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お百度参りについて教えてください。
先日入院する母を元気づけようと「お百度参りしてきたから大丈夫!」と言いました。
でも後々考えたら願掛けと同じで叶うまで言葉にしたら御利益ないのでは?と思えてきました。
とはいえ、お百度参りをしている姿を見られている時点で他言しているようなものである気がするのですが…
正しい作法ではどうなのでしょうか?
口にしない方が良いのであれば改めて神社でやり直そうと思っています。

A 回答 (2件)

話したからご利益が無くなるというものと話しても構わないものとがありますけど、お百度はどっちなのかというのはあまり言い伝えられていません。

(最近の心霊番組やうわさなどは別ですよ。そんなものはデタラメですから)

ただし、神様に誓って祈願する行は多くの場合「陰徳」を積むことに意味があります。
徳と言うのは「得」でもあり、これは他人に対する布施行為です。しかも陰という字がつくのですから人知れず行うという意味があります。

またこれは結構難しいことなんですけれども、神への祈願は結果を得られるかどうかは別なんです。神への祈願は寺で行う祈祷とは異なり、見返りを願っても望まず、結果をすべて受け入れることが大切です。
人に見られるということは別段関係ありません。よく呪いの儀式で人に見られると効かないとか自分に戻ってくるといわれますけど、実際にはこれも関係ありません。なぜダメなのかといえば、そこで精神の集中が途切れるからです。だから実際に見られていなくても「誰かに見られるのではないか」とか何かの物音に「見られたのではないか」と感じた時点で集中が途切れていて無効になります。
見られるということと自分から発する事は別次元で、自分から発したということはその時点で見返りを求めたことになります。
よく「お願いしたのに叶わなかったから神などいない」という人がいますけど、それは神を下僕と考えているから。例えば会社の社長に「給料上げてくれ」といって給料が上がらなければ社長なんて役立たずだと考えるでしょうか。
願った時に結果を求めていないとしても、他人に「社長に言ったから上がる」と話せば、その時点で社長に枷をはめたことになり「上がらなければ社長は役立たずだ」と言っているに等しくなります。神も同じ。
ただし、今回の場合、励ます気持ちから伝えた訳ですからこれとはケースが違うともいえます。
つまりご利益が得られないというわけでもありません。でも陰徳が陰徳でなくなったのも事実です。

だから人に話したから無効になり、やり直さねばならないということはありません。得と言うものはやがて大きくなって自分に戻ってきます。それが多少目減りするという感じで理解してください。

ちなみにお百度というのは一度やればいいというものではありません。マジナイではないのです。
本来の「百度」はたくさんという意味で回数ではないのです。
その後も簡単に言えば「百回を1セットとして、満願まで続ける」と考えてください。
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この回答へのお礼

なかなか奥深いお話で、考えさせられました。
初めてのお百度参りだったので知識のないまま行ってしまいました。
お百度参りはまた時間を見つけて行こうと思いますが
また違った気持ちでやれそうです。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/10/11 14:33

裸足でとか誰にも見られずとかいろいろありますね。


ただね 目的は「入院している母を元気づける」ですよね? まさかお百度で病気が完治するとかじゃないでしょ
お百度をするって行為やその決意とかやさしさが相手に伝わるかどうかだと思いますよ。
もしなにかお話することがあればお百度をした神社の宮司さんとかに聞いてみてはどうでしょうかね

100回も往復してその人の快気を願うってことが重要なんですよ それだけその人のことを思っているってことですからね
あの流れ星を見たら3回唱えればかなうってのと同じ 物理的に不可能な時間なんですが
流れ星を見つけたときにすぐに出てくるぐらいずっと思っているとかなうって意味ですからね
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この回答へのお礼

お言葉に救われた気がします。
祈りの気持ちを忘れず、大切な時間を過ごしていこうと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/10/11 14:36

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