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神護石はいつの時代のものでしょうか。どの神護石にも沢と水門があるということは、水源を護っているとしか考えられないのですが。稲作をするために水を護る時代、弥生時代ではないのでしょうか。

神護石を見てきました。雷山神護石、鹿毛野馬、杷木、女山、おつぼ山、高良山、共通するのは水門があること、山の中腹にあることでしょうか。石垣が護っている物は水源としか思えないのです。女山で広型銅矛が出ているということで、見に行ったのですが、個人所有で所在不明ということでした。須恵器が出ているので鹿毛野馬は7世紀にしているようです。時代を確定できるような遺物はほかに出ていないのでしょうか。見にに行く前はのろし台があったのではないかと考えていました。中腹ということは山頂よりどんな煙かがよくわかるのではないか。筑紫平野を囲むように神護石がならんでいるので、筑紫平野への敵の潜入を伝え合うことができるのではないかと思ったのでした。見学した後は水源を自分たちの集落で独占するための施設のように思えてきたのでした。「水争い」それが、弥生時代の争いの大きな原因だったのではないかと思うのですが。

A 回答 (6件)

No5の補足です。


www.city.takeo.lg.jp/info/data/20110215otubo.pdf‎
この資料の16ページ目以降をご覧になると、参考になるかもしれません。
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神籠石という名称の付与は明治以降のものではないですか。


どのようなものに神籠石という名前をつけるのかもはっきりしてないようです。
異なる目的で作られた石を用いた遺跡的なものを定義不明で神籠石と呼んでいる現状を踏まえるなら、神籠石とはいつの時代のものか、どういう目的で作られたものかという探り方をしても目標の達成は難しいでしょう。
神籠石という呼称の共通要素を探るのではなくて、自分で調べていくつかの場所では共通概念を適用できるところを選び出して、その選択した遺跡に関して検討を深めてはいかがでしょう。
あるいは水争いに関わる施設跡、あるいは水利施設跡、あるいは水利はむしろ不便な山城跡というような視点で、その説や視点で適当に検討を進められそうな遺跡を絞り込んではいかがでしょうか。
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 No2の追加です。


 
 銅製品だけを考えると、弥生も含まれますね。
 http://inoues.net/science/wap.html

 次に、水争いについてです。
 確かに、それもあると思います。でも、それが最大の目的であるならば、如何にもお粗末過ぎるし、巨石文化を経ての時代でもあることから、もっと城壁を高くしたのではないかという意見もあるようです。
 また、立地条件の地質を考えると、水源を独占する為には小さ過ぎませんか?
 さらに、数も限られているような気がします。

 そこで面白いサイトをご紹介します。
 国内の争いとなると、蘇我氏VS物部氏ですね。
 ところが、物部氏の縄張りと重なるところに、神守石があるようですよ。
 もし、争いとなれば、それぞれの様式があっても良さそうなのに・・・・。
 或いは、乗っ取ったり、乗っ取られたり・・??ただ、力関係から考えると、物部氏は、守り。
 だから、神守石となったのでは?となると、積極的な争いという意味は、少し弱くなるかもしれませんね・・・。
 http://www.asuka-tobira.com/sogashi/sogashi.htm

 そこで、物部氏族の軍事と催事を背景にした生産拠点という意味での砦であれば、理解できる気がします。
 『単なる祭祀氏族ではなく、これらの武器を管理し、大和王権を支える有力な軍事氏族でもあった古代氏族の物部氏族特有の軍事と祭祀性を背景にして神籠石列石が構築された可能性が高かったという考え。』いずれにしても、権威の象徴+防塁+祭事+生産力の拡大等々が目的かと・・・。?

 以下に、風水説を含めたサイトを、ご参考に記します。
 http://seikotutop.web.fc2.com/data5/kougo.htm
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ただの与太話のような印象だけになりそうなので少し補足。



日本書紀には、白村江の戦いで負けた後に山城を5つ(だったかな)造ったという記録があります。そしてその内の3つくらいは場所が分かっていません。神籠石の山城を、これに関連付けて解釈したのが、7世紀の根拠の出所です。しかし、記述に残るおおよその場所と神籠石の山城の場所は全くことなるものであり、むしろ神籠石の山城のことが書かれていない(ことが書かれている)証拠と言えるものです。

しかしながら、この「神籠石は7世紀」という結論ありきで年代が語られているところがあり、出土土器や使用寸法などから7世紀と言われることもありますが、それらの根拠は薄弱で、3~5世紀に遡るものではないと言えるほど強力なものではありません。
これらは少し調べたら分かることだと思います。

ところが、それ以上のことは、やはりさっぱり分からないのです。大学の研究室などで、神籠石を調査しなおそうなどと活動しているところは無いと思います。一般の人での研究会や保存会のようなものはあるようですが、調べても何か新しいものがぽんぽん出てくるものでもなく、見識が深くなっているという印象はないです。(私が知らないだけかもしれませんが)

神籠石の山城は、1つ1つが国家事業と呼べるほどの大事業だったと思われます。もう少し注目されても良いと私は思うのですけども。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。自分でもいろいろ調べていてお礼が遅くなってすみません。何を調べていたかというと、神籠石に対応した水田遺跡はないかです。神籠石がその中に沢を含み、石垣の一部に水門を持っているのならその下流域に古代の水田があるのではないかという予測からです。大野城は神籠石ではありませんが、かつて神籠石としてあった石垣を山城として作り直したのではないかということです。一つの神籠石に一つの国(あるいは一つの環濠集落)を対応させられないか。大野城に奴国、帯隈山に吉野ヶ里、雷山にいと国、鹿毛野馬にうみ国というふうにならないかな?わたしは東北人なのでそうそう九州には行けません。誰か調べてくれないかなあ。吉野ヶ里ではまだ水田が見つかってないようなので帯隈山の下あたり調べたらどうかなあと思うのですが。

お礼日時:2013/08/19 23:19

八木奘三郎は、推古朝(7世紀初)以前としているようで、確かに現在でも、この年代ごろの記載が多いと思います。



弥生より古墳時代に多いようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …

明治33年の学会では、神籠石の性格については、神社を囲む「霊域説」と御城としての「城郭説」との論争が展開されたそうです。

また、水争いというより、古墳時代には、水田での米作りが、飛躍的に広がったそうなので、神事を含め、水源を大事にするために、水門を、守ったのかもしれませんね。
☆縄文時代の水の役割
http://www.haniwakan.com/tenji/2-4syokuji.html

水争いについて:ご参考に<私見>
古墳時代には、水軍といって、船に乗って、水の上で闘う軍隊を持っていたそうです(ヤマト王権)。闘いの相手は、百済です。場所柄、こうした性質もあるかもしれませんが、水門を囲うように築城されていることから考えると、やはり、稲作を守るような神事的な意味合いがあるのかと思いました。
http://suntory.jp/mizu-iku/kids/study/k004.html

以下、こうごいしとついた場所のことを記します。

(1)おつぼ山神籠石(おつぼやまこうごいし)
7世紀後半の白村江の戦い(663年)に関連させる説が有力
http://www.city.takeo.lg.jp/kyouiku/bunkazai/pag …

(2)帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごいし)
6、7世紀ごろ
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id= …

(3)女山神籠石(ぞやまこうごいし)
7世紀ごろ
http://kotobank.jp/word/%E5%A5%B3%E5%B1%B1%E7%A5 …

(4)高良山神籠石(こうらさんこうごいし)
6~7世紀ごろ
http://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E8%89%AF%E5%B1 …

(5)雷山神籠石 (らいざんこうごいし)
7世紀中葉とする説が最も有力
http://kotobank.jp/word/%E9%9B%B7%E5%B1%B1%E7%A5 …

(6)石城山神籠石 (いわきさんこうごいし)
5~7世紀
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2010/03/blo …

(7)杷木神籠石 (はきこうごいし)
7世紀前後
http://www.hb.pei.jp/shiro/chikuzen/haki-kogoishi/

(8)御所ヶ谷神籠石 (ごしょがたにこうごいし)
7世紀頃
http://www.crossroadfukuoka.jp/jp/event/?mode=de …

参考にして戴ければ、幸甚です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。いろいろ調べても考えがうまくまとまらずお礼が遅くなってしまいました。わたしは宮城県人ですが、昔、水田に水を引くのに村同士が争ったということがよくあったそうです。もし一つの村が、自分たちの田んぼにだけ水が来るように水路を直したら、戦争になりますよね。弥生時代の九州や中国地方はは戦争が多かったそうですが、それ以外の地方では戦争の跡があまり見られないということをどこかで読みました。神籠石の分布と戦争の跡が対応してないのかなと思うのです。また、いと国に雷山、奴国に大野城、ふみ国に鹿毛野馬、吉野ヶ里に帯隈山と、一つの国が一つの神籠石を作ったのではないのかなと思ったりもします。そうすると吉野ヶ里の水田跡は帯隈山の下あたりにあるのでは?

お礼日時:2013/08/19 23:45

個人的には、日本史最大の謎w


なにせ研究している人が少ないですから、放っておかれているような現状ですね。

白村江の戦い(663年)に負けた倭軍が、報復を恐れて各地に作った城山、それが神籠石(神護石)の山城跡だ、というのが一般的な解釈です。が、何故か日本書紀などに記述がありません。

個人的な考えですが、ヤマト政権より前の勢力が建てたものだと考えています。遺跡の範囲は、北九州から中国地方の瀬戸内海側岡山まで。
神武東遷が、宮崎を追われて逃げた先の神武たちを保護した勢力が丁度北九州から岡山あたりまで。彼は、その先の土地なら取って良いよと言われ、大阪に行って負けて和歌山をまわりぐるっと周って奈良あたりを取って後のヤマト政権となります。
私は、この2つの北九州から岡山あたりの勢力が同じものだっただろうと考えています。

与太話に付き合ってもらい、すみませんでした。
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