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他人の命を奪ったら 自分の命で償うのは 当然と考えるのは 私だけでなく、日本人の多くがそうだと思います。
しかし、死刑反対の人は 命を命で償うこという 私たちが至極当然だと見做していることを どのように解釈しているでしょうか? どのような不条理があるとお考えでしょうか?
私と同レベルの愚かな同調意見は不要です。聡明な反論をお待ちしております。

A 回答 (16件中1~10件)

他人の命を奪ったら 自分の命で償、、つまり目には目を、、、の考え方は、まったく時代錯誤だと思います。



泥棒されたら、泥棒仕返してよいのいか。
障害で手を失ったら、加害者の手を切ってもよいのか、、。
これらは、残虐な行為であって、被害者の失ったものはそのままです。
これでは恨みに恨みがつのる「し返し」であって、建設的ではありません。

泥棒されたら、失った額の変換を求めるべきでしょう。
手を失ったら、例えばそれまでの仕事ができなくなり、そのことによって失う障害所得の弁償を求めるべきでしょう。

失ったものを、なるべくもとに戻す行為、これが「償い」です。
償いと、仕返しは、厳しく区別されなければなりません。

結局No3さんの回答のとおり、死刑は犯人から償う機会をうばう、残虐行為に過ぎません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>他人の命を奪ったら 自分の命で償、、つまり目には目を、、、の考え方は、まったく時代錯誤だと思います。
確かに 人の命を チェスのクイーン交換みたいに考えてはいけないかもしれませんね。

お礼日時:2014/07/05 00:03

他人をぶっ殺したらダメなんて嘘。


ぶっ殺されたくない奴が法律つくっただけ。
人間は他の生物ぶっ殺す毎日毎日。
蟻なんか、生きる価値すらないのかもしれない。
生物的には共食いはオッケー、それどころか必要不可欠。
だから人間も必要なんだよ。
軟弱で弱虫で雑魚のくせに口だけはパクパク開いて調子に乗って。
これまで弱肉強食の世界だった。
これからもそう。
だから本来人殺しはオッケーなはず。
倫理だの不条理だのほざく奴らは潰せばいい。
俺ら人間が踏み潰してる蟻みたいに、喰らいつくしてる牛みたいに、毎日轢き殺してる猫みたいに、劇薬でころすゴキブリみたいに。
そうさ、雑魚が勝手に法律をつくった。
自分が助かりたいから。
覚えときな、俺らは生かされてる、世界の武闘家に、暗殺者に、軍人に、警察官だって銃でいつでも誰でもどこでも俺らをぶち殺せることを。
そんで、回答としてはね、そもそも命を奪うことが罪ではないから、償う必要がねえのさ。
だから死刑か否かは論外よ。
まあ、今の世界は、特に日本は喧嘩でさえ許さないクソ虫世界。
なんでか?
決まってる。もはや共通概念としてガキの頃から催眠みたいに聞かされる。繰り返される。倫理、理性、思いやり、その他云々。反吐がでる。
文科省、つまり国が作り出した教育という名の集団催眠にかけられた俺たちは思考を制限されている。
だから気づかない。法律なんて法律家に、国に、政府に都合良く創られたただの鎖。
俺らを支配する鎖。気づかない普通のやつは。だから考えられない。簡単なことに。
人間同士が殺し合ってもいいことに。
何を今更。俺らの先祖は殺し合いで生きてきた。当たり前だったのさ。
真の回答は、殺し合いオッケー➡︎罪になるわけない➡︎そもそも人が人を裁くことは神に反している➡︎償いなんて必要ない➡︎死刑こ否か関係ない➡︎質問者さんの質問は成り立たない。
ってことになります。
以上です。
まあ俺の理論、ガキの頃から心のノートだの道徳などで一般化、つまり鎖にすら気づかないやつには理解できないかな
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 「人を殺したら必ず死刑」ならともかく、殺した数とか残虐性とかそういうのを結局かんがみたうえでその人間が死刑に値するか否かをきめているわけですよね。

「他人の命を奪ったら自分の命で償う」が完全に日本人(あるいは人類)に共通の認識だとするならば、そういう客観的な数とか事実のみで死刑は決まるべきです。ただ、実際には「情状酌量」とかその人の生い立ちとか、遺族の希望とかが複雑に絡み合って死刑にするべきかどうかというのは決まるんです。それを決めるのは結局は裁判官や検察官あるいはそもそもの法律や「判例」を作っていった社会に過ぎないんですからはたして誰に特定の人間の死を判断できるかというのが本当の意味で難しい問題なんじゃないかということです。

 仮に死刑を一律に決めるとすると、これはまた問題も含んでいると自分は思います。第一統計学的に殺人犯(あるいは死刑囚)ってのは少なくともあまり幸せな家庭じゃなかった人が多いのは事実だと思います。あるいは、どこでそうなったかわかりませんが、少し考え方や性格に癖のある人が多いのも事実で、突発的な出来事で殺してしまった場合はともかくとしても社会に不適合者とされる人間が多いのが事実でしょう。実際「殺人罪」としては計画性が認められる=つまり理性をもって殺人に至った度合が高いほうが罪が重いとされますよね。このことからもわかるように、人間ってのは感情的にやってしまったこととかそういうものに対しては多少なりとも情状酌量の余地があるんじゃないか、という前提があると思います。では、逆に計画的に殺すことをいとわない人間が生まれるというのはどういうことなのか?というのが死刑の広い意味での倫理観になってくるかと思います。

 細かい死刑賛成、反対意見に対する倫理観はいろいろありますが事実国際的な動きとしては多くの先進国ではどちらかというと死刑をやめようという動きのほうが大きいです。一方死刑を積極的にやっている国ってのはどちらかとうと発展途上の国が多いです。アメリカは州によって度合が違いますけど。ただ、裁判員裁判も始まりましたが、そもそもある犯罪者が何をもって死刑とすべきなのか、そしてそれを判断するだけの権限を持つ人間はいかにしてそれを決められるか、というのは簡単なことではない気がします。単に「性格がゆがんでいて、人を殺したから救いようがない人間」を死刑としてみんなは平和に暮らせばいいとするならば、それが日本人の今の社会での倫理観なんでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/07 17:46

死刑が執行されるとその執行官には手当が出るらしいですね。


昔テレビで見たんですがある執行官がその手当が出るたびに自分の子供におもちゃや勉強机を買ってあげたそうです。
後日、その子が自分のそれが死刑執行時の手当で買ったものだと知った時、全部自分の部屋から庭に放り投げたとのことでした。

私はその話を聞いて以来、そのボタンを誰が押すべきか気になるのです。
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>死刑囚Aの執行ボタンを死刑囚Bが押すんです。



ですから死刑囚Bはそのボタンを押さないはずです。
なぜなら死刑囚がボタンを押さなければ誰の死刑も執行されないという暗黙の了解が出来るはずだからです。

>「極刑」または 「執行猶予つきの死刑」ということになりますね。

結局それは死刑廃止のことじゃないですか?
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この回答へのお礼

やっぱり、これが日本人の国民性じゃないですかね。
つまり、日本人の大半が死刑に賛成しているものの、いざ、死刑の執行側に直面すると踏みとどまるというか・・・・

お礼日時:2014/07/06 19:45

#11


>他の死刑囚の執行ボタンです

誰も押さなければ無期懲役になるのですから自分の時の為にボタンは押さないでしょうね。
すると裁判所の判決が死刑囚または遺族によって覆されることになりますね。
法治国家ではなくなってしまいますね。

この回答への補足

>誰も押さなければ無期懲役になるのですから自分の時の為にボタンは押さないでしょうね。
だから、死刑囚Aの執行ボタンを死刑囚Bが押すんです。

>すると裁判所の判決が死刑囚または遺族によって覆されることになりますね。
裁判所の判決は 単なる死刑でなく、「極刑」または 「執行猶予つきの死刑」ということになりますね。
それを言うなら、集団的自衛権に関する憲法解釈の方が無理がありますよ。

補足日時:2014/07/06 18:15
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#10


殺人犯が自らそのボタンを押すでしょうか。
遺族は必ずそのボタンを押すでしょうか。
誰も押さなかったら無期懲役?
そうなると事実上死刑は廃止になりますね。

この回答への補足

>殺人犯が自らそのボタンを押すでしょうか。
他の死刑囚の執行ボタンです。

>遺族は必ずそのボタンを押すでしょうか。
誰も押さなかったら無期懲役?
遺族が土壇場でボタンを押すのを思いとどまることもできます。その場合は死刑は免れることになりますね。

補足日時:2014/07/06 09:51
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誰がその死刑執行のボタンを押すのか・・・


刑務官という他人がそれを行うことは道理に反しないのか
あなたならそのボタンを押せますか。

仕事とはいえ人を殺すことに変わりはないですね。
赤の他人にそれを行わせる不条理というのはあるでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>誰がその死刑執行のボタンを押すのか・・・
遺族にボタンを押させるとか・・・・
もしくは、死刑囚同志が押すとか・・・・

お礼日時:2014/07/05 20:15

同じことをされたから、同じことをし返したい、いや、それ以上のことをしてやりたい。


復讐ということですが、被害者のその気持ちは、被害者と同質の経験をしたことのない第三者ですら抱く気持ちです(共感性が高い)。

しかし、実際、被害者当人が同じことをし返したとしても、自分も同じように傷つくと思います。

誰かを殺すこと、傷つけることは被害者にとっては現実のものではない(だからこそ、ある意味被害者となったわけですが)。
もしも加害者と同じことをやれと言われたら、相当のエネルギーやストレスを抱え、繊細な者なら自我の危機に陥るかもしれません。だから復讐というのは、加害者と同じレベルかそれ以上でなければできない。すれば加害者が被害者にした罪を、今度は被害者が被る。

死刑は法が決めます。
それは個人的な復讐は許されないという、暗黙の了解を強いられていることでもあると思います。

誰かを復讐したい人間にとってすれば、それは自らの犯罪を招くことになるため、否応なく我慢している人も多くいるでしょう。
もし、秩序というものがなくなれば、大きな戦争の前に個人的な戦争がそこらで繰り広げられると想像するのですが。
でも、それは加害者への攻撃性が彼よりも強く、罪悪感を抱くことなく、復讐を満たすことが目的となり、葛藤がない人間に限られると思うのです。
健全な人間は、自分がやられたことを他人にはできるだけしないということを考えることができます。

こういう事例があります。過去の大きな大戦では実際に人を殺した兵士は少なかったという研究発表がありました。射撃する際も、わざと相手から逸らすようにしたという帰還兵の証言があります。また帰還兵のPTSDは多く知られているところでしょう。
その理由として、人間が人間を殺すということに大きなストレスを感じるからだそうです。なるほどなと思いました。

死刑執行の許可も、現職の人々がやらなければならない。でも日本でなかなか死刑が執行されないのは、自分が生きているあいだ、執行にゴーサインをだす人間は自分の手を汚したくないから(つまり死んでからも後味が悪いとういことでしょうね)だそうですが、私はこの話を聞いたとき、それが本当ならまじめに考えろと腹がたちましたが。

でもこれも、上の戦争の例と同じで、やはり人間は同胞を殺すのに大きな抵抗があるのでしょう。

私は犯罪者が犯罪者になった心理的、環境的な背景も考えなければ、根本的な解決にならないと思うのです。でもその葛藤をテーマにした小説や映画になるのは、それだけ普遍的なテーマだからでしょう。

私自身、復讐を考えなかったこともありませんが、実際自分がする復讐のことを考えると、復讐を果たしたとしても、そのあとに、大きな自責の念、罪悪感に襲われると思うのです。その前にできない。そういう意味でも、私は自分以外の人間に対する同一視や共感というものが否応なく強いと思ってます。

ですから法というものは、絶対的に必要でありながら、当事者や関係者にとってはおせっかいなことかもしれません。ましてや、誰がどう考えても相応の刑以下にされてしまう場合もあるとき、二次災害といってもいいと思うのです。

蛇足ですが、裁判官などは、上位の裁判所に、自分の考えを査定されるそうです。ああだこうだ言われるのがいやだから、過去の事例に従うということを、知り合いの、法の専門家に聞かされました。
過去に事例のあるなしで、犯罪の該当性や罪の重を決めることにずっと大きな疑問をもっていましたが、そういうことだったのです。

要は紙の上のこと。
世間知らずの無罪病の裁判官が、テキスト片手に人の人生を決めているってことですね(怒)。もちろんまじめな裁判官もいますけれど。

こういう真摯さと、いい加減さを考えたとき、私刑と死刑の重みも違ってくると思いました。

死刑に値するような罪に相応の刑がない場合も、不条理。
刑があったとしても、無罪病の裁判官なら、無意味。また冤罪の場合、取り返しがつかない。
いずれにしろ、所詮、罪と罰も人間が決めるのですから、罪(犯罪者)に対する裁判関係者が相応の場合、不合理の場合がありますが、それはもう巡り合わせ、というしかないですね。

まじめに犯罪者と向き合い、犯罪者自身も罪を自覚し、反省する。まあ理想の世界ですけれど。
死刑制度があってもよいが、それを使う重みを考えるべきだと。これもまあ、理想論かもしれませんが。
「死」は(私個人にとっては)昇華です。
ですから双方が真摯に向き合い、葛藤し、考えるという態度で対峙したときに限り、死刑による罪も罰も真に許されるのではないか、と思うのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/05 13:09

私も死刑肯定派ですが、私の身近な人に死刑は反対、と


言った人がいます。

仲の良い人なので、あえて議論にならぬ様に訊いて
みたのですよ、同じような質問を。

すると、意外な答えが返ってきました。

「この社会に、命を奪われる、というルールがあることが
怖くてならない。」

と言うのです。

その人は、普通の聡明な大人ですので理性的な思考を
普段からしているし、色んな面でルールや社会規範を
きちんと守ることを大切なことだと考えているタイプ。

自分が何か死刑になる様な悪いことをする訳じゃないのに
何故、縁もゆかりもない他人、それも冤罪の可能性がゼロの
極悪人が死刑になることを、何故、怖がるのだろう?

しばらく、一人でずーっと考え続けてきました。

未だに結論など出ません。 出る筈もありませんが、最近、
理屈ではなく、どうも感情的な、人格の根本部分を構成して
いる、心の骨格に理由があるのではないか、と思うように
なってきました。

理屈で、加害者の人権を優先させたりする不条理な考えを
持つ人、私にとってエイリアンのような人は確かにいますが、
寧ろ、普通の喜怒哀楽を持ち、普通に悲惨な目に合った人を
可哀想だ、何とか助かれば良いが、と案じることが出来る
メンタリティの人が死刑反対を唱えるのは、この「怖いルール」に
対する、シンプルな恐怖感なのかも知れない、と思うように
成って来たのです。

それだけ、法律やモラルといった社会の秩序を、私よりも
ずっと大切なものとして重んじているからなのかも知れない。
その人は、公務員だし。 元々そういう、ルールに従う意識が
強いのかも、知れません。

翻って自分の死刑賛成の気持ちを覗き込んで見ると、どうも
私は社会の秩序とかルールに対して、深い所で不信感や
個人より集団を優先させる「社会」というものに対して、
安心して自分を委ねられる世界ではない、と不安を抱いている
ようなのです。

だから、被害者やその遺族よりも加害者の人権を尊重する
法の考え方や社会の仕組みに対して強い憤りを感じるし、
そんな社会は造り直さなきゃだめだ、と危機感を感じるのですが、
その人が訥々と語る言葉を聴くと、とても現実主義的な人で、
自分が出来る事、出来ない事を極めて明確に捉えています。

だから、社会に属さなければ生きていくことさえままならない。
不完全な社会ではあるけれど、それを信じて身を委ねて
行かねば、生きていくことさえ、難しい、ということを強く感じて
おられるようなのです。

強いて言えば、どんな欠点だらけの親だとしても、その親に
守ってもらって生きていくしかない子供達の感覚、とでも
言えば彼女の感覚に近いでしょうか。

確かに、自分の父親が、「俺が許さないと決めたら、我が子でも
殺す!」と宣言されたら、そりゃ・・・怖い・・・。

理屈抜きで、自分が殺される理由など無いことも百も承知で、
恐ろしいですね。 それなら、判る気がするんです。

今回書かせて頂いたのは、死刑反対派の中の、ごくごく普通の
一般女性の見解について私なりに模索した仮説でしかありません。

でも、死刑存置の是非に限らず、この世にはお互いに「どうして
こんな当たり前のことがこいつには理解できないのだ!」と
互いに主張し、いがみ合う問題が数多くありますが、実は同じ
言葉で同じ論理テーブルの上で闘っているのではなくて、

「あたしは幸せな家庭をあなたと築いていきたいの!」

「僕は君だけを愛さなきゃならない息苦しさに耐えられないんだ!」

というくらい、言語明瞭/意味不明な別な会話なのではないか。

そう思ったりします。

死刑賛成派は事件と法律を繋がったものであり、一体として
考えなければ法の意味が無い、と捉えるのに対して、反対派は
事件は事件、法律は法律、と別々に分けて考えているような
不思議な手ごたえの無さを感じるのです。

私は意見としては死刑存置に一票を投じますが、死刑反対派に
「理解できない、許しがたい!」と拙速に思わずに、しばらく彼らの
言い分を、「自分がそう主張するとしたら、どんな理由なのか?」、
自分なりの言葉に翻訳しながら、この問題について考えて行こうと
思うようになりました。

考え方の違いを埋めることが出来なければ、その話題を蒸し返さずに
閉まっておけば良いだけの事なのですが、大好きな人が、自分が
憤るものに対して、必ずしも怒らないという「理不尽」な感覚を、
何とか乗り越えたいと願うからです。

やっぱ、仲良くありたいじゃないですか。

その為には、理解しようとする努力を自分に科さないと。

と、思っております。

ご参考までに。

(聡明な学術的見解ではないことを御許し下さいにょ)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

関係ないけど、例えば 殺人を犯した 末期癌患者が判決前に病死したらとか、
もし、日本でも安楽死が認められても 死刑囚は例外にするのか、
また、もし、死刑囚が重病にかかったら 医師はそれでも 医師の倫理として 治療すべきかとか、
トリアージの問題、その他、「生」の問題を考えると難しいですね。

お礼日時:2014/07/05 13:05

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