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相手を痛めつける機会にも恵まれず、

想像を絶するほどとことん憎しみ抜いた果てに

たどり着く境地はどのようなものだと考えますか?理由も合わせてお答えください。

A 回答 (20件中1~10件)

再度の回答ご容赦下さい。


憎しみ抜いた果てにたどり着く境地は前回答と同じく虚無感ですが、
真正面から何度でもその憎しみの心に、自分の心に正直に偽りなく立ち向かって行かずに
放置し続け心を置き去りにしてしまうと、
いつの間にかなぜかわからず涙を流している自分に気付き、
なぜか泣いている自分に悔しさと虚無感を感じ、だんだんと心が壊れていってしまいます。
その時にはもう相手への憎しみはもうありません。
自分へ憎しみが還って来たということでしょう。相手へ向けた気持ちは必ず自分の素へと還ってくるのです。亡くした自分の心を想って自分の心が哭いているのでしょう。
やはり人は自分の心をまず何よりも先に優先しているのだと思います。本能でしょう。
それが一番良いことだと私は思っています。自分の心も相手の心も大事にする。大切にする。
自分の気持ちも心も体も大事にしてゆく。その上で相手の心と気持ちを頒かち合う。
でないと本当に何もかもが無くなっていってしまいます。
結論と致しましては、
境地へは確かにたどり着く。です。
ですが憎しみ抜いた心ではなく、憎しみが消えた後の心が境地へたどり着く。が、私なりの自論と結論です。心に穴が空くのです。空いた心の穴を埋めるのは並大抵ではありません。
蝕んでいった憎しみは心に穴を空けます。
心に穴を空けた憎しみは、その憎しみが一時どこへ行こうと必ず自分の素へと還ってくるのです。
以上で回答を終わりにしたいと思います。

憎しみごと心を果てへと持って越えてゆける心があれば生きてはいけます。
果てしなく突き抜けていく心が大事です。槍通す。です。
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この回答へのお礼

貴重なご回答ありがとうございます。

机上の論ではない感じがしました。

お礼日時:2013/03/17 19:36

> 憎しみの果てに何が待つか


> 相手を痛めつける機会にも恵まれず、とことん憎しみ抜いた果てに、どこにたどり着くか
> 克服したい。先は平穏であってほしい。狂気の世界に入り込むしかないと思います。
> 復讐したほうがよっぽど良いですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
人間で、150歳以上に生きた人はいないでしょう。 
人間は、死にたどり着くのが普通です。
最近は、死ぬ前にぼけてしまったり、人事不省で病床に寝ていて死を迎える人が多いようです。突然の事故で死ぬ人もいて、中には、死ぬことに気付かない人もいるでしょうが、災害や疾病、犯罪被害などで死ぬ場合も、多くのケースでは「こりゃ死んじゃうな」と思ったり、「死にたくない」「こんな苦しみや痛みやイヤダ」とか思ったりするのではないかと思います。
ということは、
【ほとんどの人がたどり着く最後の境地は、憎しみや復習とは無関係】だということです。
 
非常に珍しいケースでは、最後まで怨念を持ち続け、怨霊にでもなりそうなことがあるのかもしれませんが、たぶん、ドラマや物語の世界以外では、実際にはほとんどそいういうことはないでしょう。 

人間って、結構状況の生き物で、3日間も連続して起きてはいられず、どうしても「眠い・寝たい」という気分が最大のものになって当人を支配します。 喉が渇いても、腹が減っても同様です。 水中に潜れば、1,2分でとにかく息をすることに必死になります。
想像を絶するほどとことん憎しみ抜いていてようが、相手を痛めつける機会がなくなろうが、その相手にさえも「助けて!」と言いかねないのが、【たどり着く境地】だともいえます。
 
【たどり着く境地】でなにをイメージし、なにを求めているのでしょう。
人間は状況次第で次々変化してしまいます。
誰かを想像を絶するほどとことん憎んでいて、ところがその相手が死んでしまったら、その後もその死んだ人物を想像を絶するほどとことん憎み続け、その死んだ相手を痛めつける機会に「恵まれないな~」と思い続ける人は、とても希でしょう。 多くの人は、排泄のためにトイレを探したり、就寝の寝具を整えたり、飲食に気を配ったり、そうした日常生活に大半の時間を割き、頭も体も使うのでしょう。 それが【たどり着く境地】でしょう。 
たどり着くのは{一つの固定した状態}ではなくて、{時々の状況で動揺流転・千変万化する}状態のハズです。
 
想像を絶するほどとことん憎んでいる相手や集団が存命で、隆盛を誇っていても、ほとんど同じでしょう。 【たどり着く境地】など、普通の日常生活や通常の老人の生活などと大して変わりはありません。  
想像を絶するほどとことん憎んでも、想像を絶するほどとことん愛しても、特に強い愛憎に駆られていなくても、【たどり着く境地】など変わりません。
 
残念と思うかもしれませんが、「想像を絶するほどとことん憎み続けて3年、5年、10年、30年」というようなことは、人間にはできません。 
トラウマでPTSDのようになれたとしても、案外に多くの時間は憎しみから離れて生活していてということになってしまいます。
狂気の世界に入って行くこともないわけではないですが、憎しみ抜いていくつもりでも、そうした生理的な資質を持っていたりしないと、狂気の世界にも入れないのが普通です。百人の人が同じような状態になっても、狂気の世界に入れるのはそうした資質を持っている少数者だけです。PTSDでも半数以上の人間はなれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

PTSDとは何でしょう。

お礼日時:2013/03/19 22:44

>たどり着く境地はどのようなものだと考えますか?



天網恢恢。
天知る地知る。

「あいつもきっと天罰があたる」と考え、自らが復讐する労力を節約する事にしています。
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この回答へのお礼

復讐を我慢することに労力を使うのです。

お礼日時:2013/03/19 22:42

補足請求ありがとうございます。



>ならば復讐したほうがよっぽど良いですね。

見知らぬあなたを止めることは、私には出来ないでしょう。
人が救われないのは、傷つけ返そうとしている自分がいるからですが。。。


>そのあとで恨むことなんていくらでもできるんですから。

恨んでも、法では裁かれませんが報復は時として裁かれます。

自分が自分を恨みに駆り立てれば、苦しみは増していきます。
自分を一番苦しめてるのが自分だと分かるまで続きますよね。

許せば平穏は来ますが、ここで私が正論を語った所で許せるとは思いません。


>想像を絶するほどとことん憎しみ抜いた果てに

許す時は、もっときついですよ。
ただ、それでも許すのは自分のためなのです。
相手を憎むことに自分のこの先の人生を捧げないためにね。

ご自分を本当の意味で大切にできる時が来るよう願ってます。
今の自分を超えることが哲学の醍醐味と思ってます。
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この回答へのお礼

許すときの辛さ。

確かにと思います。

お礼日時:2013/03/17 19:31

 私の回答がダブってしまいました。


 ごめんなさい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

思いやりのこもったご回答に思いました。

お礼日時:2013/03/17 19:29

 yozoraさんの苦しみが解るような気がします。



 憎しみから逃れたいけど手段が判らない、だから憎しみ抜いて克服し、平穏な世界を望むと云い、
そのためには狂気の世界に入ることも辞さないと言っているので、再度私の思いを述べてみたくなりました。
 yozoraさん。
 なぜ苦しむのか、気が付いていますか。

 人の心は神仏とつながっている“好ましい心”と悪魔とつながっている“好ましくない心”があります。
 苦しんでいるのは悪魔の心だと思いますか?
 憎しみを与えられて“俺の出番だ”と云って嬉々としているのは悪魔だと思いますが、yozoraさんは“嬉々”としているのではなく、苦しんでますね。
 
 それは好ましいほうの心が、です。

 人の心の優しさとか、思いやりとかの、好ましいほうの心「良心」が苦しんでいるんです。
 この事は私の回答へのお礼文で、解かります。

 人の「良心」は神仏と繋がっています。そう思えば人の「良心」は神仏の心の反映、と言い換えることもできます。

 物理や科学の世界にはないけれど、精神の世界、宗教的世界に於いてはなぜか人々は手を合わせます。
 面白いですね、不思議ですね。

 我々日本人は信仰生活をしていなくても、お盆には御先祖さんを忍んで両手を合わせますが、やはりそれには、理由とか、効果とかを受け入れているからでしょう。

 yozoraさん、一度両手を合わせてみてください。自分のために。
 お仏壇の前では、仏様を思って手を合わせます。お墓の前ではご先祖さんを思って手を合わせます。

 でも、yozoraさん。
 一度ご自身の為に、手を合わせてみてください。

 こんなに苦しんでいるご自身の心を想って、手を合わせてみてください。
 そうすれば涙が出てくるかもしれません。泣けるかもしれません。そうなったら、思いっきり泣いてください。
 思いっきり!

 
 
 

 

 
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 yozoraさんの苦しみが解るような気がします。



 憎しみから逃れたいけど手段が判らない、だから憎しみ抜いて克服し、平穏な世界を望むと云い、
そのためには狂気の世界に入ることも辞さないと言っているので、再度私の思いを述べてみたくなりました。
 yozoraさん。
 なぜ苦しむのか、気が付いていますか。

 人の心は神仏とつながっている“好ましい心”と悪魔とつながっている“好ましくない心”があります。
 苦しんでいるのは悪魔の心だと思いますか?
 憎しみを与えられて“俺の出番だ”と云って嬉々としているのは悪魔だと思いますが、yozoraさんは“嬉々”としているのではなく、苦しんでますね。
 
 それは好ましいほうの心が、です。

 人の心の優しさとか、思いやりとかの、好ましいほうの心「良心」が苦しんでいるんです。
 この事は私の回答へのお礼文で、解かります。

 人の「良心」は神仏と繋がっています。そう思えば人の「良心」は神仏の心の反映、と言い換えることもできます。

 物理や科学の世界にはないけれど、精神の世界、宗教的世界に於いてはなぜか人々は手を合わせます。
 面白いですね、不思議ですね。

 我々日本人は信仰生活をしていなくても、お盆には御先祖さんを忍んで両手を合わせますが、やはりそれには、理由とか、効果とかを受け入れているからでしょう。

 yozoraさん、一度両手を合わせてみてください。自分自身のために。
 お仏壇の前では、仏様を思って手を合わせます。お墓の前ではご先祖さんを思って手を合わせます。

 でも、yozoraさん。
 一度ご自身の為に、手を合わせてみてください。

 こんなに苦しんでいるご自身の心を想って、手を合わせてみてください。
 そうすれば涙が出てくるかもしれません。泣けるかもしれません。そうなったら、思いっきり泣いてください。
 思いっきり!

 
 
 

 

 
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一神教を崇め奉る信者の末路と一緒です。

この回答への補足

その末路とはどんなものでしょう?

信仰と憎しみは違うものと思いますが。

補足日時:2013/03/15 23:33
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/15 17:28

憎しみ続けるなら、あるのは破壊か自己崩壊です。


精神が病む所まで行ってしまうかもしれません。

平穏になるには、今の自分を超えていくしかないですね。

この回答への補足

ならば復讐したほうがよっぽど良いですね。

そのあとで恨むことなんていくらでもできるんですから。

補足日時:2013/03/16 00:09
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/15 23:30

 憎しみの果ては崩壊です。



その崩壊が他者に向けられ快楽に感じるのが

・【虐め】{【侮辱】【差別】【嫌がらせ】【苦渋を与える行為】【暴力・暴行】【集団暴力・集団暴行】}
・【一般的暴力】
・【虐待】
・【パワハラ】
・【体罰】
・【殺人】{【快楽殺人】・【憎みの対象に対する殺人】}
・【その他新種】

大まかに分けるとこれ位です。


自分に向けられ場合

・【自虐】
・【自責】
・【無気力】
・【自殺】

とまあこれ位です。


【解決】

・他の人が仰るように『個人で解決できそうでなお且つ解決する事に価値のある場合個人なりに解決する』例「裁判にかける」「問題点を解決する」等
・個人的に解決が難しい場合『気にしない』つまり時間がその内解決 例「忘れる」「今思い返してみると大した事ない」「逆に勉強になった」等
 というのが個人の場合解消ということに繋がると思います。

・ただ憎しみの対象によっては一人では解決困難なものもあります。その場合集団が一丸となって解決するという事につきるわけで、個人が出来るのはその出来事の解決案を述べてみるという位です。例「市町村・都道府県・国等に提案を出す」というものです。

・いなす、これは意外にも簡単で集団でも個人の場合でも有効です。平たく言うとさらりと流すということです。しかしそれも旨く行かない場合『逃げる』です。

・その他新種
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/03/15 17:27

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