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 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論
 
 第六章 さとりとは 何か

 1. さとりとは 真理がすべてにおいてすべてであることである。

 2. 真理とは 変わらざる真実である。

 3. よって 世界のすべてにおいて真理が真理であることが わが主観において成っていることである。

 4. たとえば あのときアイツは これこれのことを言った。けれども それは あれそれの事情とひろく情況とからひとつの判断をして自己表現をしたものだ。・・・というふうに すべての世界条件を知ることが出来て その場の相手やまわりの関係者のそれぞれについて 事情が分かるということ。

 5. 真理を知ると 世界との・そしてなかんづく自己自身との 和解が成る。真理はきみたちを自由にする。

 6. わたしは 真理であり 道であり いのちである。という命題をたずさえてわれわれは生きる。この動態が さとりなる実存である。

 7. 未完成であり 人間にとっては 未完成なる実存の道が さとりの成就した状態である。

 8. ただし すべては ひとりの人間における主観の問題である。そこにおさまるコトである。よって主観は すでにつねにひらかれていなければならぬ。未完成だと言っているのだし 言っているからには。


 ☆ 思いっきり自由なご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。
 賛成だとしても 添削をもどうぞ。



 9. このさとりなる動態主観は 相手とのあいだに言わば肝胆相照らす状態にあることが出来る。未熟なる状態をも互いに分かり合える。そこでは いくら批判をし合いまたけんかをしても 仲が傷つくことなく こわれることもない。――これが さとりだ。

A 回答 (9件)

===回答:


「さとり」とは【今まで、見えていなかった(感じていなかった)事が、見えるようになること】と言えます。

例えば、以下のような事、が自分の経験から検証した結果、正しい認識だ!と理解できたとき、それは1つの「さとり」であると思います。
ーーーーーー(以下のような事)
日本という国は、真似る事が上手な集団であるため、欧米を真似て民主主義のフリをしているが、その実態は「独裁者を生まないタイプのファシズム国家」である。
ーーーーーー

ちなみに上記の「ファシズム」は「個人よりも集団を優先する」という意味で、「出る杭は打たれる」「沈黙は金」という日本人の伝統にあてはまる。しかし日本は族長の合議制的な手法の政治であったため、独裁者を必要とはしないタイプの【(血液の)A型ファシズム国家】として区別すべきモノであろう。私は、芸能界・出版業界・自動車業界・福祉教育業界、で働いてきたが、下に参考として載せた「一般的に知られているファシズム」の中に書かれている事の多くを経験した。だが、これはタブーなので、社会のオモテのみしか扱えぬ、知識人と呼ばれる人達の言論など、ニセモノであり、40歳を超えても、洗濯機や冷蔵庫を買う事すらできない私のような極貧哲学者こそ、ホンモノの知識人なのだ。
(質問者様、p兄貴よ、洗濯機と冷蔵庫を、プレゼントしてくれ、クリスマスだし・・・^^)

ーーー

参考:一般的に知られているファシズム

ファシズムは、急進主義的で権威主義的なナショナリストの政治運動である。
第一次世界大戦中に、ソレル主義のサンディカリストの政治的視点とナショナリズムを結合した、イタリアの国家サンディカリストにより最初に構築された。通常は極右と記述されるが、学術的な合意の1つではファシズムは右翼と左翼の両方の影響を受けている。
ファシストは国家の価値や、政治や経済などの体制を、コーポラティズムの観点に従って組織しようと努める。国家が、国家の強さを保つために暴力の実行や戦争を行う意思と能力を持つ、強力なリーダーシップと単一の集団的なアイデンティティを必要とする有機体的な共同体であると信じる。彼らは、文化は全国民的な社会とその国家によって創造され、文化的観念が個人にアイデンティティを与えると主張し、したがって個人主義を拒絶する。彼らは国家を1つの統合された集合的な共同体とみて、多元主義を社会の機能不全の様子とみなし、国家が全てを表すという意味での全体主義国家を正当化する。
また、一党制の国家の創設を主張する。つまり、議会制民主主義制度、及び、議会制民主主義思想に対して拒否反応を示す。それゆえに、議会制民主主義によって制定された法制度等に対して全面的に価値を認めない基本的な立場をとる。 ファシストは、ファシストの国家の一部とはみなされず、かつ同化を拒否するか同化できない、文化的または民族的な集団による自治を拒絶し抵抗する。彼らはそのような自治を創設する試みは、国家への侮辱や脅威とみなす。ファシストの政府は、ファシストの国家やファシスト運動への反対を禁止し抑圧する。彼らは暴力と戦争を、国家の再生や精神や活力を創造する行動であるとみる。
ファシズムは平等主義や物質主義や合理主義の概念を拒絶し、行動や規律や階層的組織や精神や意志を支持する。つまり自己の目的を絶対正義とするから、「目的のためには手段は選ばず。」というような論法をとる。権威を嵩にきて合理的論拠(具体的証拠)もなしに威圧するような高飛車な論法で相手を事実認識させ(固定観念を植え付け)ようとしたり、聴衆を扇動するようなことが多い。合理主義に価値観を認めないがゆえ、その論理展開での基本的な正邪善悪の倫理的価値基準において「ダブルスタンダード」(例:民族宗教の倫理価値基準と唯物史観社会主義の倫理価値基準の同時並行的な利用)に代表されるような、全く矛盾する価値基準の教義などを利用、引用することが多い。 彼らは、排他的で経済的な階級をベースとした運動であるという理由で自由主義やマルクス主義に反対する。ファシストは彼らのイデオロギーを、経済的な階級闘争を終了させて国家的な団結を確実にする、経済的に超階級的な運動として提示する。彼らは、経済的な階級には国家を適切に統治する能力は無く、経験豊かな軍人たちからなる優秀さを基礎としたエリート集団が、国家の生産力の組織化や国家独立の確実化などを通して支配するべきであると主張する。ファシズムは保守主義を、社会秩序への支持という部分的な価値と把握するが、しかしその変革や近代化に対する典型的な反対には賛成しない。また、自分自身を、強制的な変革を推進する国家管理された近代化を主張する一方で、多元主義や独立した主導権という社会秩序への脅威に反抗することによって、保守主義の利点と欠点を把握した解決方法であるとする。

この回答への補足

 おたまFJWRさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ( a )★ 「さとり」とは【今まで、見えていなかった(感じていなかった)事が、見えるようになること】と言えます。
 ☆ おそらくそれは  個々の経験事象をめぐってその外見では知り得なかったことがらを――つまりはたとえばやはり因果関係についてのくわしいことがらを――知り得たという事例を言っていますね。


 質問の趣旨説明欄に書き込んだ内容は 微妙に違っています。とまづお伝えします。

 すなわち
 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
  4. たとえば あのときアイツは これこれのことを言った。けれども それは あれそれの事情とひろく情況とからひとつの判断をして自己表現をしたものだ。・・・というふうに すべての世界条件を知ることが出来て その場の相手やまわりの関係者のそれぞれについて 事情が分かるということ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ひとつに ご回答の( a )は この(4)の事項を――それは ひとつの具体的な事柄に過ぎないので―― 一般化して(抽象化して)まとめた命題であるかとまづ考えます。

 つまり この一つ目は むしろほとんど同じ内容であるのではないかというお応えです。

 もうひとつは ただし――そして 質問者としてのこれらの趣旨説明だけでは いま振り返ってみて舌足らずだったと省みていますが それとしても―― このような《すべての世界条件を知り得るようになるという気づきや再認識》は じつは そのような具体的なまた経験事象としてのことがらだけを言うためのものではなかったのです。そのことが 第二点です。


 どういうことか?
 問題は 《真理》です。変わらざる真実(つまり 真実とは 主観真実のことです)であるからには 普遍性としての絶対なるコトだと捉えられます。
 つまりは 早い話が この真理とわれとの関係から来て ヒラメキとしてのように得られる認識である。というわけです。

 あたらしい気づきや再認識のその事柄は 経験事象ですが それが得られる仕組みというのは すでに経験世界を科学的に知ろうとして得られるその成果とは 基本的に違うということが 問題です。つまり科学ではなく ヒラメキのごとくにです。

 ヒラメキは それではそろそろヒラメキを得たい 持ってみようと言って得るものではない。こういう意味です。

 


 したがって このように《気づきや再認識》が 経験事象だけのことではないという意味で わが(4)なる説明は ご回答の( a )なる命題とは おそらく根本的に違っている。微妙なところから始まって 根本的に違いを持つ。――まだ 説明が足りないかとも思いますが まづは こういう反応を差し挟みますが いかがでしょう。





 つまりは 回答者からも例証が出されています。これを さらに検証してみましょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 例えば、以下のような事、が自分の経験から検証した結果、正しい認識だ!と理解できたとき、それは1つの「さとり」であると思います。

  ーーーーーー(以下のような事)
  日本という国は、真似る事が上手な集団であるため、欧米を真似て民主主義のフリをしているが、その実態は「独裁者を生まないタイプのファシズム国家」である。
  ーーーーーー
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この例証としての説明にかんして いくつかまだ飲み込めないところを書き出してみます。
 (あ) 《正しい認識》というときの《ただしい》とは 何を言うのか? これが まだ自明ではありません。

 (い) つまり おのれの主観において マチガイが無いと感じたし 理性による推論においてもそう捉えたといったことでよろしいのでしょうか?

 (う) けれども それでしたら その《ただしさ》は 普遍性が保証されているとは言えませんね。どうしましょう?

 (え) 《民主主義のフリをしている》というとき その《フリぶり または 真似ぶり》は いったいどの程度であるのか。これを規定してみる必要があるのではないか。そうでないと まったく《欧米》のそれにそっくりと見紛うほどであるのか それともそれとは似ても似つかない程度でしかないのか。これが 分かりません。

 (お) 《真似ることが上手な集団である》ということは 一見しただけでは 違いが分からないほど似ているということなのでしょうか?

 (か) とは言うものの むしろその前に 《欧米の民主主義》というのは 誰もが・どの国もがすばらしいものとして仰ぐような歴史的な社会現実だと言えるでしょうか? つまり先ほど《真似るのが上手だということで ひょっとすると そっくりである》というほどなのかも知れないと思ったわけは 欧米の社会がすでに手本としてもマチガイがないという前提で この例証の議論をおこなっているように思えるからです。

 (き) そこらへんは けっきょく簡単な短い議論では 無理ではないでしょうか。つまり この例証は あまりにも簡略すぎる議論におわっている。ということではありますまいか。

 (く) それでもただし 《ファシズム》については 補論が添えられています。ヰキぺのファシズムなる事項も添えらえています。

 (け) ★ 「ファシズム」は「個人よりも集団を優先する」という意味で、「出る杭は打たれる」「沈黙は金」という日本人の伝統にあてはまる。
 ☆ そうですね。この場合も 《集団》についての規定がまだ自明ではないですね。

 (こ) たとえば
 ▲ (ヰキぺ:ファシズム) ~~~~~~~~~~
 ( b ) 彼らは、文化は全国民的な社会とその国家によって創造され、文化的観念が個人にアイデンティティを与えると主張し、したがって個人主義を拒絶する。

 ( d ) 彼らは国家を1つの統合された集合的な共同体とみて、多元主義を社会の機能不全の様子とみなし、国家が全てを表すという意味での全体主義国家を正当化する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった説明を聞くとき ( b )における《社会全体に普及している文化ないし文化的観念が 個人にアイデンティティを与えている。つまりは 言わばおのれの存在理由をそこに見い出させている》といったときの《大小いろんな形態としてのまた上下いくつかの階層における集団》を言っているのでしょうね。

 (さ) ということは おそらく その集団は いわゆる《くうき(空気)》の支配する社会情況および個人の心的現象を指して言っているものと考えます。――けれども そのようなクウキによって運営される集団というのは 単純に《出る杭は打たれる》という仕組みだけで成り立っているものではないはずです。

 (し) いまちょうど

 【Q:日本教について】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8392624.html

 という質問を挙げていますが それもこのクウキ社会のことを扱っています。それはそれとしても この国家全体としては 日本教がクウキとしてかもし出されている社会にあっては そこでは日本教のシントウ派やブッダ派やキリスト派やまたマルクス派が それぞれ宗派として息をし棲息しているのであり――ここからが 問題ですが―― もし出る杭があれば歓迎するという場合もあるわけです。出る杭を泳がせた恰好でそのまま出るようにさせたり だから そのときは必ずしも打たないで放っておいたりすることも あるわけです。

 (す) おそらく 
 ★ 「独裁者を生まない〔タイプのファシズム国家〕」
 ☆ というのは そういう社会のからくりのことを言っているのかと思いますが それにしても では どういう事態なのかという問いは とうぜん持たれるからには 説明をしなければならないことでしょう。(こちらが してしまいましたが)。

 (せ) けれども それでは わたしたちは どうするのか? これにもこたえて初めて さとりであると言えるのではないか。どうでしょう? つまり
 ★ ・・・・・正しい認識だ!と理解できたとき、それは1つの「さとり」であると思います。
 ☆ このごとく《ふたつのさとり みっつのさとり・・・》をも説明されるなら さいわいです。

 (そ) 上の(し)の繰り返しになりますが もし必要だと思ったときには 《沈黙は金》ではなく 《銀》にも《銅》にも自由自在にさせられ得ます。そういう集団志向なのだと考えられますまいか。

 (た) ということの意味は 
 ★ しかし日本は族長の合議制的な手法の政治であったため、独裁者を必要とはしないタイプの【(血液の)A型ファシズム国家】として区別すべきモノであろう。
 ☆ といった規定が あまりにも素っ気ないものに見えるのですが いかがでしょうと言おうとしています。独裁者ないし鶴の一声が ここでは―― 一時的にはですが――欲しいといった場合もあるはずなのです。

 (つづく)

 

補足日時:2013/12/25 18:50
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この回答へのお礼

 (つづき)

 (ち) クウキ社会は いわゆる集団主義では必ずしもなく 集団のために考え動く個人を立てることはあるのだと考えられます。たしかに集団志向なのです。極端な例として言えば それこそ個人主義が その集団志向にとって有益だと見るなら それをも採用します。

 (つ) 《これこれのことは 自己責任でなさってください》といった不特定の人びとへのうったえも出され得ます。その場合は 《合議》とは 別なのだと言っているかに見えます。

 (て) 《個人よりも集団を優先する》と言いますが 《集団志向においては 個人を優先したほうがよいという場合には そうする》というようなことではないか。

 (と) このようなそれとしては 或る単位社会としての集団にとってのよいことを目的として 集団志向がおよそ個人の一人ひとりにも浸透しているという社会を実現しているその反面で もし《集団主義》というのなら それは 集団の内外でのヨコの人間関係の問題ではなく そうではなく 国家が二階建ての構造に成っていて そのような上下の階層間のタテの関係において ときに 長いものには巻かれて行くといったクセがあること。これを言っているのではないか。

 (な) このタテの関係としての集団主義は たしかに全体主義のごとく・しかもクウキなる場の磁力線をでもつうじて つねにと言ってよいほど波及するようです。

 (に) まづは 市民どうしのヨコの関係における集団志向――あるいは チームプレーやチーム・スピリット――とそして 市民と公民とのあいだのタテの関係における集団志向主義〔としての全体主義〕とは 分けて捉えたほうが 生産的な議論をすすめることができるかと考えます。
 
 (ぬ) あるいは
 ▼ ( d ) ・・・・多元主義を社会の機能不全の様子とみなし
 ☆ というとき 対立する二項やあるいは多項をも 言わばやはり泳がせておくかのように 《機能させる》ことはあるかと見られるからです。

 (ね) こういった議論が 
 ★ タブー
 ☆ だということでしょうか? それとも もっと裏事情や内幕ものがありましょうか。

 (の) あるいは
 ★ 社会のオモテのみしか扱えぬ、知識人と呼ばれる人達の言論など、ニセモノであり
 ☆ というとき それについての例証もお聞きしたいものです。ウラ事情は タブーなので 触れてみたものの けっきょくもったいぶっただけだということでしょうか。




 すでに長すぎる文章になっています。切り上げます。

お礼日時:2013/12/25 19:10

ま、大筋に於いては良いと言うか、方向は良いです。



ただ、9の文を読むに、超人思想と勘違いしていますね。

自分と世界の関わりは変わりませんよ。

悟っても腹は減るから食べますし、逆に食われもするでしょう。

四苦八苦から逃れる術はありません。

ただ、魂が心に縛られなくなるだけ。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ま、大筋に於いては良いと言うか、方向は良いです。
 ☆ そうですか。それはよかった。

 ★ ただ、9の文を読むに、超人思想と勘違いしていますね。
 ☆ ん? 《超人》ですか? ちょっとおもむきも何もかもが違うように思うのですが。

 もっとも《超人》とは 《大地》であるとか《大河》であるとかあるいは要するに《自然》ですね といった意味でもあると言いますが。

 それにしても どういう意味で同じだとわたしが勘違いしていると 勘違いなさったのでしょう。


 ★ 自分と世界の関わりは変わりませんよ。
 ☆ ん? (9)の事項でしょう? コミュニケーションしている相手と《肝胆相照らす》と言っているのですが?

 つまり必ずしも かかわりは《世界》といった広い対象でもないのです。人間です 相手は。
 
 ★ 悟っても腹は減るから食べますし、逆に食われもするでしょう。
 ☆ このたたき台からは さとりとは《腹が減らない。食べなくてもよい》と言っていると聞こえましたか?

 ★ 四苦八苦から逃れる術はありません。
 ☆ これも ん? ですが つまりたとえば

 ☆☆ 9. ・・・未熟なる状態をも互いに分かり合える。
 ☆ と言っています。必ずしも《苦》の問題ではありませんが 《未熟なる状態》は 言ってみれば大きくは同じ場所であるとも見られます。場所ないし領域が同じであると言えるかも知れません。

 ですから 《四苦八苦がどうにか成る》とかいうふうには言っていません。よ。

 ★ ただ、魂が心に縛られなくなるだけ。
 ☆ 《こころが魂を縛る》かどうかはよく分かりませんが 心は世のシガラミの中にどっぷり浸かりつつ 同時にそこから確かに突き抜け 抜きん出ている。さとりにおいてはです。それを たましいと言うかどうかを別として。


 すりあわせをするなら こんな感じでしょうか。

お礼日時:2013/12/25 22:28

説明不足でしたね。



私の言った超人思想とは、この場合『今出来ない事や、亦は人の身には不可能な事を可能にする人間になる』です。

悟りとは得ても何も変わりません。

悟ったからと言って、突然人格が変わる事は無いのです。

全ての(例え一人でも)人と分かり合えるとか、傷付く事が無い等は、人の身では叶わぬ話です。

故に「超人思想」と表現しました。


何も得られず、何も失わず、ただ、是を在るを知る
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 趣旨説明には
 ★ 『今出来ない事や、亦は人の身には不可能な事を可能にする人間になる』
 ☆ という意味で《超人》なる思想が語られている。ということですね。

 具体的には
 ★ 悟りとは得ても何も変わりません。
 ☆ わたしが変わると言っているのは 具体的な話としては 次です:
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 4. たとえば あのときアイツは これこれのことを言った。けれども それは あれそれの事情とひろく情況とからひとつの判断をして自己表現をしたものだ。・・・というふうに すべての世界条件を知ることが出来て その場の相手やまわりの関係者のそれぞれについて 事情が分かるということ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに いちど省みたのですがさらにまたいまも 舌足らずだったと思うのですが この内容は わざとあいまいな表現で言っていたなと考えます。

 つまり 具体的な事例を書いたにもかかわらず 必ずそのような内容が経験的に実現するのだというかたちではないことを あいまいにして書いていたと思います。

 つまり 《後づけだとしても 過去の事情や情況がかんたんにその真相が分かるか》という問題があるかと いま気づきました。

 けれども たんじゅんに言いますが そういうことは《ありうる》と言えるのではありませんか? つまり
 ★ 〔悟りとは得ても〕何も変わりません。
 ★ 何も得られず
 ☆ というような規定にも ならない。のではありませんか? 断定的に《何もあたらしいことは起こり得ない》とは言えないでしょう。



 ★ 悟ったからと言って、突然人格が変わる事は無いのです。
 ☆ ひとつに 《突然》とは書いていませんが いま上に述べた変化は 突然に――つまりヒラメキをとおして――おとづれると仮定しましょう。

 ふたつに 《人格が変わる》と言いましたか? 
 ☆☆ 7. 未完成であり 人間にとっては 未完成なる実存の道が さとりの成就した状態である。
 ☆ と言っているように この《実存》のかたちが 言わば《人格》であると見ますが たぶん言っていないと思います。

 つまり ワタシの実存なる人格が動態として生きる。その人格の内に 過去のことがらについての気づきや再認識が起きる。そういう変化がある。――こう言っています。



 ★ 全ての(例え一人でも)人と分かり合えるとか、傷付く事が無い等は、人の身では叶わぬ話です。
 ☆ 言っていることは まづ:
 ☆☆ 9.・・・相手とのあいだに言わば肝胆相照らす状態にあることが出来る。未熟なる状態をも互いに分かり合える。
 ☆ ですが おかしいですかね? それほど奇異であったり 非日常の特異なことだとも思いませんが。

 もうひとつに:
 ☆☆ 9.・・・そこでは いくら批判をし合いまたけんかをしても 仲が傷つくことなく こわれることもない。
 ☆ 《心が傷つく》のは 基本的に 自分がおのれの心にさからって意志行為をおこなうときです。傷つけることを知って そのように意志に反する意志行為をおこなう場合です。

 趣旨説明として言ったことは 《批判をし合いけんかをしても 仲が傷つくことはなく こわれることもない》です。《有り得る》とわたしは考えます。論証とか証拠は要らないと考えますが。つまり さとりとして いままだ実現していなくとも――未完成の状態において―― ワタシなる動態を推し進めていくと言っているのですから。(予感のうちに 主観として或る種の自信があるといったかたちです)。



 ★ 故に「超人思想」と表現しました。
 ☆ シガラミの内に浸かっていつつ その縛りや枠組みを突き抜けていくと言いましたが これは おそらく そうでなければ いちいち さとりを問題にすることはない。こう考えるからには わざわざ《超人》なる規定をする必要はないと考えます。もしくは 大自然としての――ふつうの自然本性に立ち帰ることとしての――《超人》であるなら ふつうの人生として有り得る。こう考えます。


 ★ 何も得られず、何も失わず、ただ、是を在るを知る
 ☆ 《ただ、是を在るを知る》がよく分かりません。《是》とは 何を言っているのでしょう?

 《ただ、是を在るを知る》が さとりの内容なのでしょうか? ちょっとよく分かりませんでした。

お礼日時:2013/12/26 00:27

人と判りあえるという事は、別に悟ろうが悟るまいが起こり得る事です。



つまり起こりえる事も起こりえない事も、どちらも悟りとは別にある。

気付く事も悟っても悟らなくても起きる事です。

なべて、在っても良く、無くても良く、在っても悟り、無くても悟り

「是を在るを知る」は何かに因らず在る事を知る事です。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人と判りあえるという事は、別に悟ろうが悟るまいが起こり得る事です。

 つまり起こりえる事も起こりえない事も、どちらも悟りとは別にある。

 気付く事も悟っても悟らなくても起きる事です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづ 《人と人とが分かり合える》ことがあり得るということですが 前回での
 ★★(回答No.4) 全ての(例え一人でも)人と分かり合えるとか、・・・は、人の身では叶わぬ話です。
 ☆ という見解からやや変わったということですね。確認です。


 もっとも わたしが言っているのは 《肝胆相照らすあいだがらにおいて 互いに未熟なる状態もが分かり合える》なのです。

 そして 《悟ろうが悟るまいが起こり得る》こと一般を言っているのではなく あくまで
 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
 5. 真理を知ると 世界との・そしてなかんづく自己自身との 和解が成る。真理はきみたちを自由にする。

 6. わたしは 真理であり 道であり いのちである。という命題をたずさえてわれわれは生きる。この動態が さとりなる実存である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という前提条件があります。そういうふうに読んでみてください。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 なべて、在っても良く、無くても良く、在っても悟り、無くても悟り

 「是を在るを知る」は何かに因らず在る事を知る事です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ふうむ。よく分からないのですが たとえば
 ★ 何かに因らず在る事を知る事
 ☆ これは:

 (あ) 《何かに因らず》というのは こちらが言っているような《ヒラメキをとおして〔のみ〕》といったことを指しているのでしょうか。

 (い) ふつうは 感性としての知覚および概念をあつかう理性としての知解 これらに因って在る事を知るのですが。

 (う) 《在る事》というのは 人間としてのワタシの存在を言うのでしょうか? それとも 世界全般のことでしょうか? そして それは 両方でもよいわけで 問題は そのとき言うなればその《世界‐内‐存在》であることを――つまり 実存を――自覚するという問題によって・またその自覚だけによっているのかどうかにあります。

 (え) すなわち そうだという場合 それが 《是を在るを知る》なのでしょうか? そして そういうかたちで いまのさとりを定義しているということでしょうか?
 
 (お) つまりそれだと まだ漠然としているように見えます。《わたしは世界にある。ゆえに さとりを得ている。・・・》 このようにだけ 定義しているように見えます。

 (か) ★ なべて、在っても良く、無くても良く、
 ☆ 分かりません。 在る・無いというのは 何のことですか? 何がですか?

 (き) ★ 在っても悟り、無くても悟り
 ☆ この説明は いただけません。さとりを定義するのに すでにその言葉で説明をしているからです。

お礼日時:2013/12/26 09:30

B様、こんばんは。




(あ)「仮定(気付き?)」→(い)「論証」→(う)「真理?」


「さとった!!」という場合、多分、ただ(あ)ということではないですか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。

 順序が違う。と申し上げねばならないと考えます。


 (1) それが何であるか 人間にとって分かるか分からないかが分からないところのナゾの何ものかを心に受け容れる。つまり 非思考の庭が成る= 信仰という動態の発進。

 (2) その非思考の庭において ヒラメキが得られる。つまり 気づきである。そしてその気づきをとおして それまでの心のわだかまりが 癒えた。世界と和解できた。そして 自分自身とも和解できた。

 (3) このように(1)から(2)への順序で ナゾのなにものか=つまり真理と そしてワタシとの関係が 成り かつそれが動態として生きられて行きます。

 (4) このように実存していること。これが さとりなる状態である。と言っています。そして 問うています。

お礼日時:2013/12/28 22:57

B様、ありがとうございます。




>「このように実存していること。これが さとりなる状態である。
と言っています。そして 問うています。」

→論証→真理(未完成だと言っているのだし)、と続くのですね
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この回答へのお礼

 ☆☆(No.6お礼欄) (1) それが何であるか 人間にとって分かるか分からないかが分からないところのナゾの何ものかを心に受け容れる。つまり 非思考の庭が成る= 信仰という動態の発進。
 ☆ この《非思考の庭が わが心に成った= つまり 信仰が与えられ始まった》そのときに 《真理》とわれとの関係が成ったと言っています。


 つまり そのように初めから・初めに 《真理》が来ます。

 未完成は われの側です。



 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/12/29 06:51

おはようございます。




>「初めから・初めに 《真理》が来ます。

 未完成は われの側です。」


「その福利は、国民が、これを享受する」
日本国憲法も古臭くなってきたのか
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この回答へのお礼

 よく分かりません。

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/12/29 09:50

bragelonne様、こんばんは。




>「初めから・初めに 《真理》が来ます。

 未完成は われの側です。」


「その福利は、国民が、これを享受する」
日本国憲法も古臭くなってきたのか」


>「よく分かりません。」

「未完成」というのは、常に、「社会」の側であるはずです。

それを「未完成は われの側」と言われる
なるほど、「高貴」ということを感じさせられました。



「その福利は、国民が、これを享受する」
・・・いかにも古臭い一文なのです。
「日本国憲法マンセー」な私から見ても。
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この回答へのお礼

 ★ 「未完成」というのは、常に、「社会」の側であるはずです。
 ☆ 《神=真理と そして われ との関係》で 未完成は われの側ですと言っています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 それを「未完成は われの側」と言われる
 なるほど、「高貴」ということを感じさせられました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 高貴と感じたというのは 責任のようなものを自分自身のほうに持って来る また謙遜をもしているといったその態度のことですか?

 未完成でなく完成した人間は ひとりもいないと見るのですから へりくだりではありません。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 「その福利は、国民が、これを享受する」
 ・・・いかにも古臭い一文なのです。
 「日本国憲法マンセー」な私から見ても。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《真理とわれとの関係》が 主題です。


 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/12/29 19:53

>「☆ 高貴と感じたというのは 責任のようなものを自分自身のほうに持って来る また謙遜をもしているといったその態度のことですか?」



責任感、ということと思います。


>「☆ 《真理とわれとの関係》が 主題です。」

もし、私に娘が生まれたら、「マリ」と名付けましょうか。
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この回答へのお礼

お礼日時:2013/12/29 20:48

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