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「悪いことをしたらバチが当たる」とか
「いい事をしたら自分に全部かえってくる」といった事を聞きますが

仮にこれが本当だったとして、100年あるかどうかの人生で収束するのですか?

悪い事を無限にすれば、その内バチっていうのが当たるかもしれませんが
100年前後の短い試行だと、死ぬまで起こらない人も多い気がするので

結局、こういった脅しというか戒めは効果なしだと思うのですが
これらはあくまで人生の範囲で起こるのですか?

A 回答 (15件中1~10件)

幸福の科学の教えでは、質問者さんの推測どおり、100年程度では、生きている間に作った「カルマの精算」はできず、次回の人生、あるいは、何度もの人生で帳尻を合わせることもあるといわれています。



例えば、戦争で敵を殺していも、善悪を問われることはありません。戦って国を守るために敵兵を殺すことは義務でもありますからね。
でも、そうだからといって、敵兵の目をくり抜いたりして、楽しんで殺すのは、罪になるでしょう。
その人生において、バチがあたればいいですが、そうじゃあない場合は、次回の人生において目の病気になったりして帳尻を合わせることになると思います。

そういう意味では、なんらかの障害を持った方は、過去世において、カルマがあり、その帳尻を障害を持つことで合わせているケースもあるようです。
とはいえ、何らのカルマも無いけど、「こんな障害を持って生まれた私でも、努力して立派になれた。五体満足な皆さんは、私よりも立派になることは容易なはずですよ!」と皆を励ますために、望んで障害者になる人生設計を「あの世」で計画される方もいます。なので、「障害者だから、あなたは前世で悪人だった」とはいえません。

いずれにしても、すべての人間には、仏性があり、死んであの世に戻ったら、自分自身の仏性により、自分の生きていたころの行為について検証・反省することになります。その反省において、「自分が悪かった、でも、それは小さな過ちであった」と思うなら、小さいマイナスがある次回の人生計画を立てるでしょうし、「詐欺行為で多数の人を苦しめた。何十人かは自己破産して自殺した、悪かった!」と思うなら、次回の人生では、詐欺に騙されるとか、大きな経済的問題が発生する人生設計を立てるでしょう。

日本では、閻魔大王、エジプトでは、オシリスが死者の罪業を計るわけです。まあ、大悪党は、そういう裁判官のような人が罪を計るケースもあるようですが、それほどでもない方の場合、「私の人生はトータルとして罪深いものだった。次回の人生で帳尻を合わせたい。」とまずは自分自身で帳尻計算するみたいですね。
だから、周りからみて「それは貴方の責任ではないですよ。気にしなくてもいいです。」と言われても、「いえ、結果として知人の子供を死なせてしまいました。だから、次回は、自分の子供を失う人生計画を立てて、知人の悲しみを分かりたいです。」というような人もいるでしょうね。
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貴方の質問の真意が、人間としての自分の生き方や生甲斐や、自分の人生の価値として捉えるなら、「悪いことをしたらバチが当たる」とか「いい事をしたら自分に全部かえってくる」と言う事は、『全てに於いて直ぐに自分に跳ね返っていると思います。



この意味は、一度きりの自分の人生の価値を『お金や欲望や他人の不幸を土台として築き上げようとする事が』如何に『価値が無いものか?』と思います。

今の流行だけを追って、人の欲しがるものを自分が追い求める人生では、本当の自分の心が『欲求不満になると思います。』

真摯に本当の自分の人生を求めるなら、自分自身に正直に生きる生き方が良いと思います。お金や地位や名誉や、流行にしか価値が見出せない事は『本当の自分の心を騙し続ける事になるかも知れない?』と思います。

真実の自分の人生を歩く事を考えた場合では、お金が無くともその中に幸福の種を見付けて、育ててゆく事だと思うからです。お金のあるなしや、背の高低ではなく、地位の高低ではなく、お互いに思い合って、はかない人生を助け合って、自分を捨ててでも他人に尽くす事がある場合でも、『命の大切さをお互いに分かち合って』ゆく事が、満足出来るなら、『他人をうらやむ事が虚しくなるかも知れません。』

自分の人生の価値観をもっと、長いスパンで考える事で、その価値観は逆転するかも知れません。
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その昔、古代中国では主殺しの周に仕えず忠義を貫いた伯夷と叔斉が首陽山に隠居し最後には餓死したが、盗賊の親分の盗跖はやりたい放題やって裕福に天寿を全うしました。


司馬遷はこれを「史記」列伝の冒頭に置き、「天命、是か非か」と問いかけ、現実の世界では因果応報が成り立っていない、なぜ人間社会ではこのようなことが起こるのか、歴史を書くことで答えようとしました。
これが「史記」が古典として現代でも読み継がれいる所以です。
今の日本でも、福島原発を爆発させて放射能をまき散らした東電幹部は悠々と暮らし、福島県民は悲惨な避難生活を強いられております。
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私が思うに、


人の行動が、人の人生をつくっていくとすれば、
まさに、悪いことをすれば、悪い人生になる
という古人の考え方ではないでしょうか。
意外に単純な考えが、むしろ真理として理解され
やすかったのではないでしょうか。

私はひとつの仮説をもっていますが、
それが並行宇宙という仮説です。
それは、私の行動が、なんらかの形で、並行宇宙に
影響を与え、並行宇宙の変化が、私に影響を及ぼす
というものです。なぜなら、私たちの世界は、
並行宇宙との交差によって、今この瞬間が現実として
成立していると考えるからです。
しかし、存在と時間の研究は、未完成らしいので、
とりあえず仮説としておきますが、
この考え方を採用すると、実にリアルタイムに
因果応報となるわけです。

このごろは、11次元という話を見聞きします。
バチを当てる空間が、自分の目の前に既にある
可能性はゼロではない。
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科学的思考と認識論は分けなくちゃいけねぇな。



因果応報とか勝者必滅ってのは認識論であって科学的考察ではないからね。

>これらはあくまで人生の範囲で起こるのですか?

人生の範囲で帳尻が合うと認識しておくのがお勧めです。
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自業自得 天に唾をする 一事が万事と言いますねえ



天網恢恢疎にして漏らさずとも言います

悪いことをして楽しくて面白おかしく人生を終る人間もひょっとしたらいるかもしれません

いいことをしても報われず リュウマチになったり癌になったり 何でこの人がと思うことも在るでしょう

人生はそう言う意味で厳密にも普通にも公平にはできていません

悪い事をした人の罰が良い人に下ったりもします

笑えませんねえ 長崎に原爆 キリスト教国がクリスチャンお待ち長崎市街地に原爆を落としたのです

これをどう説明するのか 何らかの説明が付いてると言うから 神業と言うか 信じられないですねえ

我々はただ 早めに自分の生きる目的を知る事です 宗教でもいいですよ

そしてその目標に向かって吉田沙保里選手のように Qちゃんのように やわらちゃんのように邁進するのです

これは案外楽です 貧乏でも耐えられます。

運が悪くても目的を見失わなければ頑張れます 大概

その目的を 実は僕も持っています 宗教でも 間違ってるかもしれません

それでもこれが最善 これが真実と信じたら 後はそれが生甲斐になってくれます

悪い人は大概その様な目的は持っていません 持っていても良くないものです だから悪い人と言うのですが

人生で運命を恨まずに 不運の時も乗り越えるには 人生の目的を持つ事が一番です。
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「人生の範囲で」と言いますが、人を愛し、人の喜びを我がもの


とする事ができれば、自己の意志は肉体に拘束されても、その
達成感の対象は、肉体を超え人生を超え、果てしなく広がります。
全ての宇宙は、あなたの心の中に存するのです。
それを肉体に束縛するのは、肉体に付属した本能的衝動や
短絡的感情に流される、あなたの認識の浅さによるのです。
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因果応報ですね。


悪因悪果
善因善果
自因自果
お釈迦様が言われてます。
例外なく必ず起こると言われてます。
つまり100年にもならない現世で収束しなければ
カルマ(業)となり来世に持ち越されると言うことです。
六道輪廻です。
hekiyuが言われるよう情報化社会いくら広がっても
現世には実際見てきた人がいないので正しい情報を知ることは出来ません。
ukiyotonboが言われるように悪いことをしても大丈夫なんて
何故言えるのでしょうか?
ukiyotonboの根拠のない思いこみに過ぎません。

誰も実際現世には見てきた人はいませんが、人間は必ず死にます。
そのとき因果応報や六道輪廻が有ればどうしますか?
仏教では必ず有ると言ってます。
だから現世にいるときは善行を行いましょう。
死を迎えた時安心できます。
もし、死後本当に六道輪廻が存在した時、慌てなくて済みます。
悪行ばかり重ねるとukiyotonboが地獄の入口で待ってまよ。
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元々加護を受けていない者は不善をしても影響は少ないのだと思います。


妄想だらけに妄想をひとつ加えても何も感じないように。

一方、明鏡止水の境地に達すれば、妄想のひとつでも邪魔に感じていきます。
具体的には、かすかな憎しみでもあれば閃きは鈍り、一瞬で解決できるところを
数週間かかってしまったり、危険の兆候を見逃したり、不注意による下手を打ってしまったりします。

結局、「報いがあった」というのも相対的な判断でしかすぎず
例えば、いつも調子の悪いパソコンであれば、それが普通になり
いつも快適なパソコンが不調になれば、その原因に敏感にならざるえません。

結論、報いは即来るが、気付かなければ来ないも同然。
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 こんにちは。



 これはですね。意味があります。


 悪人がのさばっている事実について腹を立てず
 その人たちも われらとまったく――存在としては――同じ人間であると捉え
 その行為としての悪を憎み(これは 徹底的に憎み なお憎み切り)
 その存在としてはおのれを愛するのと同じように愛してやる
 という振る舞い

 こういう振る舞いを生活日常にあって難なくこなせる人が増えて
 水かさを増しておおむね世界における現実となったとき
 すなわち 《収束を見る》。
 こういうことになっています。

 多くの人がいまこのように成ったなら この瞬間に《収束が成りましょう》。

 この歴史方程式の中身を
 ★ 結局、こういった脅しというか戒め
 ☆ としてじんるいは 表わして来たようです。
 奥ゆかしさなのか はにかみやなのか 自省の心がふかいゆえなのか
 ピントをわざとはづしたのか
 じんるいの知恵がそんなかたちに現われて来ている。のでしょうね。


 ですから
 その世界のただ中へわざわざつるぎを投じるだれかさんみたいな人も
 ときには現われましょうね。
 すなわち その方程式は 敵は本能寺だよというかたちで表現されていると
 その内実を明かしたのでしょうね。
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