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  (あ) 存在は 善悪を超えている。

 ひとの存在についてです。

  (い) ひとという存在の自然本性は そこから――自由意志による選択をとおして―― 存在(生命)に善いことも そして その善いことに反すること(つまり 悪いこと)をも 自由に おこなうようである。

  (う) ただ その存在じたいは 善悪を超えている。かも知れない。

 こういう命題です。これについて 真偽・成否などについて見解を示してください。



 手がかりは けっきょく《信仰》にかかわります。 

  (え) 神は 自分にかたどって ひとをつくった。

  (お) これによると 神は おそらく――いわゆる善人悪人を問わず 誰にも等しく 雨を降らすというごとく―― 善悪を超えているはずですから その神の存在に似ている と言えば そうなのかなというところです。つまり

  (か) ひとは はなはだ不類似であるが いくらかは神に似て その自然本性において善悪を超えているところがある。かな?

 という命題です。

  (き) おそらくこれは またまたですが ブッダターの問題だとも考えられます。

A 回答 (14件中1~10件)

>「その自由を控えるという主観じしんの意向が問題になるだけです。



いえいえ、実際、侵害してはならないものが、あるわけです。
たとえば、「信教の自由」とか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
 良心・信教というような内面のことにかんしては 主観はどこまでも自由ですよ。

 さまたげるチカラは いかにあろうと外からは 何も出来ません。

 その自由を控えるという主観じしんの意向が問題になるだけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 いえいえ、実際、侵害してはならないものが、あるわけです。
 たとえば、「信教の自由」とか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 別の質問のほうでのおこたえをかかげます。

 そもそも個人の内面にとっての信仰には 信教の自由に限界はありません。限界の引きようがありません。主観の中に手を突っ込んで 信じるのをさまたげることも強要することも出来ません。


 わたしは 組織宗教が 信教・良心の自由を侵しているのではないかというその理由は くわしくは搦め手からの妨害です。
 いまでは昔のこととなっていますが 破門という処置によってその人の社会的生命を消し去ろうとする宗教組織の行為があります。社会的生命を抹消してしまうことによって その人の持つ信仰を社会的にないがしろにしてしまう。こういうふうに外からですがその枠組みを操作して 中の人間の主観を貶めることがありがちであることを咎めています。



 あるいはつまり しばしば見られる姑息な手段は 本人を攻撃するのに本人自身ではなくその家族や恋人・親友・恩師らを標的にする場合があります。つまりただちにその手段を実行しない場合には 本人にとってそのような大切な人を これこれこういう目に遭わせるがそれでもよいか? と言って本人を脅迫するに到る場合です。

 この場合も 内面における信仰がどうにかされるわけではありません。ありませんが 外形的には・ということは 口に出しての発言やそれにともなう行動としては 信仰表明やあるいは逆に破棄の表明を強いられることがあります。 

 踏み絵という手段は 信仰者には効くと言われますが これも実際には外形的なものです。押しつけられた踏み絵を踏んだとしても 内面における信仰が――多少は心理的につまりウワベのところで 動揺することがあるにしても――どうにかなることはあり得ません。あるとしたら その人本人が 信仰を放棄するときのみです。

 信教・良心は 外形的な不自由を強いられることはあっても その自由が侵されることはあり得ません。

お礼日時:2013/11/10 06:45

No.13です 懲りずに来たよ♪



角度が違うのね、・・・

横田さんらの例でいうと・・・これって非常~にっ! 人としてどうよ・・・ な事を言っちゃうことになるんだけどね。
拉致した人にも、その事情があってその人にとっての善だったりすることもあるのね~

宗教や政治、思想が入るとどれが善?って事が~~~ 戦争の理由になるね。
また、喰う為だともっと判らなくなる。
他に喰う方法が無い人たちがその方法を取らざるを得ないで行動するのは、善なの?悪なの?

横田さんらサイドの人達には悪で、拉致した側には善で、カカオを採取してる子供達やストリートチルドレンには善でも悪でもなく関係ない事なの~ 賃金が変わらずもらえる事、その日生きていける事が善じゃないの~?
でもそれが切っ掛けで世界が動くなら、その後どう動くかでそれぞれそれが善だったか悪だったか・・・また変わるのね~ またその立場からも変わるのね~

じゃあ、一体「善」ってなんだろ?
よく考えると「今の生活を維持 若しくは よりいい暮らしが出来る事」?
でも求道者はちょっと違うような気もする~
でも突き詰めると「喰ってけて、生きていける事」
生きてるという事に道を求める事も入るからね!!

う~んそうなると、人間も動物の一種なのね~と思う。
神様の定義が違うんじゃないのかな?

そうなるともっと横道にそれて、ああ、そうか。私は神が人と似てるとは思ってない。という事に通じちゃうのね~
なにせ、全知全能のものが もしいたら、これほど無力で孤独で惨めな存在は無いだろうな、と思っちゃった事があるから!
人間の感覚ではそうなんじゃないの?
すべての未来と過去を見通して何でも出来るって、何をしてもその先がすべて判っちゃうから・・・何をするかは、その内意味が無くなっちゃうんじゃないかなぁ? だって自分にとって変わらないんだもの。
そうなると・・・3つぐらいの方法が思いついて ただ見てるだけか 全知全能じゃないでいる事。
もう一つ全知全能なものを創ったら、その時点で両者が全知全能じゃなくなる気もするけど、簡単なのは目をつぶってる事かなぁ?とも思う。

神様はゆっくり瞬きをする。時に片目をつむってる。
って言う考え方はこれにも合うのね。
善にも悪にも、同じように許しを与えてるのね~

そうなると、人間にとって神様って善なの?悪なの?ってなっちゃうのね~
人間の理と神様の理が同じとは思えないのね
そうなると、人間の思う善悪を超えてる存在ではあるの、
海は死にますか、山は死にますか(さだまさし 防人の歌)に素で、そりゃ死ぬべ と思う情緒に問題ある私だからそうねじれた事を考えるのかも知れないけど。
神様にとって人も海も山も、昆虫もペンペン草も等しんじゃないかなぁと思うから。
思考する能力で、神を得る事も神を喪う事も出来るのね~

そうなると人間がやってる事も生存競争なのね~
善悪はそれぞれの心に在って、・・・立ち位置なの?
神がわざわざ創ったなら、役割なのかもしれないけど・・・
それなら善悪は人間の中にある物なのね~
絶対悪も絶対善も人が決める事なのね
争いが絶えない訳ね~、やでやで、

善悪を内包してるのは人間の心。
超えてるんじゃなくて内包してるのかな~?
内包しちゃってるからこそ、超えてるって思うのかも~
でも誰もが内包してるから、選んで行動することも可能だとは思う。

死ぬことになっても善を選ぶ(そこには心の幸福、生きるって事があるね!)ことも、悪と知っていても生きる為に選ぶ事も。
肉体と精神は互いに影響を与えながら時に選択をさせるのね~
でもAグループの善がBグループの善とは限らないのね、第三者は見てどうするかを選択するのね、大概静観だけど・・・対岸の火事ね~
第三者の選択がそのすべてのものにとって善か悪かは後にならないと判らないのね、歴史なのね、

善悪の判断は人がするけど、それがどうだったのか判らないいので、超えてるわ~ でもその後判断するのも人だから、内包なのね。
ぐるぐる循環なのね

存在は善悪を超えてるので、選択が可能とも 善悪は人の心に内包するものだから選択が可能 とも言えるのね、

だから最初意味はないのかも~と言ったのね~。
善と信じて行ったことが善かどうかは本当は分からないから。人の心の数だけ善悪はあるの

でも心に問うて、選択することは可能なの~


我ながら頭悪くて訳が分からない文章なのね~、でしゃばりすぎたのね、
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この回答へのお礼

 ふうかこうさん お早うございます。おもしろいご回答をありがとうございます。

 でも 質問のはじめに持った趣旨にしたがって その内容についてすなおに反応してまいります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 善悪を内包してるのは人間の心。
 超えてるんじゃなくて内包してるのかな~?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええ。ひとは ふつう日常生活をしていてそのふつうにおだやかな心でいるとき 悪は考えません。その意味で――生きることが善だとしますと―― 善の状態でいます。でも ときに悪を考えつきこれをおこなうことがあります。

 つまり おっっしゃるように 人間の心からは善も悪もが出て来ます。
 という人間なる存在 あるいはもっと具体的に そのような人間としてのワタシ このワタシなる存在は 善悪を超えている。のではないか?

 その器は ただ単に《善と悪とそしてどちらでもない無記》との要素から成るとは――つまりそれらの要素の単純な総和であるとは――考えられないのではないか? ほかにプラス・アルファもがあるのではないか。

 プラス・アルファが何であるか 必ずしも明確ではありませんが その存在の全体としては たとえば〔必ずしもやはり明確なものではないのですが〕生命であるといった見方が出来て その《いのち》という全体のもとに先ほどの三つの要素がおさめられている。――こういった見方です。

 言いかえると 善悪無記の要素の単純な総和だという見方に立つなら 因果論は 善因善果か悪因悪果か(無記を措いておきますが)のいづれか一つだという議論になる。善には善をもって迎えるが 悪には悪をもって対応するという世界観に行き着いてしまう。つまりは 一面的な見方に片寄って行ってしまいがちになる。


 


 つまりは
 ★ 賃金が変わらずもらえる事、その日生きていける事が善じゃないの~?
 ★ 一体「善」ってなんだろ? / よく考えると「今の生活を維持 若しくは よりいい暮らしが出来る事」?
 ☆ というふうに生活日常におけるふつうの暮らし〔がいとなめること〕が 善だという見方が ふつうなのではないでしょうか? つまりふつうというのは この場合 善の普遍的な内容を示す定義になっているのではないか?

 つまりは
 ★ 拉致した人にも、その事情があってその人にとっての善だったりすることもあるのね~
 ★ 他に喰う方法が無い人たちがその方法を取らざるを得ないで行動するのは、善なの?悪なの?
 ☆ といった事情があったりそのときの住んでいる環境や生きている情況に影響を受けたりして採る善悪の価値判断もあると言えるにもかかわらず それにもかかわらず 先ほどの《ふつうの日常生活をふつうに送ることが出来ること》が善だという定義は なおそのまま当てはまるのではないか? 拉致の犯人にしてもその指令者にしても まったく同じく当てはまるのではないか。

 特殊具体的な条件があって 善悪観に片寄りや歪みがもたらされたとしても つねに・どこでも・誰にでもあてはまるその価値観は 有効である。
 しかもその有効な価値観は 広く世界観にも成り得て 自分たち人間についてもその見方(人間観)を持つことへとすすむ。
 狭く細かく見るなら 一般にふつうの基調としての善が 悪をもつつむという見方。あるいは 少し抽象的な見方へと広げるなら ひとは おのおのワタシとして 善をも悪をも持ち得るが それら善悪を超えたところにいまひとつ別の視点を持ち得ている。――こうなるのではないか。

 言えることは ひとには マ(間)の違うことがあり 魔の差すことがある。つまり悪をもおこないうる。つまり ふつうの生活をゆがめてしまう場合もある。


 つまりは 横田さんがふつうの日常生活を送ることが出来ないようにするおこないは その拉致犯や指令者にとっても やはり悪である。(悪であると知った上で 事情や情況からマチガイを起こす)。ということになる。



 ちなみに
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 神様はゆっくり瞬きをする。時に片目をつむってる。
 って言う考え方はこれにも合うのね。
 善にも悪にも、同じように許しを与えてるのね~
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この神について人間が持つ世界観(それとして神学)は こうなります。

 たしかに 善人にも悪人にもひとしく雨を降らすのですが
 ★ 善にも悪にも、同じように許しを与えてる
 ☆ ように見えるかも知れないけれど 基本的には

 ○ 神は 善ないし悪に対して 許し(許可)や赦し(とがめない)を与えたりするといちおう思われるが ひるがえって考えるに その善人ないし悪人本人にとってみれば その主観の内において どういうドラマが繰り広げられているか これは 神と本人にしか分からない。いや ひょっとして本人にも分からないかも知れない。

 ☆ となるのでなければ 神とは言えないと思うのですが いかがでしょう。

 ★ 思考する能力で、神を得る事も神を喪う事も出来るのね~
 ☆ という神は 人間のつくった神であって それは 想像や思考の産物です。神がそのような観念であってはたまったものではありません。非思考の庭にはその霊(つまりナゾ)がやどると言いますが あくまで人間にとっては どこまでもナゾであるはずです。それでこそ 神です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 人間の理と神様の理が同じとは思えないのね
 そうなると、人間の思う善悪を超えてる存在ではあるの、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という神に似ているなら その存在であるにんげんも おそらく善悪を超えているという見方が ふさわしいと思われるのではないか。


 ★ 絶対悪も絶対善も人が決める事なのね
 ☆ は あり得ません。それは 観念の神をいだく場合に起きる善悪観ないし《絶対》観でしょう。《絶対》は 善悪を超えています。善悪の因果関係から自由なところに 人間は想定として 持つに到るに過ぎないものだからです。


 ★ 悪と知っていても生きる為に選ぶ事も。
 ☆ あるゆえに 人間は その存在が 悪をそして善をも超えている。

 ★ Aグループの善がBグループの善とは限らないのね、第三者は見てどうするかを選択するのね、
 ☆ をも超えた普遍的な《ふつうの生活感ないし生活観としての善悪論》は あるでしょうね。


 ★ 第三者の選択がそのすべてのものにとって善か悪かは後にならないと判らないのね、歴史なのね、
 ☆ ですから 全体としては 人間はその存在が 善悪を超えている。しかも同時に 個々の出来事の個別的な要素要因については 特殊具体的な善悪の判断をおこなうこともある。事前にも事後にも そして事中にもそうですし 人それぞれの心の内にあってそうですし 同じ一人のひとにとってもその価値観は時と場合と自己の成長により変わり得て 個別の判断をおこなっている。

 そのように個別に具体的な価値判断は
 ★ ぐるぐる循環なのね
 ☆ であるとしても その全体としては・存在ないし人格ないし生命ある者としては かろうじてでも善悪ないしそれらの価値判断をも超えている。のではないか。

お礼日時:2013/11/08 06:54

善悪は、そのものの心にあるだけなので・・・本来意味はないのかも~



はい!知識のない馬鹿が空気を読まず来たよ♪

存在は、ただ存在するだけで、いろんなことが起こって それをどう解釈(周りとその存在)するかはまたそれぞれなので・・・超えてるんじゃなくて意味が無いんだと思う。

存在自体には意味はないの

本人と周りの心の動きに善悪が生じるの~
自分と仲間にとって都合がいいか悪いか、その後自分の周りにどんなことが起きそうか、それが良いか悪いか・・・算盤勘定だね!

そんな風に思う。
超えてるんじゃなくて、善悪は後付け。


だから法律が必要で、文化や時代で法律が異なるのね~と思いまっす!!
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この回答へのお礼

 ふうかこうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 善悪は、そのものの心にあるだけなので・・・本来意味はないのかも~
 ★ 存在自体には意味はないの
 ☆ このような切り口での議論もあり得るかと思います。

 思いますが この問いは 少し角度が違います。

 たとえば そうですね。横田さんらが 拉致されました。それでは 因果応報の説を交えた輪廻転生の理論によれば それは なんで起こったと見るのか?

 拉致されるというのは 悪いことです。そうしますと 善因善果か悪因悪果かの理論ですから 現世または前世の過去に 悪いことをしたから その報いであるとなるのだと思われます。
 そんなことがあるか? という物言いをしました。
 【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】
  http://okwave.jp/qa/q8329251.html
 【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】
  http://okwave.jp/qa/q8323491.html

 そうして われわれ人間のおこなう思いや行ないは その因果関係としては 次のようだと述べました。

  ○ ふつうの因果論
 
    人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒人間果(善悪をふくむ)


 こういう提案ですが そうすると ここから必然的に《人間は その内に善悪をふくむが その存在じたいは 善悪を超えている》のではないか? また そうでなくてはならないのではないか? という問いが生じた。――こういう成り行きです。

 つまり

   われわれ人間は その考えることが善もあるがときに悪もある。  
   けれども その存在は いわゆる人格として・その器として
   善をも悪をも超えている。


 といったことを問うています。

 ★ 超えてるんじゃなくて、善悪は後付け。
 ☆ と見たとしても やはり全体としては じつはその《後付け》も すでに先にそのウゴキがなかったわけではないと知られるのではないか?

 ★ 本人と周りの心の動きに善悪が生じるの~
 ☆ という事態は 発生していると思われます。つまりその初めには ワタシの心でまづは思いとして発生していたものではないか?

 そうして ところが・ところが そのような善悪を思いとして生じさせるワタシも 誰であっても人間という存在は 器としては この善悪を超えている。

 だから――前世などということは DNA が同じ人間がいるはずがないのだから ナンセンスだとして さらには―― 生きているあいだにおいても いわゆる因果応報ということは じっさいにはあり得ない。こうなるはずだという問い求めです。

 つまりは 善因善果か悪因悪果かというそれぞれの見方は あくまでも部分的な一面を言うに過ぎないのであって もし因果論を言うならば 人間因(善悪をふくむ)⇒人間果(善悪をふくむ)という方程式でなくてはならない。――このように問うています。


 ★ だから法律が必要で、文化や時代で法律が異なるのね~と思いまっす!!
 ☆ これは まづ 全体としての人間なる因であり果であることの内 具体的な思いや行為について捉えようとするかたちだと見ます。しかも 法律は わるいことを禁止したり処罰したりしますが 必ずしも善悪を論じているのではない。
 そしてたぶん その代わりと言ってはおかしいですが 基本的なところでは 悪なるおこないを・つまりおのれの内なる悪を 《人間》という器として そのままみづからの内におさめて これを出来るなら善用しなさいといった方向へとおしすすめる。こういう魂胆を じつは 持っている。のではないかと思います。

 それは 人間因⇒人間果という方程式を基礎としているからではないか。こう考えます。 
 おおむね 基本的なところでは 時代を経つつ・文化の違いを超えて いわば人間理論にもとづこうとして来ているのではないでしょうか。


 存在は 善悪を
 ★ 超えてるんじゃなくて意味が無いんだと思う。
 ☆ と見た上でも 悪を他人にやられたら困るので このやろう 何だって悪をするんだ その悪をみづからの内におさめたまえと言ってやることに成らざるを得ない。それは 《存在は 善悪を超えている》から言えることだと思う。

 たとえ《意味が無いんだ》としても その上で 《器として超えている》とも見なしているのでなければ けっきょく善はいいとしても 悪に対してはやはり悪をもって対処するしかないという結論になってしまいます。

 世の中は 悪 vs 悪という対決姿勢しかないと帰結せざるを得なくなります。
 戦争の絶えないじんるいの歴史ですがそれでも世界は この悪 vs 悪の全面対決をまぬかれて来ているとも見られます。

 そのような世界を見るときに ふたつの見方がある。

 ひとつは 善因善果か悪因悪果かの因果応報説を後生大事に胸にいだき これにしたがい 善には善を 悪には悪を 極悪には全滅をという方針でのぞむ。という見方。

 ひとつには 善悪をみづからの内におさめた――それでも時にはわるいことをやらかすのですが――器としての人間因および人間果という方程式を置き 悪は人間一人ひとり みづからがおさめつつ さらにはよい方向へとみちびけという方針を持つ。場合の見方。


 それとも あいつは虫の好かんやつだ いっちょう核でやっつけてやるか。といったことになりましょうか どうでしょうか。

お礼日時:2013/11/07 06:46

>でも あなたは勇敢でしたね と言った場合 そのひとの行動について言ってるのではありませんか?



???つまり中庸とは、他人が決める事なのですか???

議論のための無理な事は言わない方が・・・・


> ★ 目に見える形に拘るのは何故ですか?
 ★ 行動規範(例えば金儲け)として、人生(例えば社訓)に何を書き込むかを議論しているのですか?
 ★ それは誰のためですか? 
 ☆ 必ずしもそういうかたちではありませんが No.8のお礼欄をごらんになってください。なぜ《存在は 善悪を超えている》という答えが必要なのかを説明しています。そして その命題を根拠づけたい。こういうことです。

子供の為に競争相手を殺して獲物を捕りました。

この行為は善?悪?

善悪はそれを行う者の心の内にあり。

詭弁ですねぇ。

殺された者の子供は何と思うのでしょう?

相手にとっては何を言っても唯の我侭ですよ。

貴方は生きる事を理解するのが先ですね。


> ★ 自分にとって『間違っている答えは』否定する。
 ☆ 問題は そういうところにはないと思います。

 賛成するにせよ反対するにせよ 誰もが自分の考えるところにもとづき これこれがあれそれの理由により妥当だと思うとか それあれの理由によりマチガイだと思うとか そういうふうに対話をすすめていくのが 哲学において 筋だと考えます。

 互いに自由に批判しあって前へすすむ。こういうことではないでしょうか


ん~~~~・・・・

反対ねぇ~~~~・・・・・

批判は当然受け入れるのが筋ですが、反対した場合は受け入れていないんじゃないですか?

反対と言う語句が出るのが問題なんでは?

どんな意見なら反対すると言うのを決めてる時点でアウトですね。

私は別に貴方が何を言おうとも良いのですよ。

私は困りませんから。




しかし私は本来、こういったやり取りは好きでは有りません。(嫌いならやるなよ?その通りですねw)

そもそもこういった苦行はもうしたくないのが本音です。(楽し過ぎるので)

生きていれば色々ありますねぇ。(別にしなくていいんですよ。私はホントに。でも心が騒ぐのです。)


泥の中でのた打ち回るのは何と楽しい事でしょう。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ???つまり中庸とは、他人が決める事なのですか???
 ☆ あなたは みづからの行動を他人に決めてもらいたいのですか????????????



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 子供の為に競争相手を殺して獲物を捕りました。

 この行為は善?悪?
 ・・・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここでの問い求めは 《存在は 善悪を超えている》です。その存在が 善そしてときには悪をおこないます。



 ★ 批判は当然受け入れるのが筋ですが、反対した場合は受け入れていないんじゃないですか?
 ☆ ひとまづ受け留めたから 反対なら反対をするということですが その場合にも 相手との合意を目指してのことです。それが 民主主義です。

 もしどうしても意見が合わないようであれば 互いに意見の相違であると捉えてそういう意味での合意に達しておくとよいでしょう。あとは ときを俟ちます。





 
 

お礼日時:2013/11/07 05:46

>理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた



   恐怖と平然に関しては勇敢、
  快楽と苦痛に関しては節制、
  財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、
  名誉に関しては矜持、
  怒りに関しては温和、
  交際に関しては親愛と真実と機知である。

これらは行動の『心構え』もしくは『規範』であって、行動そのものでは有りません。

人間性として兼ね備えておくべき理性そのものの具体例です。

例えば勇敢に行動すれば、何が起きるのでしょう?

その都度の結果は常に違う筈です。

目に見える形に拘るのは何故ですか?



行動規範(例えば金儲け)として、人生(例えば社訓)に何を書き込むかを議論しているのですか?

それは誰のためですか?



貴方は自分が納得出来る知識だけを集めて、博物館を作り悦に入っているだけです。

自分にとって『間違っている答えは』否定する。

私の事を無茶苦茶だと言うのはどうぞご自由に。

それこそが貴方に許された唯一の自由で、最大の不自由です。

悟りは表裏が最低限の出発点として、必要です。

ま、勿論貴方が悟り等に興味が無いのでしたら、余計なお世話な書き込みですがね。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 例えば勇敢に行動すれば、何が起きるのでしょう?
 ☆ でも あなたは勇敢でしたね と言った場合 そのひとの行動について言ってるのではありませんか?



 ★ 目に見える形に拘るのは何故ですか?
 ★ 行動規範(例えば金儲け)として、人生(例えば社訓)に何を書き込むかを議論しているのですか?
 ★ それは誰のためですか? 
 ☆ 必ずしもそういうかたちではありませんが No.8のお礼欄をごらんになってください。なぜ《存在は 善悪を超えている》という答えが必要なのかを説明しています。そして その命題を根拠づけたい。こういうことです。



 ★ 自分にとって『間違っている答えは』否定する。
 ☆ 問題は そういうところにはないと思います。

 賛成するにせよ反対するにせよ 誰もが自分の考えるところにもとづき これこれがあれそれの理由により妥当だと思うとか それあれの理由によりマチガイだと思うとか そういうふうに対話をすすめていくのが 哲学において 筋だと考えます。

 互いに自由に批判しあって前へすすむ。こういうことではないでしょうか。

お礼日時:2013/11/06 23:07

中庸の行動例と言うのは、無いですね。



行動を起した時点で、あらゆる選択肢は消え失せて起きた事象(因果)に対する反応・結果(応報)が生じます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★  中庸の行動例

 ▲ (ヰキぺ:アリストテレス) ~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA% …

 § 3 著作
 § 3.4 倫理学

 ・・・
 また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。

 中庸に当たるのは、

  恐怖と平然に関しては勇敢、
  快楽と苦痛に関しては節制、
  財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、
  名誉に関しては矜持、
  怒りに関しては温和、
  交際に関しては親愛と真実と機知である。

 ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2013/11/05 23:15

ふーるです。



中庸と私は言いましたが、実はこの言葉も二極の色から出た言葉なので、本質的には口にした時点で中庸では無くなります。

本質的な中庸は何処も指していないからです。

『何処でもない』が中庸の本質でしょう。

しかしそれを言葉で伝えようとすればどうしても中庸以外の文字を当てるのは難しいです。

ことほど左様に言葉は難しいです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ○ 中庸
 ☆ は――あまり知らないで言いますが―― アリストテレスのそれが有名らしいのですが それは 文字通り真ん中のことだと思いますよ。それでも案外 倫理の思想としていい線を出しているのではないかと思います。


 ただしもちろん 自由に定義して使ってよいのですから おうかがいしましょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 本質的な中庸は何処も指していないからです。

 『何処でもない』が中庸の本質でしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううん。初めて聞く説ではありますが むつかしいですね。

 《どこでもない》場合 具体的な行動を採ることは出来るのですか? 出来れば よいわけですが。


 事例を出していただくのがよいと考えます。

お礼日時:2013/11/04 21:34

そもそも善悪の存在を理解する事から始まるかと。



そして超えていると言うより、どちらかを選択せざるを得ない存在でしょう。

中庸を選ぶ以外は。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 おっしゃるとおりです。
 ★ そもそも善悪の存在を理解する事から始まるかと。 
 ☆ そして同じくそもそも 定義から始まるのであると。


 ここは 言ってみれば省略しています。

 そもそもこの質問は 次の質問でのやり取りをつうじて得られた解答をめぐって さらに一点補強すべきところがあると考えたところから来ています。

 【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】
 
 そして補強すべき点というのは 次のように説明しています。

 ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ○ (この質問の前提事項) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 1. もしわれわれ人間の存在が 善悪を超えていないならば その意志行為の因果関係は 善悪をふくむ人間因から善悪をふくむ人間果へといたるものであると言っても それはあまり積極的な意味を持たない。

 2. なぜなら 過去の或る意志行為にかんする人間因が いわゆる悪がおおきな部分を占めているならば その事由によって因果関係を 悪因悪果だと言っても それほどマチガイではなくなる。
 
 3. というのも もし存在が善悪を超えているのでなければ 人間因(善と悪をふくむ)⇒人間果(善と悪をふくむ)といった因果の系列にかんして 実質上は 悪因悪果だと見ても おかしくなくなる。

 4. つまりは そのとき善因善果や善因悪果や悪因善果の部分もあり得るだろうけれど それらは いまの事例の場合には 微々たるものだと見なされるから。

 5. つまり 存在が 因として善か悪か そして果として善か悪かのいづれかの組み合わせとしてのみ成り立っていると見なされるから。(経験行為のほかに もうたとえば生命といったようなプラス α の要素はないと見なされるから)。

 6. つまりは 善悪因⇒善悪果の組み合わせ以上の要素は何もないことになる。

 7. なぜなら 善悪をふくむものとして《人間》因や《人間》果のことを堂々と言えるのは この人間存在が 善悪(また無記)の要素だけから成るのではなく 存在には善悪を超えたところのプラス・アルファつまりはきらりと光るきよらかさがあると見なされるところから来ると考えられるのであるゆえ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 そうして この質問は質問の仕方が成っていません。とあとで気づきました。
 
 すなわち
 ☆☆(No.4お礼欄・編集済み) ~~~~~~~~~~~~~~~
 《信仰》を出して答えるなら たしかにたとえば《ブッダター》において 善悪を超えていますよという回答をもらって それでおしまいとなります。そういう性質の問いでした。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ですから同じく

 ☆☆(同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それで そのあとやっと考えついた修正案は こうです。


 ○ (修正した質問)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 悪は 存在しない。
 存在するのは 人間存在ないしその生命としての言うなれば善のほうである。
 すなわち 悪は 悪と呼ぶ現象があるのみだ。

 悪とは 善を――むろんひとがその自由意志〔のへそ曲がり〕によって――損傷させる行為である。またその損傷を受けた心の状態を言う。

 存在するのは ひとの自然本性としての善であり しかもこの善は 相対的・有限なものであるから いつしかヘソを曲げて みづからを損傷させようとすることがある。つまり ウソをつきイツワリを言うようになる。

 このウソ・イツワリが 善の損傷として――つまりは 負の善として―― 悪と呼ぶものであると。

 つまり 悪は 善の損傷であり マイナスの善である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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 このようになっています。



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 そして超えていると言うより、どちらかを選択せざるを得ない存在でしょう。

 中庸を選ぶ以外は。
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 ☆ これは じつは 別様のこたえを持っています。(回答者からは期待しています)。

 すなわち人間存在は 善と悪とそのどちらでもない無記とから成ると思われますが ただしそれらの要素だけでない。それは 何かと言えば プラス・アルファがあるのではないか。そしてそれは たとえば生命といったことではないかというものです。

 《中庸》というよりは 存在の全体としての《生命》 これがむしろ《中核》を成していて それによってひとは 人格として 善悪を超えている。のではないか。こういう問いです。

お礼日時:2013/11/04 17:41

B様、こんばんは。




「「信教の自由」の限界」は、あるでしょう。

>(お) これによると 神は おそらく――いわゆる善人悪人を問わず 誰にも等しく 雨を降らすというごとく―― 善悪を超えているはずですから その神の存在に似ている と言えば そうなのかなというところです。つまり
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 「「信教の自由」の限界」は、あるでしょう。
 ☆ 良心・信教というような内面のことにかんしては 主観はどこまでも自由ですよ。

 さまたげるチカラは いかにあろうと外からは 何も出来ません。

 その自由を控えるという主観じしんの意向が問題になるだけです。





 社会的なことがらにかんしては 相手があることですし 社会全体を相手にしているとも考えられますから 行動の自由は 理論的にも実際上も 条件づけられるはずです。

 理論としては 自分の自由がとうといほどには相手の自由もとうといという存在〔関係〕の条件があります。

 実際上としては 自己のチカラも及ばないところの社会力学なるチカラが 世の中には――たとえ意志行為として相手の自由を侵すような無効の行為であったとしても それが幅を効かせて――横行しています。

お礼日時:2013/11/04 04:17

こんばんは。





《アンチクロロベンゼン》は、
どのような経緯でそのような状態に至ったかは不明ですけれど、
───不可知論からの逃避? 孤独からの逃避? 人恋しさ? からだろうか・・・───
己れの有限性の自覚をし、
《赦し》というかたちで《世界と全面和解》をしているんではないですか。
(ひょっとしたら、自己の無知と罪深さの反省と自覚の上にか・・・)

《赦し》ているから、善・悪はどうでもいい、ということになるのでは、という気がします。
全面的な無条件の《赦し》の前では、善悪は存在しない。
存在者は善悪を超越している。
《赦し》は自由意志に基づく行為でもありますし。

しかし、
これをできる存在がいるとするならば、
たぶん、
神さまだけなのでしょうけれど・・・。

わたしは、買いかぶり得意ですから、
実は、
《アンチクロロベンゼン》に哲学性などは、何も存在していないのかもしれませんけれど(ポリポリ)。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。

 ▲ やめたくても ゆるされず ・・・投げ出して 飛び出して 喚き叫ぶよ
 ☆ 《投げ出し 飛び出す》ことが どうして出来たか?

 つまり おそらく《キミ》と《ボク》とは 同じその人であると思われ
 ▲ 夜の街を駆けるよ
 ☆ ということになっている。


 ▲ この世の全てを正すんだ ボクなら全てを正せるよ
 ☆ というそのことは
 ▲ 出来もしない誓いを振りかざし 独り善がりに酔い痴れる
 ☆ ことだったと知る。

 しかもそのあと
 ▲ 嘘でもいい ・・・ボクたちが正しくて
 ☆ というように 《独り善がり》に未練を残している。・・・

 ▲ 所詮は何も生みださないと / 気づく
 ☆ とか続きます。

 そのあと
 ▲ なにが善だ なにが悪だ もう何も分からない
 ☆ と来て また
 ▲ 許しましょう 認めましょう
 ☆ を提唱しつつ その同じ口から 
 ▲ 善でもいい 悪でもいい
 ☆ と語る。


 対象つまり世界について 何が何で どうなっているのかの認識は はっきりしていないと思われます。

 強いて言えば 《みなさん すくわれましょう》というようにうったえている。かも知れない。
 つまり
 ◇ どのような経緯でそのような状態に至ったかは不明ですけれど
 ☆ と成っていて 話を聞くこちらは 何を受け留めればよいかが ひとそれぞれに任された格好となっている。ですかね。

 どうですかね。もうひとつ強いて言えば 世の中のすがたをミラー・ニューロンとなって写している。のかも知れませんが。

お礼日時:2013/11/03 22:22

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