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江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか?

農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。

A 回答 (9件)

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。

これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90% …
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9% …
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8% …
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

大変参考になりました。

お礼日時:2012/09/27 14:14

江戸時代の課税は「資産税」となります。


※ 農民への課税も、定免法(毎年一定の納税)と考えれば、土地という資産への課税とも考えられます。

江戸時代から続くような街並みでは「ウナギの寝床」と言われるような細長い土地割で町家ができています。
これは、間口に対して課税されていたためで、課税を減らすために間口を狭く、奥行きを広くとなっています。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zuset …
福井県の福井藩と小浜藩の財政
福井藩は農業中心だったので、本年貢中心。
対して敦賀港という商業拠点を持っていた小浜藩は「米や荷物を運ぶ馬に課された駄別・沓代など流通への賦課をふくめると小物成は23%」というように、馬に対して課税しておりました。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kensh …


http://www.viva-edo.com/jiti.html
長屋の住人は資産を持っていないので、納税しません。
資産を持っている地主からの「幕府への上納金」として税が徴収されます。

農民も地方によっていろいろなので、農業先進地域である大坂付近では、農民は換金作物を中心に生産していたので、時代によって
米を納税(換金作物を作る前)
米相場から米を買って納税(換金作物に転換後)
直接金納しちゃう
というように変わっていきます
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

間口の広さで決めていたとは・・何か妙な基準ですね。

お礼日時:2012/09/27 13:59

日本において、所得税・住民税のような収入に応じての税が課されるのは、明治20年の所得税導入からで、西南戦争よりも後の出来事です。



それまでは、基本的には土地に対しての税が中心でした(一応、酒税などもありますが)。

町人に対する税としては、人足を出させる公役(後に銀納になった)などがありますが、これも土地の広さに対していくら、という形の税でした。
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武士にとって商売というのは「汚れたもの。

けしからんもの」という扱いです。なぜなら、農民は汗水たらして作物を作り、職人も汗水たらして品物を作りますが、商人はそのできた物を右から左へ運ぶだけで儲けをするからです。まあこれは古今東西、中国以外のどこでも変わらず、特に不労所得である金融業はかつてヨーロッパでは蔑まれてユダヤ人の生業となり、現代でも中東諸国では銀行が金利を取ることは「イスラムの教えに反する」と禁じられています。
ですので、江戸時代の身分制度では士農工商と、商人が最下層の扱いとされたのです。ゆえに、その商人の商売からあがりを取るということは、「いやしい商人とやっていることが同じ」ということになってしまいます。
ので、江戸時代の税制では儲けによる累進課税というのはありませんでした。つまり、商人は儲ければ儲けるほど儲かるという図式だったのです。江戸時代の豪商が大名をも上回るような資金力を持っていたのも、なんとなく理解できますでしょ。
その代わり、他の方も回答しているようになにかと理屈をつけられては表に裏に(賄賂も含む)お金を取られたのです。いざとなったら幕府は「贅沢しやがってけしからん」という理由で取り潰すこともできました。ただし、そんなことをされたら困る大名も大勢いるので幕府といえどもおいそれとは手が出せません。

また、各藩では特産物を売るために藩お抱えの「御用商人」を使うことで、商売を半分公共事業みたいにしていたんですな。御用商人というと悪い家老と結託して悪徳三昧というイメージですが、特産物を藩が命じる値段で買い取らせることによって価格を安定させ、農民の生活を安定させるというメリットもありました。現代で同じことをやってるのが農協ですね。
御用商人は藩の威光をバックにすることで莫大な利益を独占できるわけですが、その代り、藩から「金を貸してくれ」といわれたら断れないわけです。幕末の戊辰戦争で薩摩や長州に軍資金を提供したのがこれらの御用商人だったわけです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

なんやかんやで生産者より商人が一番儲かる社会というのは、現代もちょっと同じですね・・。

お礼日時:2012/09/27 13:56

江戸時代の年貢は現代風に言えば所得税ではなく固定資産税です。


つまり土地(田・畑・屋敷)に対して賦課され、その所有者が納めます。
長屋に住んでいる八っつあんや熊さんは借家に住んでいるので自身では払いません。地主が家賃収入の中から納めました。
小作農は地主の土地を耕作しているので自身では納めません。地主が受け取った小作料の中から納めました。
武士は一般に江戸市中に上屋敷や下屋敷を持っています。これらの土地は幕府が貸してくれますから年貢はかかりません。しかし一部の武士は抱屋敷というのを所有していました。これは私有地ですので屋敷年貢を納めました。
年貢はしばしば四公六民といわれ収入の4割が年貢だったと説明されることがありますが、これは間違いです。四公六民とは土地の評価値(「高<たか>」という)の4割が年貢という意味です。実際の年収に対する割合としては10~20%程度だったようです。(地域や時代によっても違うでしょう。ちなみに小生の村は八公二民で、年収の約15%でした。)

町入用(農村では村入用)は町(村)を維持するための費用です。例えば庄屋の事務経費(筆・紙代、飛脚代)、道路の補修費、田の水番の人件費、年貢を納めるための米俵の製作費、年貢の運搬費などがこれに該当します。年貢は領主に納めるだけなので村入用は別に集めます。私の村では年貢の半分程度の金額になっています。かなりの金額ですからさぞ農民は苦労しただろうと思われますが、そうでもなかったようです。というのは、これらの仕事をすると全て日当が出ました。仕事をするのは農地の少ない貧農が多く、彼らにとっては良い収入になったのです。また費用の負担は地主が土地の所有量に応じて負担したので、簡単に言えば富裕層から貧困層にお金が動いたのです。また村から外に出る金額は少なかったので村全体から見ると大きな負担ではなかったのです。
また溜め池を作るなど大工事には領主からも費用が出ました。これは村人にとっては格好の収入だったわけですが、庄屋はこのような事業を計画して費用をもらってくることも大切な仕事だったようです。

以上、年貢についてだけですが、ご参考になれば幸です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

成るほど、固定資産税ですか。

なんやかんやと名目つけて小銭をかすめて行く現代より、江戸の方が判りやすくていいですね。

お礼日時:2012/09/27 13:52

村請 庶民が納税する仕組みは、ほとんどなかったのではないでしょうか。



 年貢は、村の役人が責任者です。いわゆる村請制です。

 町場でも、大きな商店や地主など有力者には冥加金など科せられることがありましたが、長屋に住む庶民にはかかわりのない仕組みでした。酒税やたばこ税があれば、間接的に課税されていたかもしれませんが。

 なお、労力奉仕という形で役務を提供することはあります。
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すでに運上・冥加が出ていますね。


特に生糸の糸割符仲間が有名なのですが、江戸時代は多くの商品について一部商人に依る専売制を認め、専売を許した商人から運上金として税を払わせます。
他にもいろいろなところに専売制を敷き、そこから税をとっていたわけです。
(近代でいうと専売公社とタバコ税のようなもの。)
一般人は特定の物を買うとき特定の商人から買わざるを得ず、その過程で高い税を納めるようなものです。

信長秀吉は楽市楽座に積極的でそこで商業を振興させて売上税をとる方式と比べると、非常に中世的で徳川政権の封建的特徴の一つだと思います。
原始的で古い方法ではありますが、まず税の捕捉ができない場合とりやすいところからとれる、事務的に楽といった特徴があると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

成るほど、JTみたいな感じですね。

お礼日時:2012/09/27 14:07

いいえ。


基本的に町民には税負担はない。

まあ、お金持ちになったり株仲間になれば、運上金とか冥加金という形で金銭の上納はしていたが

大工の熊さん、左官のはっつぁんには関係の無い話

ナノで、商品経済化が進む江戸後期に向かうに従って幕府も各藩も財政は厳しくなるばかり
家臣への俸給を減額したり、商品作物の専売化や密貿易によって財政再建をする事になった。
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江戸時代の税金は「年貢」です。

年貢は農民だけで江戸の町人に年貢はありませんでした。とはいえ全く町人に税金が無かったわけではなく公役、国役といった税金や税金ではありませんが町入用といいう自治会費を支払っていました。また商人には冥加金、運上金、御用金といった税金が課せられていました。もっともその税負担は農民に比べればはるかに軽かったようです
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