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過去において、国どうしの色々な事変がありますが、その国によって、あまりにも認識に違いがあります。残っている文献や、さまざまな資料などで、違いが生じることはあると思いますが、ここまで違うのはなぜなんだろう、やはり国民感情が優先されてしまうのだろうか、南京資料館で見た写真なんか、あきらかにトリックだろうって物がたくさんあったよ、これじゃあ、たがいの有識者での誠実な討論なんてできる訳ないだう、韓国しかりです。まっ、日本だって、フィリピンでやむをえず原住民を虐殺したみたいですけど、ベトナムで米国がやった事に比べたら規模は小さいもんだと思います。これが勝てば官軍なんでしょうね、ちなみに米国と日本の場合、そうほう客観的にすすめられている感じがします。

A 回答 (3件)

認識の違いはどこの国家間、個人間でもある。



認識の違いが商売になるかどうかの話です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/02 18:43

 早々の折り返しをいただきまして恐縮です。


>私が言いたいのは、思想ではなく、事実です。
 質問者様が仰りたいことと、ご質問の内容は明らかに矛盾しています。次の一節がそれを如実に物語っています。
>まっ、日本だって、フィリピンでやむをえず原住民を虐殺したみたいですけど、ベトナムで米国がやった事に比べたら規模は小さいもんだと思います。
 これは質問者様の「15年戦争に対する評価」であり、こうした「解釈」を歴史学では「歴史認識」およびそれに基づく「歴史叙述」と呼びます。
 「歴史事実」とは文字どおり「何年に誰それが何をした」とのデータであり、それに関しても様々な見方があります。たとえば「鎌倉幕府の成立」を質問者様は「いつ」とお答えになりますか。現在の日本史学それも中世史研究者の間では少なくとも3つの説があります。それはなぜか。「鎌倉幕府という存在」をどう理解するかによって、規定の仕方が異なるからです。
 そうした視点からすれば、質問者様からの補足は正鵠を射ていないとの形になります。
現在では、日中韓の歴史学者による共同研究の成果もまとめられ公開されてもいます。学者間の議論ですから、それはきちんとした論拠の積み上げによるものであり、この部分は一般的認識とは差違も生じています。民間のそれも一部の特定的なイデオロギーを背景とする自由主義史観なる言説こそ、歴史学では最も忌避されるべき対象です。
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この回答へのお礼

たびたび、ご返答ありがとうございます。
さすがに、鎌倉時代の正確な資料は残ってないでしょうね、あっ、それ言ったら、戦前の後進国だって、まともな資料は残ってないし、記録もしないですよね、そう考えたらこの質問に答えはないのかなあ

お礼日時:2013/03/03 10:57

 こんにちは。

いささか興味のあるご質問ですのでお話の渦中に加えていただければ幸甚です。
>ちなみに米国と日本の場合、そうほう客観的にすすめられている感じがします。
 このお言葉の印象ですが、「相当に事実を知らない」と僕は感じました。アメリカのスミソニアン博物館にお出でになればわかりますが、その展示物の一つに例の「エノラ・ゲイ」があります。この展示に関しては90年代に一悶着あったことも知られています。そう「展示内容に『原爆被害』を含めて、当時の状況を再現する」との当初の目的に対し、アメリカの在郷軍人会をはじめ退役軍人会などからの圧力により、展示規模と内容に修正と縮小が加えられたとの経緯です。日本からみれば「格の恐怖はその瞬間だけに及ぶ性質のものではない」ことなどつとに知られている事象の一つです。けれどもアメリカの歴史教育では「核攻撃によって戦争を終結に導くことになった」などの歴史認識が恰も正当な答のように記されている。この一つをとってみても、彼我の相違を読み取ることができませんか?。
 質問者様は15年戦争をベトナム戦争と比較して「規模は小さいものだ」とお考えかもしれませんが、これは歴史認識を構築する際に「最も忌避されるべき姿勢」の典型とされる問題です。15年戦争とベトナムでは意味自体が異なり、それぞれの背景に基づいて議論されねば意味もありません。なぜアメリカが本土から遠く離れたアジアの地で、何を目的としてあの様な不当な行為に及んだのか、それを15年戦争と短絡的に比較することなどできない話です。とはいえ、僕自身も15年戦争を正当な行為として認めているわけではありません。本来ならば日本の領土ではない地域に既得権益を求めるために軍事行動を展開した事実は消すことなどできません。その重さを比較対照し「こちらの罪は、そちらより軽いもの」と断ずるほどの意味がどこにあるでしょう。少なくとも僕にはその様な不遜な行為はできません。
 歴史認識での「客観性」は「歴史事象とそれを記した史料」をどこまで対象として観察することができるかとのただ一点の問題です。本来ならば、そこに権力が介入するほどの余地など微塵もあってはならない。
 残念ながら、それが現状でできているのはヨーロッパの一部以外にはありません。アメリカそして日本、中国・アジア・イスラムでは何らかの権力装置が少なからず作用している。このことだけはお忘れのないように。
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この回答へのお礼

私が言いたいのは、思想ではなく、事実です。たとえば、エノラレゲイが何時、何分、高度何キロから、どこで落としたか、とかです。他の国ですと、そんな事はないとか、10人しか死んでいないのに、1000人も死んだとか、平気で言うじゃないですか
ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/02 18:42

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