば人間のような高度な生き物も地中や非生物からエネルギーを得なければなりませんが現実問題として効率が悪すぎます。

更に
食物連鎖を一切否定すれば全ての生物が同じものを奪い合う事になりそれでは餌が足りなくなります。

また
同じ餌を奪い合う結果種の種類が今よりも大幅に少なくなる事は目に見えていますがこれではいつ何時生命が絶滅しないとも限りません。

効率的な面から
生物に限らず経済でも同じで仮に近代文明を支えるインフラを各々が全て自前で用意するなら一体どういう事になるか、極めて効率の悪い狩猟時代に逆戻りでしょうね。

結論として
種の発展の為には近代人間社会が築いたモラルや法律などは全く無意味だと言うことでしょうか。
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この回答へのお礼

>まず
私はそうは思いません。

>それと>更に>また>また>効率的な面から
そうかもしれませんね。

>結論として
人間社会についてとやかく言ってはいません。

お礼日時:2008/09/01 10:35

クリスチャンですので一応キリスト教の考えを書いておきます。



すべての動物は本来植物のみを食べるように作られていましたが、罪がこの世に入り込んだので他の生物の命を取るようになったと聖書には書いてあります。

これは、創世記の記述やイザヤ書をみるとわかります。特にイザヤ書の記述ではししが草をはみ、そこに争いがないことが書かれており、神が最初にそのような世界を創造したということがわかります。

人間は確かに草食動物として作られたのでしょう。このことは、唾液の成分や胃液、歯の作り、腸の長さ、体のつくりから考えると明らかだと思います。

それでは、ライオンなどの肉食動物を考えます。彼らは確かに一部の植物由来の栄養素を消化する力を失ってしまっています。
しかし、猫を飼ったことがある人ならわかると思いますが、かれらは与えられれば、バナナやご飯など、果物、柔らかい穀物を喜んで食べます。また、野生のライオンなどは、獲物を倒して真っ先に食べるのは、動物の胃、つまり草が消化されたものなのです。

ここからも、肉食動物と思われるものが、実はもともと草食として、作られており、それが長い間に変化したと考えられるのです。

人間は、創世記の途中で、肉食を許可されたことが記述されています。
これは、人間が自らの罪のために、肉を食べなければ生きていけない土地に追い出されたことに起因するのでしょう。

たとえば、寒いヨーロッパでは、食物として食べる植物は十分に育ちません。必然的に、草食動物を連れて行って、雑草を食べさせ、その肉を食べるしか方法がありませんでした。

また、植物の命は大事でないのかという疑問を持つ人もいると思いますが、キリスト教では植物は食べられるために創造されたものという位置づけです。そのために、植物だけは「conscious center」=意識を持ちません。これは、動物を養うために神が創造したものなのです。
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この回答へのお礼

キリスト教徒は菜食主義者でしたっけ?

お礼日時:2008/09/01 01:20

ちょっと変わった視点から答えてみます。


私自身は仏教徒なんですが、
問題が問題なだけに今回はキリスト教っぽくいきたいと思います。

昔、人は楽園に住んでたのですが、アダムがリンゴ食べちゃったせいで
死や労働という色んな苦しみを課せられた訳であります。
で、謝って許して貰うのがキリスト教の大まかな所であります。

苦しみが生じたのはあなたの罪のせいです。
生命を奪う事が苦しいのであれば苦しんで下さい。
そして謝罪して下さい。
感謝して下さい。
生きて下さい。
それが罪を償う唯一の方法です。

なんか途中偉そうですが、雰囲気作りの為です。あしからず
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この回答へのお礼

苦しんでいるのはむしろ殺される側じゃないでしょうか。

お礼日時:2008/09/01 00:47

で、本題ですが、大事だから奪い合うし、譲り合うこともあるというわけで。


前述でうまく伝えられなかったように思うのですが、
「生命の素」は個体から個体へ移るといえますし、集団から別の集団へも移ります。
自分や、自分の家族や、自分の種にとって、大事だから、奪ってでも移すでしょうし、
相手や、相手の家族や、相手の種にとって、大事だから、譲ってでも移すことがあると思うのです。
お問いかけのこと、私にはあんまり矛盾が感じられないんですよ。。。
命がほかで生かされるためなら当然という気がしましてね。。。
それほど、命至上主義なので、自然とは。私の命は私にとってもあなたにとっても大事という境地のものが命なので。
ちょうど、どのコードやジャックでもコンセントでも、また、どの電球でも、電気が流れるような感じというのかな。
変化がなければいけない仕組みや流動性も、似ているというのかな。個々の持つ抵抗によって電圧の変化をそこにもたらすところなども。
むしろ、命が失われることに苦しみが付随するというのは何なのだろうと思っています。
恐怖や苦しみは、わたしに専門性のあるところですが、不思議です。
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この回答へのお礼

>私にはあんまり矛盾が感じられないんですよ
>命が失われることに苦しみが付随するというのは何なのだろうと思っています

この二つはどのように架け橋されるのですか。

お礼日時:2008/09/01 00:42

生命は、何ものにもかえがたい、大切なもの。


それと、他者の命を奪うのとは、別の問題だと思います。

権力を握った人の多くは、その魔性に取りつかれて、自分が他者の生殺与奪の権利を持つことに、酔ってしまうのかも知れません。
また、権力者は、より多くの富などを得ようと、他人を傷つけるんだと思います。歴史って、その繰り返し。

ただ、現在は、あまりにもモノが氾濫して、精神性が薄れて、倫理や哲学が軽視されて、普通の人が 簡単に人を殺してしまうようです。

私も、害虫とかを、殺しますが、たまに、これで良いのか?と思うこともあります。、、、すみません、書いてて、だんだん解らなくなりました。あなた自身が、もっと いろいろな経験をして、肉親の死にあったり、生きる喜びを知ったりしたら、観念でなく、本当の意味で、解ってくるのでは、ないでしょうか?
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この回答へのお礼

>それと、他者の命を奪うのとは、別の問題だと思います。
>私も、害虫とかを、殺しますが、たまに、これで良いのか?と思うこともあります

私もちょうどこういう感じなんですよ。
この2つの思いを結ぶことができればいいのですが。

お礼日時:2008/08/29 23:44
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