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「カールの戴冠」の意義とは。
これについて宿題が出たのですが、教科書に詳しく書いていなくてネットで調べ私なりにまとめてみました。間違っているところなどがあったら教えてください。明日までにやらないといけないので早めの回答お願いします。

聖像禁止令等を契機に表面化し東西教会が対立していたローマ教会は、政治力に優れていたカール大帝に西ローマ皇帝という世俗の最高権力をローマ教皇が与え、ビザンツ帝国に対抗できるよう西ヨーロッパの政治的安定とローマ帝国・ローマ=カトリック・ゲルマンの要素が融合した文化の成立。ローマ教会が東方教会に対抗できる地位を獲得するため。

A 回答 (2件)

回答がある意味難しい設問ですね



既出回答が長い文章で回答していますが、大学入試レベルでは、及第点には到底達していません

その理由は簡単で、
”カール大帝の戴冠”について、政治史の視点だけでしか論説できていないことにあります
併せて、”カール大帝の戴冠”によって過去のローマ帝国の肖像が崩壊した後の、意味・意義が論説されていないのですから、片手落ちではなく、両手落ちというしかありません
予備校レベル・大学入試レベルでも及第点に達することはない回答ですが、おそらく手抜きで回答したのでしょう(予測に過ぎませんが)


さて、直接的な回答は避けるのが適切なのでヒントだけ

世俗的権力と権威の紐帯関係への進化
ローマ人とゲルマン人の関係進化
新しい西ローマ(帝国)社会肖像への飛翔
プレ・ルネサンス(カロヴィング・ルネサンス)の隆盛
ローマ法統治の再認証
名目的ビザンツ支配からの分離

これらを整理して回答すれば、問題ないでしょう



ちなみに、質問者の回答は間違っていませんが、十分ではありません。通じにくい文章になっていますがね


参考までに
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知っている単語を並べただけでは文章にならないし、宿題の回答にもなっていない。



西ローマ帝国の滅亡によって西ローマ皇帝の軍事的庇護を失った西方教会は、東ローマ皇帝に税金を納めて、東ローマ皇帝の軍事的庇護を得ていた。ところが東ローマ皇帝レオン3世による聖像禁止令を切っ掛けに、西方教会は東方教会・東ローマ皇帝との決別を決意せざるを得なくなってしまった。ところが東ローマ皇帝の軍事的庇護を失うとランゴバルド王国に圧迫され領地を奪われるといった事件が起きた。そこで困ったローマ教皇が新しい軍事的庇護者として目をつけたのがフランク王カールなのだ。フランク王カールはローマ教皇の期待に応えてランゴバルド王国を滅ぼしてくれたのだ。ここにフランク王カールとローマ教皇の悪の二人三脚が成立します。フランク王カールは西方教会の庇護を名目に軍事遠征を続けてフランク王国の領土拡大に成功し、ローマ教皇はフランク王カールの軍事的庇護を得て東方に影響されない経済基盤を獲得することができたのです。こういうWin-Winの関係がフランク王国とローマ教皇の業務提携の意味です。

この世俗的権力と宗教的権威の相互的業務提携をカール一代だけで終わらせずに、今後も恒久的に続けましょうというセレモニーが「カールの戴冠」の意義なのです。ローマ教皇に西ローマ皇帝という名目を与えられたことでフランク王国は東ローマ帝国と対抗できるだけの世俗的権力を手に入れることができた。ローマ教皇は、フランク王国の軍事的庇護を得たことで東方教会に対抗し、後のローマ・カトリック教会につながる宗教的権威を手に入れることができた。そういうgive&takeの関係を確定させたのが「カールの戴冠」なのです。

とはいいながら、カール大帝の後継者が西ローマ皇帝という冠位の意義と価値をどこまで理解していたかは少々疑わしい。しかしながら西ローマ皇帝が非キリスト教社会への軍事的侵略を正当化できる大義名分を得たことは、非キリスト教社会にとっては大変な脅威だったわけです。それがデンマークやイギリスなどの非フランク王国などにキリスト教が広まっていった理由です。非キリスト教だと軍事的侵略を受ける。キリスト教に改宗すれば軍事的侵略を受けない。どっちが得かよく考えてみよう。そうしてヨーロッパ全域がなだれを打つようにキリスト教一色になってしまった。それはとりもなおさずローマ・カトリック教会にとっては新しい信者の獲得につながり、東方を圧倒する経済的基盤を獲得することになるわけです。

キリスト教が非キリスト教世界に対する軍事的侵略を正当化するという命題は後の十字軍や、レコンキスタに活かされます。十字軍もレコンキスタもイスラム勢力に奪われた旧ローマ帝国の版図を取り戻す運動という意味では同じです。ローマ教皇が十字軍もレコンキスタも正しいことなんだ。それは神の御心に叶うことなのだと信者を勇気付け、励まし、激励したことがキリスト教世界の拡大につながるわけです。

話を少し広げすぎたかもしれないが、質問者さんが宿題を解決する為には、質問者さんの言葉で、世俗的権力と宗教的権威のgive&takeの関係をうまく文章で表現していただきたいのです。

宿題にとらわれず、キリスト教が果たしてきた役割を理解することがヨーロッパ史を理解するコツでもあります。

おっと大事なことを書き漏らしてしまった。ローマ教皇がレオン3世の聖像禁止令に従えなかった理由も説明しなければなりません。それまでローマ教皇は、モーセの十戒によって偶像を禁止されていたにもかかわらずゲルマン民族にキリスト教を布教する都合で、偶像を強引に聖像と言い換えて布教を推進していました。蛮族のゲルマン民族にキリスト教を教えるためにはどうしても偶像の力を借りる必要があったからです。西ローマ帝国の退潮と滅亡によって西ローマ帝国領内にゲルマン民族が侵入してしまった。ゲルマン民族にキリスト教を布教することが西方教会が生き残るためには絶対命題となりました。そういう経緯があったので、ローマ教皇としては絶対に聖像禁止令を受け入れることができなかった。受け入れてしまえば、ローマ教皇の権威を否定することになってしまいます。それに対して東ローマ帝国領内にはゲルマン民族は侵入できなかった。だから東方教会は何の問題もなく聖像禁止令を受け入れることができました。結局のところ、そうして聖像禁止令が東方教会と西方教会が分離してしまう切っ掛けになったのです。東方教会はローマ教皇の権威を認めず正教会として独自の発展を遂げます。

教科書には書いていないかも知れないが、中世ヨーロッパ史の流れはざっとこんなところです。(了)
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