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こんばんは。


ジユーとビョードー、
ジユーのほうが個人主義で、ビョードーのほうが社会主義でしょうか


(1)ジユーだ、ジユーだ、ジユーだ、というと、・・・じゃあ、ビョードーって何よ?となる。

(2)ビョードーだ、ビョードーだ、ビョードーだ、というと、・・・じゃあ、ジユーって何よ?となる。


日本人?には、むしろ(2)のほうがピンと来る、ような気がする。
・・・じゃあ、ジユーって何よ?

A 回答 (20件中1~10件)

古の昔から、階級の垣根を越えて実力を示す機会があるのは競技ですね。


奴隷も異国人も競技場に立つ。
でも黒人のスケーターや黒人のテニスプレイヤーはなかなか出にくい。
領域や環境に個人が関わる機会の差がそういうふうに現われているのですね。

日本のサッカー選手はどんどん世界に出てますね。
身体能力的にも、判断面でも、動ける選手は増えましたね。
日本政府が平等を保障し、個人の精神が自由で、国家経済がバランスよく力を蓄えているから、
日本人は自分で動くことができて当然です。
でも、領域や環境にどこまでも関わろう(善し悪しでなく)とする意識というのは、
欧米は日本の比ではないんです。

サッカー選手が「勝ちを取りに行く」なんていう手垢の付いた言い回しをしますが、
まあそのレベルで「動く」んです。

日本の料理人が外に出なくなったとか、学生が留学しなくなったといわれますが、
何かを学ぶ学ばないは横においといて、
ガツガツと人と関わるっていうメンタリティをどう持ち続けて生きようか、というのが、
欲求としてあんまりないんだろうなと思います。

現在のわたしたちが近代的な意味で使う自由や平等は、
そうしたメンタリティの西欧人たちが法治国家と資本主義の内側で育んだ概念ですよという話。
パリのノートルダム寺院に刻んであるのは有名でしょう。
自由と平等と友愛は市民革命を起こすんですね。
枷を外せ、重しをどけろ、官憲は市民を等しく扱え、賛同したらカンパを寄こせ、
そういう精神の自由、法の平等、経済の友愛って日本にあんまりないでしょう。
公安警察ににらまれちゃう。
環境を変えようとして動く、垣根を越えて地域を超えて言語を超えて人と関わる、いったい日本人にどこまでできるのでしょうかね。
勝ちを取りに行くスポーツ選手だけなんですかねぇ。
エアコン付けてテレビでサッカー見て税金払って不満もないもんねぇ。
というのはまあ半分冗談ですが、
おそらくこうした倫理と政治の用語と、いわゆる漢語での自由や仏教での平等とが、世間一般に混同されているんでしょうね。シーンに応じてとっかえひっかえしてるんでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。


サッカー選手はよくやってる、と。

野球も、そう思いますね。


>「古の昔から、階級の垣根を越えて実力を示す機会があるのは競技ですね」

まあ、そう興奮なさらずに

お礼日時:2013/07/14 16:10

(承前)


そうした背景もありつつ、自由とか平等とか友愛とか、根っから西洋の概念で、社会背景の異なる日本では言葉だけがやや浮いている。
西欧社会においては、人が他者や環境と、良い関係を結ぶにせよ、悪い関係を結ぶにせよ、みずからが動いて関わっていくのですね。その関わりのなかで、承認や衝突、契約や裏切り、共存共栄や駆逐的排斥などが生起する。善も悪もありますね。
自由というのは、決断や責任をかぶる力をともなった行動の様式で、されるがままに追随するような在りかたは自由とは言わない。
ところが日本では、明治になって政治経済文化のシステムも西欧から移植し概念も移植した、けれども、中世の市民政治の厚みというのは移植できない。西欧での、水利や運輸や建設や金融の職種組合が発言力を増加させていった歴史のうえに、彼らが決断したり責任を請け負ったりする政治や経済が貴族に代わって近代化を遂げたのに比べて、日本の明治時代というのは、かつて発言力のあった旦那衆の政治経済よりもエリートのシステムを重んじたわけです。だから、行動様式としての自由というのはほんとうに日本に無いものだと思います。大商人、大銀行、大地主だけのものではない、組合的風土のハイブリッドな市民文化が、日本で自由の歴史を育んでいないのですね。

そうして、機会の平等ということもまた、人間が他者環境と関わるときに立ち上がる問題であって、自由なる人間に、決断させない責任を取らせないそのかわりにお金を納めていれば動かなくてもいい、というようなシステムでは、他者環境に関わる機会そのものが個人から奪われていく。
決断を背負う者、責任の重い者にたいする法の加護と政治的優遇が発生するという面もありますし、直談判をするとか訴えるという請願行動を制限するような、他者環境に関わる機会の不平等が、個人にふりかかるわけでしょう。
西欧的意味での自由を柔らかく奪う、そして与えたる平等をなしくずしにする、といった日本の国家の進め方。スマートなんですが腑抜けですね。自分で動く、どんどん関わる、世界を拓く、ということが、ほんとうに個人レベルで低い国であると思います。
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この回答へのお礼

amaguappa様、ありがとうございます。


いや、ちょっとね、サッカー見てるとまだまだ、て思ったのですけど


>「自分で動く、どんどん関わる、世界を拓く、ということが、ほんとうに個人レベルで低い国であると思います。」

(よくよく考えてみましたら、これも、矛盾をはらむ表現かも)

お礼日時:2013/07/14 06:27

明治末期から大正時代にかけて、日本の哲学アカデミズムにシュタイナーの思想が入ってきたのですが、


そのなかに、社会三分節(社会三層化)というのがあります。
これは有機体としての社会について、三つの要素のどれも欠くことがないという分析で、
精神生活における自由、法と政治における平等、経済における友愛、を唱えています。
資本主義社会を生きるプロレタリアにとって、人間の本来性の取り戻しをどこでかなえるか、という問題があって、
時局に切迫していたのは中央集権的な国家形態をいかに批判するかなんですね。

自由というのは人間に属する本来的な強さにすぎなくて、間違った法や政治や経済によって容易に潰されてしまうのではないでしょうか。
経済的自由とか、無政府や無法の自由などは、人々が経済から得られる強さや、無政府や無法の在り方から得られる強さと理解しなければなりませんでしょう。
それは、経済や法や政治の、人間の生への介入の仕方として、間違っているものではありますまいか。

間違っているといっても、すでに近代経済は人間の精神に優劣をつけ、人間の存在に強弱をつけていて、
とても、19世紀ドイツ哲学の土壌で語りえたような、労働の共同性のみに立脚する経済(地域通貨制など)というのは今さら描けません。友愛、というのはそのような小さな経済が、法の下の平等によって守り続けられているかぎりにおいて、維持できる友愛のことを意味しています。

法や政治は平等の原理で人々をただ守らなければならないはずなのですが、国家が経済をコントロールするとき、市民を守ることはおろそかになります。
つまり、競争経済もよくないし、政治的友愛もよくないということになります。とにかく介入やコントロールはいらない、と。
人間は、政治に守られて法のもとに平等でいれば、自分の自由をもち、自分の生活を友愛経済のもとで動かしていくのだが、産業主体の経済のゆくえが危惧される、、、というのが、まあ、100年ほど前の欧州を牽引するドイツにおいてなかなか進歩的な見解だったわけです。
これは妙な残骸となって日本に残っているのも感じ取れるところです。

ところで、日本の当時に、シュタイナーはそぐわないものであったといえると思います。
知の傑物、隈本有尚は神秘家シュタイナーに傾倒し、
日本的霊性の鈴木大拙は神智学者シュタイナーを読みこみ、
善の研究の西田幾多郎はゲーテ研究家のシュタイナーを通り過ぎ、
西田批判をした唯物主義者の戸坂潤は幾何学者シュタイナーを学びました。
でも、上述の社会三層化論を初めて国内に紹介したのは、右翼思想家の大川周明でした。
自由と平等と友愛が、極右活動に転化したのですね。

キリスト教の風土で、市民社会を成熟させ、資本経済を築き上げ、個人を見つめたヨーロッパの文脈から離れると、人間の本来性とか、倫理とかいった問題も具体的にならなかったのですね。
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この回答へのお礼

いやあ、そりほどでも。

お礼日時:2013/07/14 06:18

平等を訴える者は不平等に目をむけ、不平等と違いを履き違える。


自由を訴える者は不自由に目をむけ、自由と我がままを履き違える。

人は往々にして互いの違いを、相手の間違いと訴える。

他者をも包み込むは、実に難しきことかな。
常にわが身を振り返り、道を歩まんと欲す。


時々、他者の自由の見解が理解できませんでした。
“Liberty”と“Freedom”
なるほどの見解でした。

そんな考えが欠片も無かったので、対応がまったく思いつかない。
他者理解が一歩近づいて、宿題が増えました(笑)

質問者様も回答者様も、ありがとうございました。
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この回答へのお礼

ちょっとカンニングさせて

お礼日時:2013/07/14 06:10

 「自由」について話す時、少なくとも「2つの自由」があることを考えねばなりません。

一方は“Liberty”そしてもう一方は“Freedom”この違いを理解して居ないから
>自由と平等は互いに矛盾する権利もしくは思想ですから、同時には存在できませんね。自由は差別を生み、平等は自由を束縛しますからね。
などの誤解が平然と罷り通ってしまうのです。声の大きな人間が大手を振って通る様な世界、これが自由を否定する考え方であり、他者を認めないとの考え方の典型でもある。それは少なくとも力関係を前提とする前近代と少しも変わらず、従って近代人ではないとのことにもなる。思索ある者はこうした考え方をしない。
 何となれば、自由とは「議論することから始まる」とのまさに近代そのものを前面に出しているものであるから。
 少なくとも「平等」の前提には「自由」が存すること。これだけは常に忘れることは努々忘れてはならない。

この回答への補足

TANUHACHI様。

失笑されても仕方有りませんが、以下、自分なりの回答を得ましたので、補足致します。


(freedomとliberty、辞書的意味に法律的解釈を添えて)
freedom・・・(抑圧や制限といったものが無く)自分で好きなように行動(思考や言論)出来る状態をさす。
(例)「内心の自由」は100%自由であり制約が無い。対して、「信教の自由」(等等)は、「他者の基本的人権を侵害しない限りにおいて」という制約がある。ただし、制約(限界)はあっても自由は自由(「「信教の自由」なんて無い」とは通常言わない)なので「freedom」で良い。
free・・・「自分が思ったようにすることが可能なこと(ただし、法律上「制約」はある)」
charge・・・「~させる、~を課す、(責任を)負わせる」

liberty・・・「束縛や拘束などからの解放(自由)」という暗示がある。
(例)「植民地支配からの解放(支配からの自由)」
たぶん、「奴隷(的身分)からの解放」
おそらく、libertyを渇望する者から見て、現状は「酷い状態」にあり、その酷い状態からの「解放」をlibertyと呼ぶ。

release・・・「解放する側」の視点より。手放す、放棄する、など。

(政治的に、いわゆる「リベラル」とは)
liberal・・・「他者の意見を尊重し、理解しようとする意思」→(それがあると、結果的に)「変化を肯定する」「知識の拡充を促す」


以下、辞書に載っていた例文をデタラメに(disorderly?)並べました。

(1)
You are free to choose whatever you want.(欲しいものを自由に選んでいいよ)
I charged myself with a task.(私は、その仕事を引き受けました)
He was released from his debt.(彼は借金を免除されました)
(2)
You are free to go anywhere you wish.(何処なりと好きなところへ行っても良い)
They gave her the freedom of their house.(彼らは彼女に家を使って良いと許可しました)
She was given the freedom of the house.(彼女はその家に出入り自由となりました)
(3)
I took the liberty of using your car without your permission.(失礼ながら、無断であなたのクルマを使いました)
Prisoners long for liberty.(囚人は自由の身となることを切望する)

さて、注目して頂きたいのは、(3)の「無断で~を使いました」という言い回しでlibertyが使われていること。
法律的には、その無断の行為がどのように評価されるかというのは、「そうせざるを得ない重大な理由(目的)があった」(「緊急避難」とか)、そういう場合には(本来、権利者本人の許可が必要なんだが)仕方が無い、むしろよくやった、と褒められる場合がある。そこでlibertyが使われているのは、なるほどと思いました。

ただし、それがただなんでもなく、自分が遊びに行きたかったから、とか、気晴らししたかったから、とかでは、単なる侵害行為になってしまいます。ある意味、それでも、その結果(非難される・批判される)を被ってでも、「自分が遊ぶには、これを無断借用するしかない」「気晴らしのためには仕方無い」で、それこそ、自己責任でやっちゃうとすれば、それはlibertyかも。


まあ、freedomも勘違いしたり、行き過ぎる・やり過ぎると、非難・批判される(認められない)わけで(それが100%無いのは内心の自由くらいなもので)、
libertyも「現状はこんなに酷い、それをなんとかするために(緊急避難的に)、(他人の権利を行使したりなど)した」という理由が、立派なものであれば立派である(と認められもしよう)が、「本当に、それが必要だったのか?(いや、そんな必要は無かった、だから補償だけでなく、賠償もしろ)」と問い詰められてしまいそうな場合もあって、
両者は似ている。が、上記くらいの違いがある。

「It is free of charge」なら、何の対価も無く手に入る。それで、やましく感じる事なんて(法律的には?)全然無い。そういうものです。
一方、「飢え死にを免れるために、コンビニに入って「お握りをくれ」と交渉する」、これがlibertyというものかもしれません。

補足日時:2013/07/18 18:46
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この回答へのお礼

TANUHACHI様、ありがとうございます。


>「“Liberty”そしてもう一方は“Freedom”この違いを理解して居ないから」

ちょっと待って下さいね、これから調べないと


>「何となれば、自由とは「議論することから始まる」とのまさに近代そのものを前面に出しているものであるから。
 少なくとも「平等」の前提には「自由」が存すること。これだけは常に忘れることは努々忘れてはならない」

卒業式なら大拍手、なんですが、これから調べないと
・・・調べたら、補足させていただきます。

お礼日時:2013/07/14 05:59

ジユーだ、ビョードーだ



○自由と平等は互いに矛盾する権利もしくは思想ですから、同時には存在できませんね。
自由は差別を生み、平等は自由を束縛しますからね。
自由社会で矛盾が同時に存在できる条件は唯一、機会均等、つまりチャンスが平等に与えられるというだけですね。
チャンスは平等に与えられるが、その後は差別になりますね。
自由の無い世界も悪くは無いですよ。江戸時代の士農工商社会は農民が侍になることはできませんからほとんどの人は農民で楽しく暮らせたわけですからね。難しいことを考えることも無いし、試験勉強もありませんからね。
選挙に行く必要も無いですね。
ただ、農民に生まれた優秀な子供はつらいですね。どうしようもない悪代官でもへつらわないといけませんからね。
近年であれば、欧米人が主人で、アジヤ人は奴隷階級という植民地時代もありましたね。こんな差別がいいのであればどの国も独立しないですね。日本が欧米と戦争してがんばったおかげでアジやの多くの民族が奴隷階級から解き放たれたわけで、日本に感謝しているところを見るとやはり自由がいいんでしょうね。
確かに、差別社会のほうがやりやすくはありますね。ただトップになるものは世襲制に近いものでしょうからトップが優秀であれば、国民は何も考えなくてよいですね。一方、間違えば北朝鮮や中国のような国になりますね。
でも、自由も愚民が多いと大変なことになりますね。選挙で選ばれたものが愚民代表ですから国家が運営できるかという問題がおきますね。日本人もここ何年か経験したことですね。
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この回答へのお礼

mmkyさん、旧いね、古いよ。(失礼)。


>「日本人もここ何年か経験したことですね」

ん?
自由で良かったじゃん!

お礼日時:2013/07/14 05:43

 それは「自由と平等」を位相の異なる概念として理解しているから、二択の形にならざるを得ない短絡的な思考様式であるといえます。


 少なくとも「自由」は「平等」を保証する前提であると共に、「平等」は「自由」によって構築されているともいえます。
 J.S.ミルによれば、「自由とは相手に異見を表明させることを約束する相互の信頼に基づく」とされています。簡単にいえば「僕は貴方の意見には賛同できないけれど、貴方がその意見を主張する自由だけは命を掛けても守る」との意思表明でもある。
 一方的な自由は相手に対する抑圧と同じである。
尚、「個人主義」とはそうした哲学的な位相を前提とするスタンスであり、経済的枠組みである「社会主義」と比較することは不可能であり、無意味かつ無責任な比較といえる。
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この回答へのお礼

TANUHACHI様、ありがとうございます。


>「J.S.ミルによれば、「自由とは相手に異見を表明させることを約束する相互の信頼に基づく」とされています」

卒業式なら口笛でももって大歓迎、


>「尚、「個人主義」とはそうした哲学的な位相を前提とするスタンスであり、経済的枠組みである「社会主義」と比較することは不可能であり、無意味かつ無責任な比較といえる」

「無意味かつ無責任な比較」
ありがとさん。

お礼日時:2013/07/14 05:36

民衆を騒がせないための飴と鞭ですよ。


一見正反対のもののように思うけれど、
よくよく、よくよくよーく考えてみると、
自由と不自由のような反意の概念じゃ
なくて、敵か味方かというような対立の
概念でもなくて、「支配者の権利と義務」の
押したり引いたりするベクトルの裏返しの
動きだということに気づく。

自由をよこせ!・・・判った、判った。締め付けを少し緩めたぞ?
平等にしろ!・・・判った、判った、なるべく同じように分けたぞ?

でも、柵で囲われて繋がれてることは変わらない。
全体の総量だって変わらない。配分を均しただけだ。

世間を下から見ていると、結局どちらも嘘っぱちじゃん。
現実に私たちには手に入らない空理空論じゃん。

・・・と思えてくるけれど、法律で社会を
規制する官僚・政治家・政党とか、社員に
給与を支払う経営者とかの上から目線で
見下ろすと、単にふるう采配の裏表でしか
ないことに気づいちゃう。

この二つについて考えちゃうこと自体が、
組織や集団に属して上位者に支配されなきゃ
生きていけないことへの暗示的な自覚なんだぴょん。
まあ、一種の題目なんだと思うのですよ。

昔で言えばナマンダブや南無妙法蓮華経、
今なら自由だ平等だ、と。

例えば、人生を道に例えてみるとしますね。
良くある話じゃないですか。

でも、吊り橋もあればすれ違いが出来ない細い道、
崖っぷちでしかも相当崩れてる道もあります。

道、という考え方自体が自由でも平等でも
ありますよね。
そりゃ、草原の真ん中に一本道なら、どこを歩こうが
好き好きだけど、現実には道を逸れてはまともに
歩けない事の方が大半。
砂漠なんかじゃ道を外れることは自殺行為だし。
道が見えなくなる程、砂漠で道から離れることは
ないよね。 てことは、道が見える範囲もまた、道と
いうことだよね。

ビル街でも吊り橋でも海沿いの国道でもね。

自由に通れると思えば自由。止まったって歩いたっていい。

でも、誰もどこに向かえばいいか教えてくれないのは無責任だわ、
何故私を大切にしないの?なんて考える人には不自由で不平等。
誰もが自分の意思で道を通るしかない、と思えば自由で平等。

でも、道が無かったら自由も平等もなくなっちゃう。
道があるから自由と平等という考え方が自動的に生まれる。

お上が決めたルール、自然の摂理、それらは全てこれらの
道と同じようだな、って見方はいかがですか?

だから、通勤通学に毎日通る道について、それが自由か
平等か、なんて考えることなんて滅多にないし、今まで
誰しもが歩いてきた、自分の人生の長い道について、
自由か平等か、なんて考えたって今更どうしようもないので、
多くの人は通りやすい道だったかそうでなかったかばかり
考えてしまう。 道、それ自体を自在に選べたことなんて
余り考えない。 通らされた、通るしかなかった、と思ってる。

無数に道はあるのに、自分の意思で自在に
その道を好きに行き来できる人はまれだよね。
既にある「道」を疎んじて「未知」を重んじる。あほらしいよね。
もしかしたら、この二つの語だって、同じコトバかも知れないのに。

それでも暇になるとついついこれに足を取られて考え始めて
しまいますよね。
そもそも自分でもどういう結論がひらめきたくて考え続けているのか、
よく判らなくなっちゃうのにね。

一つの解決方法として、「酔う」というのがありますよね。
もう、どこを通って帰ってきたやら往くのやら。
それでも、道を歩いていることには違いない。

言葉に囚われていた若い頃、ジユウとジュウをよく混同して
使いそうになってた・・・ジユウを手に入れようとして、
手渡されたものはジュウだった・・・単なる語呂合わせじゃ
なくて、本当にそうやって自由の為に銃をもって死にに行けと
言われた時代もありましたし、今もある。

どこまで行っても、どこにいっても、結局自分が歩こうとして
歩く道のことだけを考えていればいいことが判って来た時には
余り遠くまで歩かなくなってしまいましたが・・・。

つまるところ、することが無くてぼんやりしている時に
ついつい語り始めてしまう夜伽噺(おとぎばなし)の、枕詞
(まくらことば)の一つに過ぎないんじゃないかなと思うん。

結局そうしてミチびかれるから道なるものがあるのでしょう。

たまには上から目線でものを考えるのもヒントになると
思いますよー。
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この回答へのお礼

rasenkaidan様、ありがとうございます。


>「全体の総量だって変わらない。配分を均しただけだ」

♪「コムギ色に焼けてるオマエのせいさ」だって、言ってるよ

お礼日時:2013/07/14 05:22

自由も平等も理想です



サルトルは 人間は自由の刑に処せられている と言いましたが確かに

お米のご飯食べるのもパン食べるのも、パスタ食べるのも自由な時が多いですが

じゃあ仙人の様に何も食べずに山で生きたいとか 逆にケーキやピザやお好み焼きを

食べたいだけ食べたい 自由が在るかと言えば 実際には食わなきゃ死ぬし

食べ過ぎたら太って病気に成りやすくなる。

この社会 渋滞とか 失業とか 暑さ寒さで案外不自由です。

平等が自由の反対だとは思いませんが 元々DNA が違うのに平等に成る筈もなく

難病患者は自由も利かず 思った仕事も出来ず 運が悪ければ色んな事故や災害で命まで失う

何処に平等があろうか?と言いたくなるほど。

持てる人はモテモテだし 持てない人は失恋ばかり 

ただ機会だけは平等にしようと言うのが政策ですが

平等に勉強させるって 分かりもしない数学を嫌がるのを無理やり教えて赤点とって

それで機会は平等だって言っても 本当に平等か?

つまり自由と平等は人間の理想だった訳で 両方叶う可能性も将来0じゃない

選挙権は一人一票 平等です。誰に入れるかも 自由です^^
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この回答へのお礼

yuniko99様、ありがとうございます。


ちょっとナニですか、私が指摘するのもどうかと思うんですが、

>「自由と平等は人間の理想だった訳で 両方叶う可能性も将来0じゃない」

「機会の平等」については言及して下さり、ありがとうございます?


>「選挙権は一人一票 平等です。誰に入れるかも 自由です^^」

こころして、だれかにいれたいものですね。

お礼日時:2013/07/14 05:11

人間が群れて暮らすことを必然とする動物である限り


無制限な自由も
完全な平等もありえないわけですが、
そういった矛盾を前提として現代国家と福祉社会が存在します。
これらは前記2つを保障しつつ、その存在ゆえに前記2つをそれなりに制限し、様々な問題に対処してきました。
義務とかいう嫌らしい副作用もそのひとつです。
でもそのいやらしさがすごくいいというひとたちも存在します。
愛国主義者がそのひとつでしょう。

要は誰であってもいい目ばかりすることは出来ないということですが、
しかしこれは今にいたってもなかなか理解されないようです。
特に選ばれた人間たちには、ですね。
頭はいいのに、ですね。
やはり人間には自己中が最後の難病なのかもしれません。
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この回答へのお礼

>「人間が群れて暮らすことを必然とする動物である限り
無制限な自由も
完全な平等もありえない」

komaas88様、ありがとうございます。


>「要は誰であってもいい目ばかりすることは出来ないということですが、
しかしこれは今にいたってもなかなか理解されないようです。
特に選ばれた人間たちには、ですね。
頭はいいのに、ですね。
やはり人間には自己中が最後の難病なのかもしれません」


http://www.youtube.com/watch?v=p8ZBvtcwT-s

・・・みんな、難病を抱えているのかもね。

お礼日時:2013/07/14 07:53

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