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敢えて簡潔に質問します。
悪法も法なりといいます。
悪法であっても守るのが法的には正しいのでしょう。
しかし人としては悪法を守ることは善でしょうか?それとも悪でしょうか?

A 回答 (16件中1~10件)

私は 普通の肉体労働者で、法律学とかは知りません。

 でも現代における悪法というのがピンときません。 何か例とかありますでしょうか?

現代では 法律はかなり弱いものの味方となる形に整備されているかと思います。

現代を問わずでしたら 滅茶苦茶な悪法とかがたくさんあったとは思います。

でも そのことの前に 少し「法とは どういうものか」を 私なりに考えてみました。

みんながおいしい魚をとるために握っている網を常識というものに例えるならば、 、その綱を手放さないように社会的な圧力(規制)を力づくの正義で守るもの というのがまず考えられます。

違反(手を勝手に離してしまった人、常識はずれな行為行動を慎まなかった人)は罰金なり、拘留なり、最悪は死刑。

が、その時に、その正義の網の目をくぐって、 一人一人のかけがえの無い命を無視し、弱くめだたない人をいじめる人がいたとします。 もっとも大切な真実が 常識の網の目からこぼれてしまった形の一例です。

いじめられてる人はするがしこ人の影にかくれて 大勢の人の目に触れないのですが、網の目がその辺複雑で あるいは雑で その弱者にはおいしい魚はとどきません。

するがしこい人はその分の魚をまんまと独り占めです。

これは資本主義社会のひずみを すべて否定的にとらえての例え話ではありません。  もし仮に、それよりも おいしい魚をより多くの人が食べるシステムがあるというなら、そしてそれを誰かが操作して隠しているというのならば、その人は確かに この例えの「ずるい人」の内に入るということは出来るでしょうが、 現実は、そのへんそういう状況ではないからです。

だからといって その全部を肯定するのでも、その中での理想の追求とかを諦めたりするというのでもないですけど、  この「例え話し」自体の意味あいは解っていただけることと思います。

網の雑な法は、いままでたくさんあったでしょう。 でも それは長い長い間に そうとう整備されてきた重みがある世界でもあるところと思います。

そこまで 言うと「敢えて簡潔」な質問とはならない。ということになるのかもしれませんが、

これは 私の知ってる人が 麻薬問題で裁判にかけられた時の感想で私の方からは 本気で確認しておきたい点となるのです。

その裁判では 私自身傍聴しましたが、 弁護側も検事側というのですか、ともかく犯罪を追及する側も、誠実な性格の弱者であるその人がどうして麻薬を所持し、多少吸うにもいたってしまったのかを追求し、かつ反省心を確かめ、ほんとに両側が結局 彼を味方していました。 最後はその何週間後無罪でした。  重みのある世界だと思いました。感動もしました。

このような 余韻にまだひたっている(一年はたちましたが)私の方からは 戦争中の日本のことを書いていいですか、 多少極端な話となってしまいます。

こうなると悪法は 悪法です。 「悪法も法なり」なんてとても言えたものじゃないです。 人を殺して法ですか?  ほんとうの姿は 戦争を肯定する法なんて法じゃないです。  もし、生きている 同じように生きてるすべての人のかけがえの無い命を 真剣にというか あたりまえに考えるならば、 そんな悪法を守ることは 悪です。

でも そうしなければ殺される時はどうなのでしょう。

国の法であれば 自分だけじゃすまないかもしれません。

自分や 自分の周りの人達の命や生活を守るためには、悪法でも守らなければならない状況を作ったやつらが、悪です。  

今 こうした時代だから 私は、この真実をえらそうに当然のこととして書いてます。  私なら 同時だったら怖くて 真実は知ってても言えなかったでしょう。

でも そんな時代にも命をかけて、 悪法は守っちゃいけないと叫んだ人達がいます。  今は亡くなられている ある私の知ってる方です。

その人は 死ぬ時には うなされたまま死んでいきました。 ああひどいことをした中国の人達の謝っても誤りきれない。 ああ悪いことをした 悪いことを         

自分自身は命をかけて戦争を止めようとした人ですよ、実際殺されかかってもいますよ。 その人が、もう意識もうろうとしている時に、それでも


これは、もう 言葉が無いですよね。

悪法は悪法だとほんとうは叫ぶべきなのでしょう。 そんなの守らない勇気が ほんとうは必要なのだと思います。

たぶん それは「善か悪か」という問題ではなくて、 私たちの善の心の意志や勇気が問われている 私たちの心の成長や修行と関わる問題なのだろうと思います。

わたしに、そう言う資格があるとは思いませんが、 でも、 その人のことを思うと 心はふるえ、涙が出てきます。  

悪法は 悪法、 どんな時にもそう言えるような人間になりたいです。
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この回答へのお礼

法には雑さと複雑さ、それに重みがあって
それ全部を肯定、否定できるものではないようですね。

悪法は守っちゃいけないと叫んで亡くなられた人達の話には心を打たれました。

>「善か悪か」という問題ではなくて、 私たちの善の心の意志や勇気が問われている 
同感です。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/19 10:54

損失>悪法を守る事 なら悪


損失<悪法を守る事 なら善

かなぁ??

        
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この回答へのお礼

自分でもよく分からなくなりました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/19 10:20

参考程度の追伸


#13さんの「但し悪法かどうかの判断が個人的な主観によって変わると言う致命的な問題もあります。」を引用させていただき、これはその通りですね。2つの例を挙げましょう。
まず、戦時中リトアニアの代理大使の杉浦さんがユダヤ人に外務省通達に反して良心にのっとってビザを発給したこと。日本に帰国後、外務省は首になりましたが晩年認められましたね。
2つめは、有名な「私は貝になりたい」これも戦時中、上司の命令に従ってアメリカ軍捕虜を殺したということで、戦後裁かれ戦犯死刑になった例ですね。
法、通達、命令に従うかどうかについては、最後は自身の良心なんですね。その良心の決定とはつまるところ自己責任なんですね。誰しも長い人生で大小の程度はあれ、一度はおとづれますね。生死の判断にかかることはすくないでしょうけどね。
法、通達、命令はあくまで集団の規範でしかないということをいいたいのですね。
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この回答へのお礼

>最後は自身の良心
>法、通達、命令はあくまで集団の規範でしかない
同意します。
守るも守らないも革命を起こすも結局は人なんですよね。
また考えてみます。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/19 10:38

悪法を守ることは法治国家においては善、個人の内面に於いてはそうとは限らない、むしろ悪でしょうね。


但し悪法かどうかの判断が個人的な主観によって変わると言う致命的な問題もあります。
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この回答へのお礼

自分でもよく分からなくなりました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/19 10:21

mmkyの意見に全く同感です。

私もそれを含めて説明したかった所です。単純に多数決の原理ですね。ご指摘有難う御座います。話が発展しますが、要するに大多数の民衆私含めて愚かな存在なのでしょう。聖書関係を見るとたまに、牧童と羊の関係の話が出てきますね。多分大多数の民衆は羊であり、少数の優れた牧童に導かれて生きている(支配されて生きている)のが実際でしょうか(ぼやき)。悪法だろうと、良い法律だろうと民衆は操作された世論に思考せず、ただ他の人の進む方向に右へ習えで進むだけ。悪法も善法も何でも有りですなー。私は周りの動きに合わせるだけの、無能な優秀な羊ですが、民衆は常に体勢に従順な羊でないといけないと思います。
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この回答へのお礼

大体言われるところの意見は分かります。
ただ、答えはどちらかにはならないようで
私にとっては難しい問題となりました。
また考えてみます。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/19 10:29

追伸参考程度に


#10の回答に、「悪法その物を大多数の人が否定していれば」という文がありましたので引用させていただき、逆に「悪法その物を大多数の人が肯定していれば」としましよう。こんなことは民主的選挙の行われる世界ではないと思われるかも知れませんが過去の歴史にはたくさんあったんですね。ドイツではユダヤ人隔離法、アメリカでは日系人隔離法などいろいろあるんですね。これは悪法ですが大多数が支持していたんですね。禁酒法だって悪法ともいえないですね。でもそれによりマフィアが資金源にしたから悪法にはなりましたがね。つまり、多数決といえども悪法は生まれるといいたいわけですね。正義が少数にあり人命にかかるとなれば多数といえども人間として守ってはいけない法もあるということですね。アウシュビッツ村の住人は法律を遵守して数百万のユダヤ人が粛清されたのを知らん振りしてたりね。このようなことが実際におこるんですね。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/19 10:31

すみません最終的な答えが抜けていたようですが、悪法でも守ることが基本的に善でしょう。

しかし悪法その物を大多数の人が否定していれば実質的に守ることは膳でなく(悪に近くなる)。ただ善悪を合法違法に考えれば、実質だけでなく、法律その物を変える事により法的に善悪を考えるのが多分実際の所と思います。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/19 10:24

日本の法律の場合考え方として、<人は法律により支配されるので無く法律を人が支配する>と言う考えが根底にあるようです。

つまり法律は一般的に考えられているように絶対的な物でなく、<人々が平穏に暮らせる為の単なる道具>という感じらしいです。ですので基本的に悪法も当然守る事が善ですが、悪法自体を日本人の大多数が否定すれば悪法その物が違法な物(悪でしょうか)に成るようです。これが選挙で選ばれた人が法律を決める間接参加型の民主主義で最終的に日本人皆の意見で決めた法律と言う仕掛けだそうです。時々違法が合法かの争いに法律その物に焦点があたり、法律その物の存在自体が問題になることが有ります。例えば古い時代に作られた法律が現代に全くマッチしていない時など、法律その物を変えたり、解釈を変えたりして弾力的運用?をしているのが現実です。がんばって答えを見つけてください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/19 10:23

民主主義社会に存在する法律観は大別すると2つになります。



まず「権威主義」の発想。これは法である以上、法は擁護されるべきという考え方です。
そもそも、世界に生きる大多数の人間は特定の分野における「論理性」というものを
完全に理解できないという考えが根幹にあります。人類が文化を形成してより
数千年経過しており、その知識体系は複雑かつ膨大なものとなってしまいました。
一人の人間がそれを学ぶためには、膨大な時間を犠牲にしなければなりません。

ではどうやって我々はその論理の正当性を評価できるのか?我々はその評価を専門家に
委ねることにより社会を運営しています。その専門家の意見を集約したものが
法なのです。実際に、素人の近視眼的・浅薄な意見よりは信頼性があるものと言えます。




もう一方は自由民権運動の基礎となった「社会契約」の発想。
提唱者は社会のどの教科書にも載っているはずのルソーさんやロックさん、カントさん等です。
市民一人一人が主役となる理論ですから、権威主義と違って一人一人が勉強する必要があります。
この意味ではしんどい理論かもしれません。



まず、法は擁護されるべきである。これは先の権威主義と同じです。しかし理由が異なります。
我々はその国家に生きる以上、自動的に「社会契約」という仮想の契約関係にあると
考えられるためです。この契約は合意の上に成り立っているわけです。
つまり、社会的に明らかに不適当な法律がある場合、我々はそれに合意しないこともできます。
言下に「法より大切なものがある場合にはそちらを優先することができる」ことを認めているのです。

この理由から、より正しい法に換えることが可能となります。
ただし、もう一つ重要なルールがあります。多数の人間で構成される社会契約を換えるには
"法律の下で正規の手続きを踏む"ことが必要とされるのです。



俺はこの法律が悪いと思うから守らない、というならず者の理屈は通用しません。
法を換えるのにもまた、多くの人の合意があってこそなのです。
現在の日本国憲法ですら、日本帝国憲法上の正規の手続きを踏み"改正"されたものなのです。



よって質問の答えは、「法である以上守るべき。ただし、正規の手続きを踏めば換えることが出来る」となります。
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この回答へのお礼

自分でもよく分からなくなりました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/19 10:20

んーこの質問は質問者自身が自分の答えをお持ちでは?



失礼。

私も敢えて簡潔に回答します。
善・悪両方。
皆さんの意見、まとめてにました。えっ勘違いか?
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この回答へのお礼

自分でもよく分からなくなりました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/19 10:19

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