1つだけ過去を変えられるとしたら?

大阪在住の父は17歳で兵隊に徴収され、8月9日に長崎へ到着直後に被爆しました。

先日、父が被爆した地、またその際訪れた地へ行ってみたいと口にし、
インターネットで色々調べてみたのですが、該当するものがなく
こちらで質問させて頂きます。

父から聞いた情報としては、既に申し上げているもの含め次の通りです。
(記憶違いもあるかもしれませんが、、、)

・大阪で8連隊に入隊し、8月9日に長崎に到着した
・「久保町」といった土地を記憶している(〇久保とか、前後に何かつくかもしれません)
・到着後、学校(父は久保小学校と言う)らしき建物で休憩しているところ、原爆が投下された
・爆心地から近距離である

父自身に根ほり葉ほり聞くとなると、辛い記憶も辿る事になるので、
なんとか私が情報を集めて、連れていってやりたいと考えています。

何かご存知の方、またこういった内容を詳しく教えて頂ける連絡先をご存知の方
いらっしゃいましたら、ご回答下さい。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (5件)

すいません、NO.4です。

調べ直したところ一部間違いがありました。

軍歴表→兵籍簿です。

で、これはどこで管理しているかというと、お父上の「当時の」本籍地の「都道府県」だそうです。
ですからこれだけは聞いていただかないと調べようがないです。
もう一つは、多分、本土であったので大丈夫だと思われるのですが、実は、兵籍簿自体が「ない」という方がいるんです。一応復元したりしてはいるらしいのですが、完璧ではないらしいです。というのも、例えば、南方などに出征していて、その兵籍簿を乗せた船が撃沈された場合などは、存在しないことがあります。船と一緒に沈んでしまったという最悪な事態ですが。今回の場合、原爆で一緒に燃えてしまった可能性があります。ですので…もしかすると…残念なことに。

さらに、申請できる人は「本人」または「遺族(配偶者または三親等内)」だそうで、今回の場合は遺族には当たらないので、お父上に直接申請してもらうか、代理で書いて、「お父上の署名捺印」、それと「代筆者(質問者様)」が「代筆」と書いた上で署名捺印する必要があるかと思われます。ただこの辺に関しては、その兵籍簿を管理している都道府県に聞いてみるしかないかと考えられます。(都道府県によっては、郵送等で複写を送ってくれるところもあるようです)。

お役に立てず申し訳ないです。取り急ぎ訂正まで。

余談ですが、「またも負けたか八連隊」と戯れ歌が歌われていて、かの石原慎太郎もそれを聞いて馬鹿にしていたようですが、ウィキペディアによると、「そんなことはない」と否定はされています。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E5%85%B5% …
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この回答へのお礼

お礼遅くなり申し訳ありません。

今回もご丁寧な回答に感謝でいっぱいです。

あと、八連隊のフォローメッセージもありがとうございます。
ご親切さに胸が熱くなりました。

お手伝い頂いた内容を参考に、暖かくなる頃に実現できる様頑張ってみます。

本当に本当にありがとうございました。

お礼日時:2012/12/21 16:15

はじめまして。

お父上のお気持ちお察し致します。

さて私は軍事オタクですが、祖父は第七師団歩兵第二十六聯隊(連隊:旭川、函館連隊区)に入営し(昭和19年、20歳です)、陸軍一等兵になったあと、広島の部隊(私の記憶だと「馬糧廠(ばろうしょう:軍馬の餌を確保する。ただし、部隊一覧にないのですが…?)に「転籍」しました。昭和20年8月6日0815時に爆心地より10kmのところにおり、軍命令により、広島救援に入っています。ですので被爆者手帳を持ってます。元気ですが…。
 それで、八連隊ですが、大阪というと第四師団歩兵第八連隊と思われます。ただし、歩兵第八連隊本隊は南方に出ているので正確には「歩兵第八連隊補充隊」ではなかったかと思われます。しかし、前述私の祖父のとおり、転籍されたと考えられるので、歩兵第八連隊で追いかけても出てこないかと思います。ですので、陸軍の場合、軍人関連の福祉(恩給支給業務など)は、「現住所地を管轄する市区町村役場で、担当係がいるはず」ですので、そこに問い合わせたほうがいいです。そうすると、本人か確か3親等以内、であれば、「軍歴表」を見せてもらえるはずです(ただし、理由を聞かれます)。これを見れば、どの部隊に何日に転属した、被爆した、などが全部記載されているはずです。逆に言うと、だからこそ「3親等以内じゃないと見せない」と規定されているんです。まずは、現住所の市区町村役場に問い合せてみてはいかがですか? ちなみに、私の祖父の場合は本人が「被爆者」であると把握しておらず、あとになって市役所から担当官が来て「申請しなさい」と言って軍歴表を置いていってくれたそうですから(私も見せてもらいました。字が細かいのでみにくいので代わりに書類書いてくれということで)。

海軍軍人であるならば厚生労働省が担当になります。しかし、今回の場合、海軍にはない部隊である「八連隊に入った」とおっしゃっているので、海軍ではありえない、と考えられます。ですので、担当は現住所の市区町村役場となります。まずはその所属部隊名を正確に分かればある程度、部隊史というのがたくさんありますので、国会図書館等に行けばあると思います。とにかく被爆時の所属部隊がわかれば、と考えます。またお手伝いできることがあればお手伝いします。ご参考になれば幸いです。どうかご健康なうちに一度お父上の希望が叶うことをお祈り申し上げます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
私も父の影響あってか、同年代と比べかなり戦争に興味持っている様です。

「歩兵第八連隊補充隊」とは!

父からの話で召集場所が大阪の上本町であった事と、
向かいは37連隊があったという事から、
歩兵第八連隊であったのに間違いはないはずなのに、
(あまり、、、良い評判ではなかったのですね(笑))
八連隊について調べても長崎という文字が一切でないので
途方に暮れておりました。

役場にも確認してみます。

父も被爆者手帳持っているので、手帳を見せてもらうなりすればいいのでしょうが、どうも躊躇ってしまうのです。
父自ら思い出を語る感じで話す内は良いのですが、
私がそこから色々尋ねると、何か嫌な事を思い出してしまうのか
話が止まってしまいます。

本当にありがとうございました。
ご親切なメッセージが嬉しくて胸がいっぱいです。

ちなみに父も元気です!
simosimo0222さんのおじい様にもよろしくお伝えください。

お礼日時:2012/12/07 23:27

長崎市教育委員会にお聞きしましたが、「分らない」とのことです。

以下、返答の内容です。

原爆に関する事項は、市被爆継承課が扱っております。
 もしかすると、そちらで何かしらの情報が得られるかもしれません。
 
 連絡先を掲載しておきますので、参考にしてください。
 095-844-3913(長崎市役所 原爆被爆対策部 被爆継承課)

多分、同じ答えが返ってきそうです。

大久保小学校は、長崎県佐世保市にありますが原爆とは関係ないですし、あと一つお父様から情報が得られると、糸口がみつかるのでしょうが。
お役に立てませんで、すみません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私も大久保町を発見しましたが、被爆に関連した内容がなかったので
違うのかなと思っていました。

教えて頂いた連絡先に、一度問い合わせてみようと思います!

充分に有難い情報です。
心より感謝申し上げます。

お礼日時:2012/12/07 23:04

長崎県に[竹の久保町]がありました。


浦上駅の近くです。
次のURLをクリックして参考にて下さい。

[長崎県/長崎市/空襲による被害状況]
http://www.pref.nagasaki.jp/s_fukushi/sensai/kuu …
・昭和20年7月31日の項に[竹ノ久保町]の記載がありました。

なお、[Google Map]などにて検索部分に[長崎県長崎市竹の久保町]
を入力し検索しますと近辺の地図他の内容が表示されます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

竹の久保町の線が強い様で、絞って調べてみます!

ご丁寧な内容に、感謝いたします。

お礼日時:2012/12/07 09:10

〇〇8連隊の、〇〇の部分が分からないので正確な回答はできませんが、



大よその予想で答えさせて頂きますと。

恐らく地名は「竹の久保町」の事だと思います。爆心地から1キロ圏内で、小学校ではなく旧制中学校があった場所になります。

私なりの根拠としては、爆心地近くで久保という地名がついている事。近くに三菱の工場があり、当時かなりの数の兵隊さんが工場付近の防空壕堀りに駆り出されていたらしいです。一部の兵隊さんたちは、防空壕を掘っていた為、穴の中で作業されていた方は助かり、外で作業されていた方は跡形もなかった等の被爆体験のお話も聞いた事があります。

ひとつ気になるのは、お父様の記憶の中のキーワードの中に「川」という言葉が入っていない事です。

竹の久保町周辺で被爆された方の体験を聞くと、まず間違いなく一面火の海となった道を近くを流れる浦上川を目指して歩いたというように、浦上川という言葉が出てきます。長崎市内では一番大きな川ですので、かなりの地形的な目印なので、お父様の記憶の中に「川」というキーワードがない場合は竹の久保ではないかもしれません。「川」という印象が残っているようならほぼ間違いなく竹の久保であっているのではないでしょうか。

因みに当然、原爆爆心地に立っている原爆資料館からも1キロ離れていませんので、資料館目的で訪れたついでによってみても良いかもしれません。
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この回答へのお礼

早々に、そして良い情報ありがとうございます。

そうですね、今のところ話の中に川は出てきませんでしたが、他のポイントからするとかなりいい線のようですね。

父は光ったまでは記憶しているが、気付いた時フラフラ歩いていたと話します。
酷い火傷や外傷がなかったのは、日差しを避けるのに学校の大きい壁際の影に座ったのが幸いした。
多くの兵隊の人達は影とか構わずにクタクタで座ったから、きっとダメだったろうとも言っていました。

これだけでも辛い話なので、父が自然に話す事以外は掘り下げて聞く事が出来ませんでしたが、川の事は一度それとなく訪ねてみます。

本当にありがとうございました。
もう少し欲張って情報集めたいと思います!

お礼日時:2012/12/06 13:38

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