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赤紙(召集令状)と入営通知書の違いは何でしょうか?
赤紙は、役場の兵事係が配送しますが、
入営通知書というのは郵送で、ハガキか封書(映画「戦争と人間」)だったようです。
なぜ郵送したのか?
郵送では郵便事故もありえます。
両者の違いについてご存知の方、ご教授願います。

A 回答 (9件)

No.8の続きです。

だんだん結論に近づいてきているでしょうか。「召集令状」や「現役兵証書」は役場から手渡しであるのが大原則ではあるけれど、やむを得ない事情の場合は電報による通知や封書での郵送(ただし十分な配慮がされている)もあったということが、質問者さん自身の努力のおかげで確認できました(ハガキによるものはまだ未確認です)。今度は入営通知の件です。

> 入営通知書というのは「入営を命ず」と書かれた書類の総称であるらしい

いずれにせよ、一番最初の質問だった「入営通知書」というのは正式な名称ではなく、一部の人による俗称あるいは通称の域を出ないということでよさそうな気がします。いかがでしょうか。

> 具体的には「現役兵証明書」と「入営命令書」

「入営命令書」の根拠らしきものが見つかりました。そして「入営が間近くなると入営命令書が届くシステム」というyoshinobu_09さんの考えは正しいようです。No.7の冒頭で否定したことをお詫びして訂正します。

1944(昭和19)年11月に出された「昭和二十年ニ於ケル徴兵事務等ノ特例ニ関スル件」(陸軍省令第51号)の第7条で、現役兵証書の表面には「入営部隊、入営部隊所在地、入営期日及時刻ハ時宜ニ依リ之ヲ記入セザルコトヲ得」、つまり入営に関する諸情報は記入しなくてもよいと定められたんですね。そして第7条ではつづいて「此ノ場合連隊区司令官ハ(中略)別ニ入営部隊、入営期日及時刻等ヲ本人ニ達スベシ」としています。これが「入営命令書」になると考えて間違いないのではないでしょうか。また同じ陸軍省令第51号の第2条で、1945(昭和20)年の徴兵検査は1月15日から4月30日までと前倒しすることが確認できました。ですから「入営命令書」は昭和20年の4月ごろからの日付が見受けられるのも当然といえるでしょう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961856/1
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C010075974 …

徴兵検査の日程は官報に徴兵署開設日割という情報が出て大体わかるようです。あまり戦争と縁がない昭和ヒトケタの時代は、きちんと4月16日から7月いっぱいで終わるように日程が組まれているのが確認できます。それが1944(昭和19)年のものを見ると、8月までずれ込んでいるのも見受けられます。そして1945(昭和20)年の場合は、上記の陸軍省令第51号により1月からという日程になっていることが確認できます。補足で例として挙げられた満州の青年が2月に徴兵検査を受けた話は、まさに定められたとおりだということがわかりました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957425/5
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961663/10
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961908/6

つぎに私が疑問だった、なぜ1945(昭和20)年という戦争も終盤(当時の人は誰も8月に終戦になるとは知りませんが)の混乱した時期に、わざわざ「現役兵証書」と「入営命令書」という二度手間にするかについてです。陸軍は上記の陸軍省令の頃から本土決戦に向けて師団をどんどん急造する計画をたて始め、2月以降には新しい師団ができてきます。このへんの事情は防衛庁(当時)防衛研究所戦史部による『戦史叢書 陸軍軍戦備』(朝雲新聞社 昭和57年7月30日発行)の462頁以降に詳しく書かれています。またインターネットでは「帝国陸海軍作戦計画大綱」というキーワードで検索すればいろいろな話が出てきます。そういった新たな大量の師団編成に追われてギリギリまで誰をどの部隊へ入営させるか軍も決めかねて、まずは現役兵証書だけを交付する、その後で目処がついた部隊に入営させるため命令書を出すということかもしれません。

ただし・・・

> 翌(昭和20)年1月私にも入営通知が届きました。
> http://www.pref.tottori.lg.jp/80236.htm

この例は前年の徴兵検査によるものであり、それまでと同じ「現役兵証書」のことだろうと考えます。

> ネットで検索した結果、他にも入営を命じる書類があった可能性を感じます。
> 「入営令達書」「入営兵令達書」なるものも登場します。

このへんは何ともいえないですね。昭和20年以降のものなら上記の省令では「入営部隊、入営期日及時刻等ヲ本人ニ達スベシ」というだけですから、各連隊区司令部の判断で書状の名称をつけてもよいのかもしれない、と考えれば「入営命令書」以外の名前の可能性も残るでしょうか。しかし、yoshinobu_09さんが補足で例として出された昭和14年や17年のものはどうでしょうねぇ・・・。しつこく書きますが、公文書の文言でもない個人の思い出話の中に出てくる単語は、記憶違いであったり、それを書いた人が勝手に呼んでいるだけというおそれが十二分にあります。ですから「入営令達書」や「入営兵令達書」という正式名称のものがあったかどうかはわかりません。やはり現物か、そうでなくても裏付けとなる別の史料と合致しないと、本当にあったかどうかは決められないでしょう。

以上、ダラダラとこんな細かいことを、自分以外に興味を持つ人がいるかどうかわかりませんが、yoshinobu_09さんの質問をきっかけにして、今回調べてみていろいろわかったことがあったので自分のための備忘録も兼ねて書いてみました。

この回答への補足

たびたびの詳細なご回答、ありがとうございます。
「入営兵令達書」の記載がある本を読んでみました。
1923年生、税務署員、徴兵検査時期不明、甲種合格、昭和19年4月入営。
たぶん昭和18年に徴兵検査を受けて、翌年現役兵入営となったのだと思いますが、
4月入営はすこし遅く感じます。
税務署員(官吏)ということが考慮されたのかもしれません。

『入営兵令達書(赤紙)
甲種、第一乙種の合格者は現役兵となる。
そして、それぞれの兵科ごとに定められた時期がくると、当時赤紙(くすんだ
赤い色をした紙に、×月×日×時×分に× ×部隊に入営すべし、と記載されてい
る召集通知のこと)といわれた入営兵令達書が郵送、ではなく、市町村の職員によ
って各人宅に直接届けられた。』

本人の中では「赤紙=入営兵令達書」のようです。
幹部候補生、中野学校を経て憲兵という経歴からして、法律用語になじみがあり、
それで戦前を回顧したときに、入営兵令達書という名称が思い浮かんだのかもしれません。

補足日時:2013/03/02 14:25
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No.2、3、4、5、6、7の回答者です。

まずは三島由紀夫の話からいきましょう。電報の内容をわざわざ問い合わせていただいたようで、その行動力には脱帽です。そして内容も興味深いですね。

> 「入営を命ず」という言葉がカタカナで印刷されています。
> 「入営を命ず」は現役兵証書と同じ文言です。

これは決定的ですね。<平岡公威(三島由紀夫)は召集ではなく、現役兵として入営する予定だった> ということですね。兵事業務を何度もしている役場が「入営」の意味を間違えるはずがありません。図書館で三島の自伝的小説『仮面の告白』と、猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋 1995年12月20日 第6刷)を借りて来ました。『仮面~』は小説ですから事実でなくても責められませんが「私は夜の十一時に召集令状をうけとった。二月十五日に入隊せよという電文だった。」となっています。『ペルソナ』は206頁に「赤紙をもらった三島」と「召集を免れた」という記述があり、伝記として完全には正確でないということになります。

徴兵検査では第二乙種だったということなので、三島由紀夫も初めは第一補充兵に編入されていたものが補欠として現役兵に振替えられたのではないでしょうか。現役兵の補欠は兵役法の第48条、および兵役法施行令第91~95条に定められています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112389/14
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112389/35

しかし補充兵という役種を変更しないまま召集によって軍隊に入れるという方法もありそうなのに、なぜ現役の補欠という手段にするのかは私の勉強不足で不明です。補充兵に指定されて1年以内の場合はすべてこのように現役に振替えるのでしょうか。あるいは想像ですが、現役兵にしたほうが軍には都合が良いのかもしれません。補充兵のまま召集で部隊に入れた場合、召集とは原則として一時的な人集めなので、だいたい2年程度を目安として召集解除して軍務から開放する建前です。いっぽう現役兵というのは平時は2年で満期ですが、1927(昭和2)年に兵役法が施行された時点で第19条に戦時または事変の際は服役の期間を延長できると定められているので、現役兵としてざっと3~4年、その期間が過ぎたら予備役編入・同日臨時召集という荒業でさらに2~3年、全部合わせて6~7年ぐらい軍隊に留めておくことも可能です。また兵士側でも補充兵よりは現役兵のほうが昇進その他で有利になるようです(普通は階級が上がることより軍隊にいる期間が短いほうが嬉しいでしょうけど)。

もうひとつ三島の件で蛇足を書きます。『仮面の告白』では、田舎で検査を受けたほうが農村の青年たちと比べて“ひよわさ”が目立つので徴兵検査の結果が悪く(つまり兵隊に取られにくく)なるかもしれない、という父の入知恵があったと書いてあります。また当時の人の体験談で「都会育ちは虚弱な者が多く、甲種合格は珍しい」などといった趣旨のことを読んだり聞いたりしたことはありませんか? 私自身は何度かあります。ところが実際の統計を見ると都会だからといって虚弱であるとは限りません。下のリンクを見てください。東京の真ん中の日本橋や芝での複数年にわたる徴兵検査の記録です。寄留というのはよそで生まれ育って、仕事などのために東京に住んでいる人でしょうが、本籍となっているのは東京の生まれ育ちでしょう、いずれにしろ甲種合格も珍しくない堂々たる結果です。こういう史料は探せばまだ出てきます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281543/101
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020265/97

考えてみれば当たり前なんですね。都会では農業はないでしょうが、その他の肉体労働者はちゃんといます。そして都会人は経済格差のために、田舎よりもむしろ栄養事情が良いのではないでしょうか。農作物や魚介類は商品であり、農漁村の人間がそれをよく食べているとは限らないわけです。下のリンクの京都府の例のように、市部より郡部のほうが甲種の比率がいくらか高いことを示す統計はありますが、それでも市部の人間が極端に虚弱というほどではありません。こうしたものを見慣れた私は、何度も書いているようにお爺さんの思い出話といった類の文章だけで他に史料の裏付けがない場合、慎重になってしまうのです。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081306/7

なんといっても信頼度が高いのは「思い出」ではなく「現物」ですね。

> 昭和18年、書留、配達証明で22銭ぶんの切手を貼っています。
> http://blog-imgs-12.fc2.com/i/s/o/isokaze/200910 …

これは素晴らしい史料だと思います。赤い山形の線の様子からして、手渡しで令状を受け取った代理人が転送したものではなさそうです。やむを得ない場合に限り召集令状を郵送することがありえることは法令では確認できましたが、こうして現物を見ることであらためて確実なものになりますね。しかも「書留」と「配達証明」という印で、万一の場合の郵送ではここまで気を使うのだということがわかります。

(つづく)
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No.2、3、4、5、6の回答者です。

次は「入営命令書」の件。

> 入営が間近くなると入営命令書が届くシステムだったように思われます。

申し訳ないですが、私はその説にはあまり乗る気になれません。根拠となるソースを示して明確に否定なり肯定なりできれば良いんですが、恥ずかしながら、まだそういうものはわかりません。yoshinobu_09さんが正解という可能性もあります。ただしこうやって見ていただけるように、私もそれなりに法令や書籍を調べて(そういう趣味ですから)自分なりに研究した途中経過としての考えでは、ちょっと疑問を持ちます。

> 「(友人の現役兵証書)」
> http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/archive/2012/ …

この現役兵証書には右上に「入営延期」という山口連隊区司令部の赤いハンコが押してありますから、兵隊になる人間か陸軍か知りませんが、どちらかに何かの理由があって入営延期となったためこの現役兵証書には入営日が記入されなかったわけです。こういう例はすべての者に当てはまるのではないと私は考えます。

> 現役兵証書のウラ面には、召集令状にような
> 「この証書を持参すれば運賃が無料になる云々」の記述はありません。
> それは入営命令書のウラ面に書かれていたのではないでしょうか。

現役兵証書は1927(昭和2)年の兵役法施行規則(陸軍省令第24号)を見ればわかります。現役その他の役種が決まったら、現役兵証書、第一補充兵証書、第二補充兵証書、徴集延期証書、兵役免除証書が各人に応じて交付されると第217条で定められています。第3様式という見本でどういうデザインで何が書かれているかも規定されています。表面右側を切り取って受領証にするのは召集令状と同じです。現役兵証書には「入営期日及時刻」として年月日と時刻を記入する箇所がある以上、そこに記入して現役兵証書イコール「入営命令書」として使うのが普通ではないでしょうか。現役兵証書をまず交付して、その後でわざわざまた「入営命令書」も交付というのは軍や役場も手間の負担が大きくなるだけなのに、例として挙げられた満州での体験談は戦争末期の混乱期にそういうことをやったことになっています。その理由が理解出来ません。それにしても、これも2月に徴兵検査ですか。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112389/99
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112389/151

裏面については現役兵証書の場合、質問者もご存知のように心得などが印刷されているようですね。これは兵役法施行規則の見本でもそうなっています。「入営命令書」も同じではないでしょうか。入営の場合は召集と比較すると時間的余裕があることも多いし、人数もある程度まとまっていることが多いでしょうから入営部隊までの交通は役場か軍が手配しやすいと考えます。召集の場合は急であるのが基本だし、小さな村から出発する場合は1人や2人だけかもしれない(それも1人は歩兵連隊、1人は工兵連隊とバラバラな行き先かもしれない)、そういった事情から召集令状には交通運賃に関する記載があり、イザという時には自分でどうにかしろということだと解釈しています。
http://www.library.pref.nara.jp/sentai/gallery00 …


> 「入営命令書」は昭和20年に集中してますが、大正時代からあったようです。
> 「入営命令書 大正13年11月4日」
> http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/TanabeSadamu.pdf

大正13年のこの「入営命令書」は <一般の入営ではない> と考えてほぼ間違いありません。一緒に出てくる書類には「一年志願兵」であることを匂わせる書類があります。この田辺定という人は開成中学の創立者の三男で逗子開成中学を卒業しているとのこと。国会図書館の説明文では「志願兵」として騎兵第1連隊に入ったと書いていますが、それはこの文を書いた人が一年志願兵を知らないのでしょう。財力と学歴のある若者は一般の現役3年(当時)という徴兵ではなく、一年志願兵という1年だけ兵隊になればよい優遇された道も選べる制度がありました。詳しくはWikipediaの「幹部候補生 (日本軍)」という記事も2013年2月13日現在の時点では全て私が執筆したもので、そこに一年志願兵のこともある程度載せていますから、よかったら見てください。
http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/TanabeSadamu …

1919(大正8)年11月制定、同12月にそれまでの同名の細則を廃止して施行された、新しい陸軍一年志願兵条例施行細則(陸軍省令第49号)によると一年志願兵も連隊区司令官から「一年志願兵証書」という証書が交付されます、しかしこの証書には入営する部隊も入営日時も記入されません(第13様式)。第40条で師団長により「入営命令書」(第15様式)が発行されると定められ、その命令書で入営部隊と入営日時が指定される段取りになっています。手間が掛かりますが、一年志願兵になる者というのは少数です。「一年志願兵証書」と「入営命令書」がどのようなデザインで、どんな文面かは細則の終わりに見本が示されています。しかしながら、1927(昭和2)年12月に兵役法制定によって一年志願兵の制度そのものが無くなったので、それ以後この「入営命令書」は無いと考えるべきです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954308/4
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954308/7

一般の徴兵による「入営命令書」を規定した法令などを探しているんですが、今のところはまだ見つかりません。見つからないかもしれません。ただ1945(昭和20)年の現物写真がある以上、存在したことは確かです。気になるのは「現役兵証書」と「入営命令書」との関係ですね。写真で確認できる物では、この2つは驚くほどデザインも文面も似ていますから回答No.2ですでに書いたように「入営命令書」とは「現役兵証書」が終戦間近になって、その名称を変えたものという考えも捨て切れません。あるいは「入営命令書」ができてからは「現役兵証書」の様式等々が変って2つが併存したのでしょうか。それらを裏付けるような手がかりが何も見つからないというのが現状です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/幹部候補生_(日本軍)

この回答への補足

入営通知書というのは「入営を命ず」と書かれた書類の総称であるらしいことが
わかってきました。具体的には「現役兵証明書」と「入営命令書」です。

入営命令書 昭和20年4月6日
http://www.pref.aichi.jp/kenmin-soumu/chosakai/t …

「昭和20年2月25日徴兵検査、乙種合格、3月28日現役兵証書、5月16日入営命令書」
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10hikia …


上記2件を勘案すると昭和20年4月から「現役兵証明書」の名称が「入営命令書」に変更された可能性があります。

ネットで検索した結果、他にも入営を命じる書類があった可能性を感じます。
「入営令達書」「入営兵令達書」なるものも登場します。


翌(昭和20)年1月私にも入営通知が届きました。
http://www.pref.tottori.lg.jp/80236.htm

昭和20年2月ぐらいから開拓村の成年男子にも「入営通知」が出されて関東軍に編入された。
http://books.google.co.jp/books?id=25PnHsxSuS4C& …

昭和19年春か夏に徴兵検査、甲種合格、兵種は輜重兵、昭和20年8月入営通知 学生
http://nevertolate860.blog129.fc2.com/blog-categ …

韓国全州師範学校5学年に在学中の1944年8月、旧日本陸軍から入営通知書を受取、同年9月に入隊
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/nkhp/kakutinj.htm

昭和20年2月徴兵検査、第一乙種合格、5月9日入営命令書、東部軍司令官名で「5月15日宇都宮第三十六部隊に入営を命ず」
http://books.google.co.jp/books?id=5t1GXwO3R9MC& …

現役兵証書 現役兵であるという証明書で入営時には携行した。
入営命令書 徴集現役兵として入営する部隊や集合場所、日時を明記した命令書。「名古屋連隊区司令官」の発行になっている。
http://www.pref.aichi.jp/kenmin-soumu/chosakai/s …

昭和17年4月以降徴兵検査、入営兵令達書、「昭和18年2月1日福島県郡山市東部第六十六部隊に入営を命ず」
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onket …

昭和14年甲種合格、入営令達書、昭和15年3月5日満州の戦車第五連隊入隊のため広島集合 現役兵
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onket …

陸軍回顧録 入営兵令達書(赤紙)
http://library.main.jp/index/jst13487.htm

補足日時:2013/02/16 14:59
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No.2、3、4、5の回答者です。

質問者さんにおかれては、今でも興味を持っていただいて嬉しいです。しかも補足でリンクされた中に面白い史料が出てきて、新しい発見がありました。

> 日露戦争時は召集令状を郵送していたようです。
> 「日露戦争・召集令状送付のエンタイア」
> http://blogs.yahoo.co.jp/yobnag/25331126.html

この赤い封筒は <召集令状を入れて応召員に郵送したものではない> と考えるべきです。封筒の宛名を見てピンと来ました。くずし字の住所は私の能力では読めませんが、宛名は「国枝源吉 殿」の上に書いてあるのが「巡査」という文字で間違いないでしょう。召集されて軍隊に行く人に送っているのではなく、召集業務に関与している警察の一員に送った封筒です。

1899(明治32)年10月制定の陸軍召集条例施行細則(陸軍省令第29号)を見ればよくわかります。第5条に「(前略)其ノ事務ニ係ル文書[令状ヲ除ク]ヲ発送スルニハ動員用封筒[第三様式]ヲ用ウヘシ(中略)令状ヲ市町村長ヨリ各自ニ交付スルニハ普通ノ封筒ヲモ用ヰサルモノトス」となっています。つまり、何か動員に伴う令状以外の書類を送ったときの封筒でしょう。わざわざ <召集令状は除く> と条文に書いてあるのですから。下記リンクから条文と封筒の様式を見てください。色指定といい、第3様式の封筒がまさにそれです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948175/1
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948175/3


> 「動員令の電報」
> http://fumisan822.exblog.jp/11768352

動員令というのはわかりやすくいうと「師団の編制を大きくしろ」という命令で、回答No.4で挙げた『赤紙と徴兵』59頁によれば、陸軍省から師団に向けて下令されるものです(戦争が本格的になれば大本営が設置され大本営から師団へ下令)。師団はそれを連隊区司令部に「動員令が来たから召集をやれ」と伝え、連隊区司令部は市区町村役場に「動員令が来たから召集をやる」と伝えます。回答No.4で書いた予報というのも正確には「動員令予報」といいます。しかし役場から先は動員令は行きません。 <動員令は応召員(召集される個々人)に伝えるものではない、応召員が伝えられるのは召集> だというのがこれまで調べた私の解釈です。ですからこの電報を紹介するタイトル「動員令の電報」は間違いだと考えます(ここでも「招集」と誤記しています、そのレベルの人たちが付けたタイトルです)。この電報は正しくは「召集を伝達する電報」ですね。

差出人を大阪歩兵第8連隊としているのも間違いです、連隊が応召員に電報なんか打ちません。差出人は電報文の最後に「カミイ」と出てますよ。では「カミイ」とは誰か? 電報送達紙の上のほうに「エツチウ カミイチ」と書いてあります。調べたら越中の富山県に上市町というのがあります。上市町役場が差出人でしょう、「カミイチマチヤクバ」とするには文字数の余裕が足りなかったのだと推測します。町役場から令状を代理で受け取った人物が電報の差出人なら「チチ」とか「オジ」とか、自分の名前「ヒロシ」とかにするでしょう。「動員により」という書き出しや「旅費のことはその地の役場に聞け」とか慣れている人っぽい文面だと思うのは気のせいでしょうか。私の考えが間違っていないなら、この電報こそまさに回答No.4で書いた陸軍召集規則第43条の「適当ノ方法」による「召集ノ旨ヲ伝達」の実例史料になりそうです。部隊到着日までたったの1日という極端な場合だからこそ役場が電報を打ったと考えます。

しかし9月14日に山形県で電報の通知を受けて、15日の午後1時に大阪に到着するのはムチャクチャな日程ですね。こういう場合は陸軍召集規則の第48条2項に「令状又ハ召集ノ通報ヲ受ケタル日時ノ関係上指定ノ日時ニ到着地ニ至ルコト能ハザル者ハ所在地ノ憲兵又ハ警察官吏ニ就キ令状又ハ召集ノ通報受ケタル日時ノ証明書ヲ受ケ」と書かれているので、応召員はさっそく天童町(当時)でそのような手続きをして、大阪に向かったことでしょう。

この召集の事例はもうひとつ興味ぶかいことがあります。召集令状が富山県上市町の役場からその町に本籍があるクツワダヨシオさんに行くはずだったと仮定してのことですが、それならば大阪の歩兵第8連隊に召集というのが気になります。本籍富山県なら富山連隊区の扱いであり、金沢に司令部がある第9師団のどこかの部隊に入るのが普通でしょう。大阪は遠すぎるし、歩兵第8連隊は第4師団です。ひょっとすると、この応召員は予備役か後備役の下士官かもしれません。第4師団の部隊は関西風というのか士気があまり高くないので、下士官のなり手(現役下士官は志願者を候補者にして育成)が少なく不足していた、時には他の地方の現役や予備役下士官を異動させて加えた、という話を読んだことがあります(ソース失念、申し訳ない)。


> 徴兵検査は8月にも実施されていたようです。

徴兵検査は日本国中で1年間に何百と行われていたでしょうから、例外もあるだろうとは思いました。ただ一応4月16日から7月31日までと、1927(昭和2)年の兵役法施行規則(陸軍省令第24号)第103条で決められているので、それをどうするのか不思議でした。「陸軍なんて何でも横暴にやりたい放題だった」と考えている人もいるでしょうが、軍隊だって役所の一つですから <法律や規則によって動く> んです。なにしろ1943(昭和18)年の学徒出陣のときには普段と違って10月以降に学徒の徴兵検査を行うので、わざわざ昭和十八年臨時徴兵検査規則(陸軍省令第40号)というものを制定したほどです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961523/3

徴兵検査8月実施は上述の兵役法施行規則第97条の1で、7月31日までに「終了シ難シト認ムルトキハ」と初めから8月以降の検査も容認していると考えれば良いのか、第109条で、「伝染病ノ流行其ノ他災害等」により期日までに徴兵検査ができないときは日時の変更ができると定められているので、そのへんの拡大解釈か、あるいは何度も細かく改正されている規則のどこかに、私が見落とした変更があるかもしれません。時間かけて改正を調べたんですけどねぇ・・・。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112389/68
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112389/72

(つづく)

この回答への補足

詳細な解説ありがとうございます。
大変参考になります。

> 「日露戦争・召集令状送付のエンタイア」
> http://blogs.yahoo.co.jp/yobnag/25331126.html

加茂郡肥田瀬駐在所 
巡査國枝玄吉殿

加茂郡肥田瀬村は現岐阜県関市肥田瀬。
裏面が不明ですが、郵趣記事にもなっていることから
「召集令状送付」とどこかに書かれていると思ったのですが。
「召集令状封筒」と広告する根拠は何か。
それにしても配達証明も速達もない、3銭切手を貼った普通郵便。
この時代は自動車がないので、軍部も重要でない書類は
郵便制度に頼っていたのでしょう。
>30通以上束にしてあった
のなら、同一巡査宛でしょうか。


> 「動員令の電報」
> http://fumisan822.exblog.jp/11768352

宛名:天童町鎌田温泉稲荷湯方
   クツワダ ヨシオ殿
   至急 官報
『動員のため九月十五日午一時大阪歩兵八聯隊に召集
 旅費のことはその地の役場にて聞け カミイ』
電信局:越中上市
日付:昭和13年9月14日
指定:ウナ

指定略符号ウナは至急電報。
「発信人居所氏名蘭」がないのが不思議です。
pem42391様の解釈で間違いないと思います。


三島由紀夫の電報は官報でした。
当時三島由紀夫は群馬県の中島飛行機小泉製作所に遠方勤労動員されていて、
軍部が動員したわけですから、三島の所在地を把握できていたわけです。
このような場合は役場から、郵送か、電報で知らせたのでしょう。
郵送の例はこちら↓でしょう。
昭和18年、書留、配達証明で22銭ぶんの切手を貼っています。
http://blog-imgs-12.fc2.com/i/s/o/isokaze/200910 …

補足日時:2013/02/16 14:45
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(回答No.4のつづきです、やたらと長文になってしまいました)



> 兵事(事務)はがき一銭五厘
> http://isokaze.blog75.fc2.com/blog-entry-390.html

このハガキは山梨県の松里村役場(当時)から出されたのは確実なようですが、長野県松本市の相手にどんな要件なのかは「兵事」だけではわかりませんね。消印が昭和何年なのか、1銭5厘の料金からして昭和10年でしょうか。日中戦争前ですから召集もあまりなさそうな時期だし、召集の通知とは関係ないと考えます。6月というのは徴兵検査の季節にはふさわしいですね、でも断言はできません。

> 青紙は郵送されたものもあったようです。
> http://blog.goo.ne.jp/nagoya-jp/e/ff4c19c1ed95a1 …
> http://katarazuni.blog20.fc2.com/blog-category-3 …

「青紙」は召集令状ではなくて「召集“待命”令状」です。「待命」とはどういうことか、Wikipediaに書いたのでそれを見てください。この待命令状は熊本連隊区司令部から熊本市役所を通じて熊本市内の花園町(令状では「華園町」)の住所の人物に出されたものですから、市役所から徒歩で行けます。ですからこれも封書で郵送したのは役所ではなく待命令状を応召員に代わって受け取った誰かが転送したのだと考えます。切手の貼り方から見て、こうした事務にあまり慣れていない感じがします。転送先も同じ熊本市内の清水町松崎で数キロしか離れていないようです。もうひとつの「青紙」は馬の徴発の書類ですから問題外ですし、封筒に入っているというだけで郵送とはどこにも書いてありません。

最後に「赤紙」の召集は「国民兵召集」というものもありますが、あまり多くなさそうなことと、1941(昭和16)年に廃止されているので省略しました。それからNo.2の回答中に、徴兵検査の甲・乙・丙種合格者で現役にならなかった者は補充兵役だけになるように読める文章になっていますが、現役にならない者は補充兵役の他に、第二国民兵役(丙種合格者)もあると訂正します。現役になる者を決めた抽籤も1939(昭和14)年に事実上の廃止になりました。以上、これが誰かの何かの参考になればと思い長々と書きました。

参考URL:http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112389/8

この回答への補足

「現役兵證書」と「入営命令書」

「入営命令書」
http://www.pref.aichi.jp/kenmin-soumu/chosakai/t …
「現役兵証書(表面)」
http://www.library.pref.nara.jp/sentai/gallery00 …
「(友人の現役兵証書)」
http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/archive/2012/ …

「現役兵証書(表面)」は九月一日発行で、入営は翌年の五月十五日。
私の手元にある現役兵證書は、昭和十七年十月十五日発行で、入営は翌年の四月一日。
「(友人の現役兵証書)」には入営期日の記述なし。
「入営命令書」は、昭和二十年四月六日発行で、入営は四月十六日。
入営が間近くなると入営命令書が届くシステムだったように思われます。
現役兵証書に入営期日が書いてない場合、「入営命令書」を見て驚く、という事があったでしょう。
現役兵証書のウラ面には、召集令状にような「この証書を持参すれば運賃が無料になる云々」の記述はありません。
それは入営命令書のウラ面に書かれていたのではないでしょうか。

「昭和20年2月に徴兵検査、第一乙種合格、5月に入営命令書、6日後が入営期日」
http://books.google.co.jp/books?id=5t1GXwO3R9MC& …


「昭和19年8月徴兵検査、第二乙種合格、翌年1月に入営通知書、47日後入営」
http://www.asahi-net.or.jp/~id1m-ssk/shiberia/yo …


「昭和20年2月25日徴兵検査、乙種合格、3月28日現役兵証書、5月16日入営命令書」
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10hikia …


「入営命令書」は昭和20年に集中してますが、大正時代からあったようです。
「入営命令書 大正13年11月4日」
http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/TanabeSadamu.pdf

補足日時:2013/02/12 11:45
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この回答へのお礼

三島由紀夫の電報を問い合せたところ返事がありました。

『入営通知書(電報)は1945年2月4日、三島が動員先から一時帰宅した際に受け取ったもので、本籍の兵庫県加西郡富合村栗栖部隊への入営を命じているものです。「官報」の印が押されていることから、官からの命令という要素を含んでいると思われます。通知人は兵庫県印南郡志方村村長からになっています。電報なので簡略なものであり、入営通知という文字はなく、「入営を命ず」という言葉がカタカナで印刷されています。』

電報の場合は兵事係ではなく、市町村長名義で出されていたのかもしれません。
「入営を命ず」は現役兵証書と同じ文言です。

お礼日時:2013/02/13 17:24

回答者No.2、No.3です。

読む人がいるかは知らないけど、また書きます。この数週間、私は個人的な趣味として日本軍の召集について調べています。そして知り得たことはWikipediaの「召集」という記事に執筆しています。2013年2月9日の午後11時(日本時間)現在、そこに書いてあることは、ほとんどすべて私が <出典を明確にして> 執筆したものです。その段階で知って、この質問とも関係することがあるようなので、ここに書きます。

> 入営通知とは、たぶん召集令状のことでしょう。

「入営」というのは今回調べたところでもやはり <召集とは関係ない> ようです。東京大学教授で近代日本史が専門である加藤陽子の著書『徴兵制と近代日本』(吉川弘文館 1996年10月20日 第一刷 ISBN 4-642-07496-1)の12頁では「入営」を「現役に就いた者を軍隊に入れる行政処分。海兵団に入るのも本来は、入営という」と明確に定義しています。この本は日本の徴兵制を学ぶ者の必読書です。加藤陽子は高校教科書執筆などではイデオロギー面で問題あるようですが、史料と文献は徹底的に読み込む研究者ですから、この定義はそのまま受け取って問題ないと考えます。そして <現役兵が軍隊に入るのは召集ではない> のです。私自身も調べてみたところ、兵役法、兵役法施行令、陸軍召集規則といった法令では、現役兵について「入営」云々と書かれることはあっても、召集については「入営」の文言は使われないことを確認しています。海軍は海兵団に入るから「入団」というのも俗称で、法令の正式な用語では陸海軍とも「入営」なんです。また召集令状の文面には「入営」という文字はいっさいありません。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112389/281

ただし上記「入営」の定義は公式な行政用語としてです。軍や役所が <公的な書状> を作成する際に、召集に関しては「入営」は使わないだろうということです。一般人なら「入営」の定義について無知かもしれないし、そこまでこだわらないでしょうから、召集を知らせる <私的な書簡> などを非公式に「入営通知」という可能性はあります。三島由紀夫に届いた電報にそれが当てはまるかもしれません。私はあの電報はやはり親族などが送った私的なものだと考えています、現物が見たいですね。

役所の <公的な書状> として「入営」の文言が使われるなら、それはやはり、私がNo.2の回答で紹介した「現役兵証書」に関するものだと考えます。「現役兵証書」の交付には事前に通知がされる可能性があるようです。吉田敏浩『赤紙と徴兵』(彩流社 2011年8月15日 初版第一刷 ISBN 978-4-7791-1625-4)の34~35頁には滋賀県大郷村(当時)で1942(昭和17)年11月に、現役兵証書(および補充兵証書)を交付するので、印鑑を持って役場に出頭せよという書類を配った当時の兵事係を取材したことが書かれています。この本の例では郵便ハガキではなく、ガリ版刷りの出頭通知を兵事係が徴兵検査を受けた壮丁に配って歩いたそうですが(だったらそのときに証書を渡してしまえば良さそうなのに、その点が不明)、こういった方法が実例として出ている以上、「入営」を命じる「現役兵証書」の交付前に郵便による通知がされる可能性はあるかもしれません。

質問者さんが例として挙げている北海道の郵便局員の話は、あれこれ怪しい所だらけなので参考にはなりません。「招集」(「召集」の間違い)されたのに、実際に「入営」するまでに1か月以上あるなんて、日本が負けそうな1945(昭和20)年にそんなノンビリしてるんでしょうか。私はこれは「召集」ではなく、徴兵検査(法令に定めた7月までではなく8月15日となってる、これも奇妙)で第二乙種だったということも合わせて考えると、初め第一補充兵に指定されたが欠員の関係で現役兵に振替えられた、その時の「現役兵証書」の交付の通知か何かではないかと思います。

召集というものは、少なくとも「充員召集」「臨時召集」という「赤紙」で通達されるものは、最初に郵便で通知をした後で令状が交付されるような、ノンビリしたものではないようです(「白紙」の「教育召集」などはわかりません、しかし「教育召集」では戦地に行きません)。小澤眞人『赤紙』(創元社 1997年7月10日 第1版第1刷 ISBN 4-422-30033-4)の149~168頁には召集がどのように実施されたかの手順が書かれています。

召集は師団司令部から、その師団の受持区域(師管という、2つ3つの県が入るぐらいの規模)内にある複数の連隊区司令部(徴兵全般を扱う陸軍の機関)、そして連隊区(陸軍の行政区域、だいたい1つの県ぐらいの規模)内の各警察署を経由して各町村役場へ連絡が行く仕組みです。市だけは規模が大きいので警察を経由しないで、連隊区司令部から直接に市役所へ行きます。召集令状は連隊区司令部が作成します。実際に令状が役場に届くまでは少し時間がかかりますが、その前に予報といって電話や電報でこれから召集を実施するという連絡があります。この予報によって召集の実施をより迅速で円滑にするのでしょう。役場では予報を受けると関係者を集めます、迅速かつ確実な実施のためにはある程度の人員が必要だからです。

> 次のようなものがありました。
> 「召集アリ直グ役場ニ来タレ」上野役場からの令状
> http://www.pref.mie.lg.jp/FUKUSHI/heiwa/shiryou/ …

上記の赤い山形の線が入った書状は、役場に召集実務を行う関係者を集める際か何かに使われた書状かと想像します。召集令状を応召員(召集されて軍隊に行く人を法令ではこう呼ぶ)全員に短時間で交付するためには兵事係だけでなく、役場の他の係の職員や、ときには信頼できる青年団員などを使って手分けして一斉に届けに出たということです。

前掲書『赤紙』61~73頁では、富山県庄下村(当時)の日中戦争勃発直後の1937(昭和12)年7月27日の記録を例に挙げています。午後6時半に予報が入り、役場では関係者を集めます。午後11時前に令状が村役場につき、村長立ち会いで確認。使者が11時10分に応召員のもとへ出発、召集令状を手渡して受領証に捺印させ受領証を持って11時40分に役場に帰着です。こうした時刻は分単位で記録に残し、あとで軍に報告することが決められていたのです。これほど厳格に実施されていたのが召集です。とてもじゃないですが、取りに来いと郵便ハガキで命じるとか、役場が召集令状を封書で送るというものではないと思いませんか? 陸軍召集規則第45条では「(前略)同令状ヲ市町村長ヨリ応召員ニ交付スルニハ急使ヲ用フルモノトス」となっています。

召集を迅速・確実にするためには他にもいろいろ対策がされています。召集される可能性のある在郷軍人(補充兵を含む)の状況は、役場の兵事係が常に把握しておくんです。就職などで本籍地を離れているなら本籍地では <応召員に代わって令状を受け取る人物(成人に限る)をあらかじめ登録> しておきます。召集令状はその代理人に渡すわけです。応召員が転居してなくても、たまたま所用で不在のこともあるでしょう、そういう場合でも必ず責任の取れる成人に令状を手渡すように規則で決められています。そして召集令状と一体になった受領証を切り離し、受領時刻の記入、捺印のあと役場に持ち帰ってしっかりと保存(一定期間後に処分)します。上記のいかなる方法でも召集令状が手渡せない場合は、陸軍召集規則第43条「(前略)適当ノ方法ニ依リ応召員ニモ令状ヲ交付シ又ハ召集ノ旨ヲ伝達ス」とはなっていますが、「適当ノ方法」というのが郵送や電報を意味するのかはわかりません。

> 召集令状在中封書
> http://isokaze.blog75.fc2.com/blog-entry-391.html

この封書で送られた召集令状は、差出人が役場ではなく、役場の担当者から受け取った応召員の代理人が佐賀県の伊万里から東京の大田区池上まで転送したものと私は考えます。宛名が「様」になっていること(この時代に役場が出したのなら「殿」になるのでは)と、赤い山形の線のぎこちなさが民間人の手によるものを思わせるからです。また代理人が召集令状を受領した場合に転送することは陸軍召集規則で記述があり、第18条「(前略)応召員ニ代リ令状ヲ受領シタル者ヨリ召集通報ノ為応召員ニ発送スル郵便物ニハ標示(第六様式)ヲ為スベシ」という様式と一致します。これは召集には応召員が令状を部隊まで持参するのが原則だからです。こうやって郵送するということは本籍地の代理人に会って令状を受け取らずに、直接部隊に向かう場合でしょうか。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112389/240
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112389/280

(つづく)

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/召集

この回答への補足

ありがとうございます。
wikiの編集、ごくろうさまです。

【入営】現役に編入する壮丁を軍隊に召致すること。また、兵務を勤めるべき場所にはいらせること。補充兵が補欠として現役兵に繰り上げられ軍隊に召致されることもいう。(小学館 大国語辞典)

入営は現役に限られるようですね。

>この封書で送られた召集令状は、差出人が役場ではなく、役場の担当者から受け取った応召員の代理人が佐賀県の伊万里から東京の大田区池上まで転送したものと私は考えます。

正解のようです。
「召集令状を、転送した時に使用した速達封筒の使用例です。」
http://isokaze.blog75.fc2.com/blog-entry-1092.html


日露戦争時は召集令状を郵送していたようです。
一銭五厘ではなく三銭切手です。
「日露戦争・召集令状送付のエンタイア」
http://blogs.yahoo.co.jp/yobnag/25331126.html


「陸軍動員令電報」というのもありました。
【動員令】旧制で、戦時または事変に際し、在郷軍人を召集する命令。(小学館 大国語辞典)
「動員令の電報」
http://fumisan822.exblog.jp/11768352


徴兵検査は8月にも実施されていたようです。
「徴兵検査は居留地の東京で昭和14年(1939年)8月に受けた。通常、徴兵検査は4、5月に行なわれており、8月の検査はもっとも遅い時期だった。」
http://www.icom.co.jp/beacon/backnumber/ham_life …
「1941年8月、徴兵検査を受け甲種合格。12月、召集され、中国大陸に出征した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4% …
「昭和十七(一九四二)年、十七歳の若さで兵役を志願し、八月に徴兵検査を受けたのです。」
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onket …
「(4)徴兵検査 毎年四月から八月までの間、連隊国司令部徴兵官、軍医によって、各町村を会場に、該当者の厳重な検査が行われました。」
http://www.mboso-etoko.jp/dictionary/article.php …

補足日時:2013/02/12 11:38
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まだ締め切ってないので、また書きます。

質問者自身かどうかはわからないけど、誰か1人か2人はこれを読むかもしれないし・・・。

『日本陸軍がよくわかる事典』(PHP文庫 2003年10月21日 第1版第5刷 ISBN4-569-57764-4)という本を、先日たまたま読みました。その142ページにこんなことが書いてあります。

(以下引用)> 田舎などでは役場の兵事係がピンク色の召集令状を配って歩いた。そして受領印を押させた。対象者の多い都会では、一銭五厘の郵便ハガキで召集令状を受け取りに来いというハガキを出すこともあった。ハガキを持っていくと、やはり受領印を押させて令状をもらった。<(引用終わり)

この文をそのまま信用するならば、一部でハガキによる通知はあったようだし、そのハガキが今回の質問である「入営通知書」なのかもしれないということになります。 ただねぇ、ちょっとこの本もねぇ。私がざっと目を通したところ、何か変だな怪しいなと思う点が10や20どころの話じゃないですね。著者は“太平洋戦争研究会”となっていて、実際の執筆者はそのメンバーである森山康平という1942年生まれの人物ただ一人のようです。「事典」とは銘打ってますが、文体からしても情報の種類からしても随筆みたいなもんで、雑誌記者あがりだという初老のオッサンが勢いで書き飛ばしているのは明白で、どれだけ資料で裏を取ったのかはわかりません。

引用した部分だけをみても「ハガキで召集令状を受け取りに来いというハガキを出す」なんて、国語の先生なら迷わず減点するような悪文そのものです。まともな本を作る人たちなら、こんなのは編集者か筆者が校正のときに直さないのは恥です。それをノーチェックで本にしてしまうような、やっつけ仕事の「事典」にはこう書いてある、というのを発見したので参考までにお知らせします。


それにしても質問にある映画の中の封書での「入営通知」や、補足で書かれた平岡公威さん(筆名:三島由紀夫)が受け取ったという電報の「入営通知」の説明にはなりませんね。好意的に解釈すれば、ハガキか封書か電報かは役場の担当者の判断に任され、いろいろな方法があったのかもしれません。しかしながら、映画の描写は嘘っぱちかもしれないし、電報の「入営通知書」は公的なものではなく、親族からの私的な通知であるかもしれない(これは現物を見たいもんです)という可能性もまだあると思います。補足で挙げられたもうひとつの例、北海道の郵便局員が自分宛のハガキの「入営通知書」を受け取った話は、私もNo.2の回答の前に見てます。だって「入営通知書」でネット検索すればすぐに出てくる日本の例はこれと合わせても1つ2つぐらいしかありませんから。あとはほとんどキムだのパクだの日本じゃない国の話ばかり。だからこそ私はネットで出てくるお爺さんの思い出話は、ハガキの「入営通知書」のソースとしてはやや弱いと書いたんです。「召集」じゃなくて「招集」という初歩的な誤変換を放置してあるレベルのサイトですし、日記を書いている人ならわかってもらえると思うんですが、忙しくて書けなかった数日前のぶんを記憶だけで書くことあるでしょ、あとでチェックしてみるとほんの数日前のことでも記憶だけに頼るといいかげんな事を書いていて、事実と食い違っていたなんてよくありますよ。悪意ではない勘違いですよね。

ここまで書いて「なんだこいつ、あれも信用できない、これも嘘かもしれないとネガティブな回答ばかり」と思われるかもしれません。しょうがないんですよ。ともかく日本の軍隊に関して戦後の日本では、変なイデオロギーのせいで情報が歪みまくりましたから。軍隊(とくに陸軍)を非人道的な存在の典型にしないと世間が許さないという風潮なんで、イメージでいいかげんなことを書き散らす人が多すぎるんですよね。それで私はどうしても慎重になります。yoshinobu_09 さんは他の質問を見ても日本の軍隊の制度的なものに興味を持たれているようですが、私の場合、趣味のひとつに戦前・戦中のナマの文献を読むというのがあります。たいしたことをしてるわけじゃなく、国会図書館の近代デジタルライブラリーで読めるものを読む、アジア歴史資料センターで読める法令、公文書などに目を通すということをしてるだけです。知りたいことが必ず出ているわけではないし(むしろ無いことが多い)、法令などは大変に読みづらいもので根気が必要ですけどね。ただ、ナマの歪められていない資料に慣れてくると、ネットの雑文とか金儲け主義の書籍とかが胡散臭いものに思えてくることもしばしばです。

http://kindai.ndl.go.jp/
http://www.jacar.go.jp/
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
貴方のようなこだわりを持つ方は大変貴重と存じます。
映画の件は原作にあたる必要がありそうです。
もしかしたら「入営通知書」という公的書類はなく、
召集令状在中の封書のことを指すのかもしれません。

「一銭五厘の郵便ハガキで召集令状を受け取りに来いというハガキ」
たしかに怪しいですね。
昭和12年4月1日に郵便ハガキは二銭に値上がりしています。
支那事変が同年7月ですから、一銭五厘の時代には対象者はそんなに
多くはいないと思いますが。

次のようなものがありました。
「召集アリ直グ役場ニ来タレ」上野役場からの令状
http://www.pref.mie.lg.jp/FUKUSHI/heiwa/shiryou/ …

青紙は郵送されたものもあったようです。
http://blog.goo.ne.jp/nagoya-jp/e/ff4c19c1ed95a1 …
http://katarazuni.blog20.fc2.com/blog-category-3 …

召集令状在中封書
http://isokaze.blog75.fc2.com/blog-entry-391.html
兵事(事務)はがき一銭五厘
http://isokaze.blog75.fc2.com/blog-entry-390.html

お礼日時:2012/12/25 22:21

> 入営通知書というのは郵送で、ハガキか封書


> (映画「戦争と人間」)だったようです。

それって本当に正確な事実なんですか? ソースはその映画だけですか? だったらちょっと怪しいのでは? 調べてみると映画『戦争と人間』は第一部でも1970年公開で第二次大戦終了から25年も経ってますね。脚本を書いた山田信夫は終戦時13歳、軍隊経験者ではないでしょう。監督の山本薩夫は軍隊経験がありますが当該映画の製作時は60歳前後、どれだけ正しく戦争中のことを記憶しているでしょう(まして山本薩夫は思想面からも正確中立な描写ができるか疑問であるというのが私の個人的意見)。

「入営通知書」なる物の存在が疑問です。ネット上で調べてみた限りでは日本の軍隊関係ではほとんど出てきません、「入営命令書」ならあったようです。どうも「入営命令書」というのは“現役兵”が徴集されて入営するときの書類のようです。
http://www.pref.aichi.jp/kenmin-soumu/chosakai/t …

召集令状(いわゆる「赤紙」は何種類かある召集令状のうちの一部)は“予備役兵”(現役兵の務めを満了して民間に戻っていた者)、“後備役兵”(予備役の期間を終えた者、1941年に後備役は無くなり予備役の期間がそのぶん長くなった)、“補充兵”(現役兵の務めを経験していない者)たちが受けるものです。“現役兵”として入営する者は召集ではないので「赤紙」は無関係ですよね。

日本の徴兵制度は20歳の男子、詳しく書くと前年12月1日から当年11月30日までに満20歳になる者のうち、すでに志願により軍籍にある者(志願兵や軍学校の生徒)と上級の学校に進学し最大27歳まで徴兵が猶予される者(この猶予をされなくなったのが、いわゆる「学徒出陣」)などを除いた全員が指定された日時と場所で徴兵検査を受けることになってました。検査は町村、あるいは区単位で4月16日から7月31日の間に行われ、甲種、乙種、丙種の合格者と丁種(何らかの障害がある者)、戊種(検査時に疾病や怪我などのため翌年以降に再検査を要する者)に分けられました。そして大きな戦争がなかった昭和初期などは、甲種合格者のうちから抽籤で当たった少数が“現役兵”として入営しました。1937年(昭和12年)に日中戦争が始まる前までは、徴兵検査を受けた総員の15%程度(甲種合格者の約半数)しか“現役兵”にならなかったそうです。残りは“補充兵”になります。

そして“現役兵”に指定された者には「現役兵証書」というのが届けられます。徴兵検査が4月半ばから7月の間で、「現役兵証書」は9月ごろに届けられ、そこには入営の日時と場所が記されています。軍の事情で12月1日から翌年の春にかけての任意の日だったようですが日中戦争前までの陸軍では1月10日というケースがよくあったようです。この「現役兵証書」も現物写真を見ると右側がミシン目になっていて切り取られたようなので、臨時召集令状(「赤紙」)と同じく本人または近親者に手渡しをして、押印の受領証部分を担当者(役場の兵事係?)が持ち帰った可能性があります。少なくともハガキのようなものではありませんね。
http://www.library.pref.nara.jp/sentai/gallery00 …

“現役兵”に指定されなかった“補充兵”(“第一補充兵”と“第二補充兵”)にも「補充兵証書」が届けられます。やはり右側がミシン目になっていて切り取られたようにも見えます。
http://www.library.pref.nara.jp/sentai/gallery00 …

こうした「現役兵証書」や「補充兵証書」は文献でも確認することができます。けれども私が探してみたところでは「入営命令書」に関する文献はわかりませんでした。ここから先は私の想像なので正しい回答かどうかは確かではありませんが、「入営命令書」とは「現役兵証書」が終戦間近になって、その名称を変えたのかもしれません。なぜなら1944年(昭和19年)ごろの戦争末期には徴兵検査を受けた者のうち“現役兵”となる比率が約90%にまでなったというからです(http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/ …)。そこまで現役兵が増えると、わざわざ「現役兵証書」とするより「入営命令書」という形式にしたほうが話が早いですから。現物の写真がある「入営命令書」も昭和20年のものです。そしてそれが郵送されたかどうかは積極的に否定するだけの材料を持ちあわせていませんけれども、私はマユツバだと考えます。こういっては失礼ですが、お爺さんの思い出話といったサイトは(読み物としては面白く私も好きなほうですが)史実を正確に伝えているかという点で信用に値するものは少ないのではないでしょうか。

参考URL:http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1438251

この回答への補足

詳細な解説ありがとうございます。
映画を再見しました。
受け取ったのは二十歳そこそこの勤労青年(天涯孤独の身)で、
時は南京陥落直後、昭和12年12月ぐらい、封書
表「公用 速達 切手2枚貼 東京都XX ○○様 入営通知在中」
裏「仙台市役所兵事課」とあります。
徴兵検査を受けた場所と離れたところに居住している場合は、
入営通知を郵送したのかもしれません。
入営通知とは、たぶん召集令状のことでしょう。
昭和20年ですが三島由紀夫は、群馬の工場で勤労動員されているときに、入営通知を電報で受け取っています。徴兵検査を受けたのは本籍のあった兵庫県でした。
この入営通知は残っているようです。
http://www.mishimayukio.jp/floorguide.html
ハガキや電報では、入営手続きに必要な召集令状がないので、どうしたのか気になります。

一方で、下記のサイトでは、
http://www.asahi-net.or.jp/~id1m-ssk/
「郵便葉書から区分に取り掛かって間もなく、私宛の葉書に目が止まった。それは紛れもなく私への入営通知書で、一瞬息の詰まる思いであった。愈々俺にも来たかと声にもならぬ呟きをしながら、入営通知書を胸のうちポケットに入れ区分を続けた。」
「自宅から出勤した村上局長に、入営通知書を差し出し、入営通知があった旨を報告した。」
と具体的です。郵便局員が、自分あての郵便物を間違えて記憶するとも思えません。
入営まで1と月以上あることから、召集令状の先触れのようなものではないかと想像します。

補足日時:2012/12/09 05:41
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 召集令状は、あなたが書かれた通りの手順ですが、



 兵事係が届けることができない外地、たとえば満洲、台湾、南洋などへは、入営通知を郵送で送ることになっていました。

参考URL:http://www.sakado-gr.org/sensou-taiken/taiken/11 …

この回答への補足

参考URLには
「現役兵入隊通知書受領」とありますね。
そんなものがあったのでしょうか?


赤紙、召集令状は、役場の兵事係が
本人に手渡していた。栃木県郵便史の
著者、塚田保美さんが教えてくれました。
 その上で、赤紙と同じく、入営通知書が
あり、こちらは一銭五厘の郵便はがきだったと
指摘されました。
http://cc9.easymyweb.jp/member/hanadomannaka/def …

こちらの人は北海道で入営通知書をはがきで受け取っています。
http://www.asahi-net.or.jp/~id1m-ssk/

映画「戦争と人間」では、入営通知書を東京で封書で受け取っています。

補足日時:2012/12/08 22:18
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